私は初めて訪れたベイカー街221bのドアサインが掲げられた門をくぐり、銀行の金庫のような電子ボイスの洗礼に目を丸くした。
階段を上がる「シャーリーお嬢様」の背におっかなびっくり着いて行きながら、何が起こっても驚かないぞと心に決める。
良く磨かれているアイアンの手すりとアラビック模様のような壁紙は、ロンドンによくある空襲を免れた運の良いアパートそのものだ。

部屋の説明を聞きながら、私は嘆息した。
一言で言い表すなら、品の良い部屋。
シャーリーが心なしか誇らしげに間取りの説明をするのを、私は感激に近い感情でもって聞いていた。
都会のど真ん中で、こんな素敵な部屋で暮らせるなんて。
軍人あがりとはいえ、私だってクラシックな家具に囲まれて過ごす、ロマンティックな日々に憧れる気持ちはある。
じゃなきゃ、あんな(クソ)ハーレクイン小説なんて書いていない。

しかしそんな私のうっとりした気分を持続させてくれる配慮は、この非現実的な空間や人間にはさらさらないらしい。
通された居間を見回して、私はぱちくりとまばたきをした。
わざわざ指摘されるまでもなく、そのとき私は間違いなく間抜けな顔をしていただろう。

「おかえりなさい、シャーリー」
「ただいま、なまえ」

大人三人がくつろいで座れるだろうアンティーク調の大きなソファに、少女がひとり横たわっていた。
髪色はシャーリーと同じ黒、しかし光の反射か、更に触れ心地はやわらかいだろうなと察せられるほどになめらかだった。
目が覚めたばかりらしく、ぼんやりと周囲を見回している眼差しはどこか曖昧で、ゆらゆらと視点が定まっていない。
少女といっても、もしかしたら実年齢はもっと上かもしれない。
アジア系の人種はとにかく幼く見えがちだ。
頬と頬を軽く触れ合わせ、一言二言小さく言葉を交わしたふたりを見て、わざわざ説明されるまでもなく親密な関係であることはすぐに見て取れた。

「……部屋の数を聞いた限り、ここのフラットシェア、三人は厳しいんじゃないの?」

ぽろりと口から転がり落ちたのは、そんな間の抜けた呟きだった。
もっと気のきいたことを言えば良かったと我に返ったときには、その少女(女性と形容するのは、頬の丸みや四肢の発育状態からなんとなく避けられた)は姿勢よく立ち上がり、優雅に一礼していた。
その姿を見て、私はシャーリーと初めて会ったときのことを思い出していた。
少女のお辞儀は、モルグの死体袋から颯爽と立ち上がった正装乗馬服姿の白雪姫のものと、まるでコピーしたように同じで、ダブって見えたからだ。

「初めまして、ミス・ワトソン。あるいはドクター。お会いできて光栄です。わたしのことはなまえと呼んでください。シェアに関しては問題ありません。わたしは頭数にカウントされていないので」
「あ、ああ、それじゃああなたはシャーリーの親友とかで、今日はたまたまここに遊びに来て――」

いや、それにしてはさっきまでくつろぎ“過ぎて”いた。
身にまとっているものも、いくらロンドンが夏真っ盛りで連日最高気温を更新しているさなかとはいえ、肩を剥き出しにした白いワンピースだけ、というラフ極まりない格好だ。
それは誰がどう見てもナイトウェアだった。
さすがにその姿で、この街の往来は歩けないだろう。
私がよっぽどヘンな顔をしていたのを見かねたのか、“シャーリー・アンドロイド”はまるで現在の時刻を告げる時報のような平坦さでさらりと答えた。

「なまえのことは気にしなくていい、これは僕のペットだ」

「This is」が「こちら」ではなく「これ」と聞こえたように感じたのは気のせいだろうか。
いや、そんなことよりも、

「ペット!?」

私の素っ頓狂な声にふたりは全く動じることなく、同時に肩をすくめた。
ひとりの美女はそれがどうしたと言わんばかりに。
ひとりの少女は困ったように苦笑しながら。
言わずもがな前者がシャーリーだ。

「なんだ、ペットだったら君も飼ってくれて構わない。大型のものだったら、さすがにミスター・ハドソンに許可を取ってから――」
「いや、そうじゃなくてね!? だって、彼女、」
「ミス・ワトソン、奇異に感じられるかもしれませんが、正真正銘わたしはただの人間です。ただシャーリーのペットとしてここに住んでいるというだけで」

困ったような苦笑を浮かべたまま、少女――なまえが、穏やかに晴れた日の木漏れ日のような心地良い声音で言った。
その笑みを見て、それが新しく訪れたシェアメイト候補の緊張をほぐすための冗談なんかではなく、ただの事実なのだということを知る。
私はついさっき何が起こっても驚かないぞと心に決めたこともすっかり忘れ、ただ絶句するしかなかった。

――だって、ペットって。
我が故郷イギリスは、私が離れている間、いつの間に人間が人間を飼うような趣味を容認するようになったというのだ。

「よろしく、ジョー。あなたのような人と同居できるなんて、At nothing can be more,――この上ない喜びです」

シェイクスピアの一節を歌うように諳んじると、なまえはにっこりと微笑んだ。
年若い容貌と相まって、毒気を抜かれて口をつぐんでしまうほど愛らしい笑みだった。
馬鹿みたいに繰り返すが、それはシャーリーの美貌を恐ろしく彷彿とさせた――乗馬鞭のしなる音と共に「My pleasure」と笑んだシャーリー・ホームズを。

今時シェイクスピアを持ち出して挨拶するだなんて、まるでお堅い英文学科の気取ったインテリ染みた印象を抱いたが、このアンティークな部屋の中央に立つなまえには他のものを挟む余地などないほど、完璧に、非の打ち所なく、相応に美しかった。
シャーリーに促され、この部屋で最も居心地のいいと思われる一人がけのソファによろよろと座り込む。
なんだ、私の常識がおかしいのか。

「……ああ、ジョー。言っておくが、こう見えてもなまえは僕と同い年だ」

私のなまえを見る目で何を考えていたのか察したのだろう。
カウチに腰掛けたシャーリーにさらりとそう告げられ、私はまた何度目か分からない素っ頓狂な声を上げた。


(2016.04.28)
- ナノ -