「ねェ、この頃アイツと仲がイイのは、なにか考えがあってのことなの?」

よく晴れた青空には、千切れたような薄雲が点々と散っていた。
いつものように休憩を取る面々から少しく離れ、積み上げられた資材置き場の木材へ、なまえとケイは揃って腰掛けていた。
煤や泥で汚れた彼の頬を、不自由な片手の代わりになまえが拭う。
彼女も顔と言わず四肢と言わず汚れていたものの、自分のことは後回しにして、楽しそうに笑いながら「兄さまのお顔は本当にきれいですね」と丁寧に拭いていく。
とうに見慣れた光景だった。
如才ない所作でなまえは手拭いを使い、ケイはされるがまま目を閉じている。
そうしてしばらくしたあと彼女は満足したのか、「はい、終わりです」と微笑んだ。
その言葉を合図に、ケイは煙草に火を点けた。
娯楽、遊興と呼べるものなど非常に限られている現況、安価な煙草は貴重な嗜好品であり、食糧などの物資と同じく部隊から支給されていた。

紫煙を燻らせ、空へと向かう細い筋をぼんやりと眺める。
気怠げに、アイツ、と細い指の示した先には、これまたいつものようにチハにちょっかいを出していじめている、無邪気に笑うシャーマンの姿があった。
その傍らでは、シキが冷静なツッコミという体の煽りを繰り返して焚き付けており、隼は同じく口に煙草を咥えたまま笑っている。
彼らから聞こえてくる喧騒を楽しそうに見ていたなまえは、突然の問いにきょとんと目を丸くした。
真意を測りかねたように曖昧な笑みを浮かべ、おっとりと首を傾げた。

「なにをおっしゃっているの、兄さま……」

なまえの黒い瞳は無垢に澄んでいる。
何事かと戸惑いに揺れる双眸は、彼の言った言葉を上手く飲み込めぬと如実に物語っていた。
自分の顔の汚れを拭っていた手をはたと止め、小さく首を捻る。

「わたしが、シャーマン殿と……? 考えもなにも、どうしてまた突然そんな奇矯なことを」
「いやァ〜だって、最近べったりじゃなァい? 前は兄さま兄さまって俺に引っ付いてたのに〜」

いつものように飄々と砕けた口調で、ケイが肩をすくめる。
美味そうに煙草を吸う口元は笑みの形を保ったまま、しかしなまえを見据える右の瞳だけは、曖昧に誤魔化すことを決して許さぬと訴え鈍く光っていた。

その、隻眼。
暗澹と輝くひとつ目を見て、なまえはまるで恋を知ったばかりの乙女のようにうっすら頬を染めた。
なまえの薄汚れた頬は、それでも清純さをいささかも損なうことなくただひたすらにいとけない。

「――ねえ、兄さま」

汚れた手拭いを握ったまま、なまえは共に腰掛けていた木材からぴょんと飛び降りた。
地に足を着けしっかりと立つ。
装飾も何もない武骨な靴の下で、じゃりりと土が音を鳴らした。
背を向けているためその表情は分からなかったが、彼の右目にはその汚れた小さな背がなぜだかひどく美しく見えた。
かしましく団欒に興じる仲間たちを見つめたまま、なまえは振り返らずに薄く笑う。

「兄さま……わたし、兄さまに近寄る塵芥を振り払うことが出来るのなら、喜んで贄にでも、夜叉にでもなれるのですよ」

積み上がる死体のように温度のない、冴え冴えと冷えた声。
――「あの男が兄さまに近付くのが、なまえにとって臓腑が煮え繰り返るほどに不快なのです」と、彼女はケイだけに聞こえるように小さく、丁寧に音を手繰るかの如く優しく囁いた。
そうして踵に重心を乗せくるりと振り向いたなまえは、純真な顔にそれはそれは清らかな微笑を浮かべた。
優しく抱きすくめてしまいたい、終生腕のなかに閉じ込めておきたいという衝動を、否応なしに抱かせてしまう、愛くるしい笑みだった。
男ならば皆イチコロだろう。
しかし真っ直ぐに彼を見据える瞳は、欲望にまみれ、ただひとりのみに向けた情念に縛られた女のものに他ならぬ。

「"あれ"に兄さまを奪われるくらいなら、わたしが代わりに重さ人形になります」

だから兄さまが心配することはなにもないのです、と無垢に言祝いだなまえは笑みを深め、穏やかに首を傾げた。
その笑みはぞっとするほど暗鬱に歪み、背筋をぞわぞわと悪寒が走り抜けるかのように美しかった。
男はその笑顔を見て一瞬、残された片方の目を見開いた。
が、すぐに肩をすくめて苦笑する。
仕方ないなと呆れ返る表情で、しかし言外にたっぷりの情愛を孕みながら。

――自分も彼女も、ただヒトを殺すためだけに生まれてきたのだ。
ならばけだし腹の奥に隠された心根の底が、業火めいて蠢こう、濁りも澱みもしよう。
愛らしい相貌で、慕う男のため別の男におもねるその姿は、確かに夜叉と呼ぶのが相応しいに違いなかった。
男は紫煙を深く深く吐き出した。

「……男冥利に尽きるって言ったらイイのか……」
「ふふ、さてどうでしょう。さ、兄さま。参りましょう、チハが呼んでいます」

向こうで両手を振ってチハが二人を呼んでいる。
どうやらいつものようにシャーマンにいじめられ、涙ながらに加勢を求めているようだった。
その様子を見て、なまえはくすくすと笑いながらチハに大きく手を振り返す。
次いで、さあ早く、と、ヒトを殺すには白く小さすぎるてのひらをケイへ向けた。
思慮分別の付かぬ幼子めいてただ一心に伸ばされるその手を、男は苦笑いを崩さぬままそっと握り締めた。


(2015.06.14)
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