「後生でございます。いまここで、その高踏なご尊顔を拝することをお許しくださらないのならば、どうぞ速やかにわたしをお手打ちにしてくださいまし」

ゆらりと、煙管の雁首から煙が立ち上るように女が目を細めた。
表紅梅に裏紅、裏梅と呼ばれる美麗なかさねを覗かせる絢爛な衣を纏ったなまえは柔らかく微笑んだ。
得も言われぬほど凄絶に、緩慢な動きでその袖を指先でなぞりながら。

視覚へ強く訴える鮮紅の着物に対比して、覗く肌は抜けるように白い。
それは容易く死に装束を彷彿とさせた。
黒々と輝くがらんどうな瞳が、熱を帯びたようにざわりとぬめる。
見る者全てを魅了するように。
引き結ばれた唇が滴るように光った。

「それともわたしのような穢れた衆生の血はやはり醜く、死を以てしても贖うことなど出来ぬほどに、あなたさまの御手を汚すには不相応なのでございましょうか……」

罪深いことを口にする後ろ暗い喜び。
歌うかの如く囁いてなまえはまた瞳を潤ませたが、しかしそれを悔いる気持ちは草の露ほども無いのは、その唇が陶酔にふるえているさまで瞭然だった。

僅かに開いた障子の隙間から夜が忍び込む。
裏梅に散る黒髪は入り込んできた夜を吸ったように黒々と光る。
烏の濡れ羽もかくやとばかりに、新月の夜が深まるにつれ増していく色艶。
恍惚に細く揺れる息をそっと吐き出し、女は目の前で直立不動している男を見上げた。

「――何ゆえ尊く美しいわたくしの手と刀を、仰々汚さなければならないのか、愚劣な貴女にも明らかでしょう。いま自ら述べた理由で充分です」

歓喜。
それは紛れもなく陶酔の極み。
防毒面越しのくぐもった声――その声を拝することの出来る喜びで、なまえの脳裏へは興奮のあまり体の奥底から爆ぜてしまうのではあるまいかという愚劣な杞憂が過った程だった。
なまえは己れに向けられる言葉たちの一音一音に、身をふるわせた。
文字通り「賜る」という言葉を体現している状態。
女は感極まったようにとうとう双眸から白藍の雫を音もなく流していた。

「ああ、ああ、なればどうか、どうか――せめて醜いわたしが、これ以上愚かなことを重ねぬよう自死いたしますところを、その御目でお見届けくださいませぬでしょうか」

床に伏し、濡れた瞳で男を見上げるさまはひどく脆く美しく醜く、夜めいて熱く冷たい。
何をか言わんやと歎息した男に取り縋るように、なまえはただ後生でございます、と繰り返す。
伸ばした白い指は彼に触れることなど出来るはずもなく、ただ空を撫でるだけに留まった。

顎を少し引くようにし、無様に取り縋る女を一瞥すると、比叡は優美な仕草で踵を返した。
背を向ける際、仰々しい防毒面に隠された清らかなかんばせに、薄く微笑を浮かべていたことなど、誰が知り得ようか。
ひとり部屋に残されたなまえは、静かに豪奢な帯を首に回した。
まるでそうすることが大昔、生まれ出づる前から定められていたかの如く。
丹念に縫い織られた金糸がちくちくと肌を刺す。
涙が一筋滴った。

毒にも薬にもならぬたかが女の命ひとつ失われたところでなんの問題があるだろうか。
現し世に残されたのは、裏梅に散る黒髪と、だらりと垂れた白い腕。
女の亡骸はただ夜のように。


(2015.06.14)
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