Nadie creerá cuan profundamente lamentaba lo que había hecho.



無骨なコンクリートの床を、かつかつと細いヒールが叩く。

「ねえ、マクドゥガルさん。孤独っていう感情は厄介ですよね。ひとは孤独にどこまで耐えることが出来るかって、昔から何度も心理学の実験が実施されてきたみたいですよ。よっぽど孤独って感情は、人間にとって恐怖の対象なんでしょうね」

そこで言葉を区切り、なまえはやわらかく微笑んだ。
タイトなスーツのスカートがめくり上がらないようきれいに揃えられた両脚は、ごく薄いストッキングに覆われ、膝の形や肉の付き方の陰影を濃くし、寧ろ生身の素足よりもずっと淫靡な雰囲気を漂わせていた。

太腿の上に行儀よく乗せた白い手指を祈るように交互にゆるく絡める。
生きていることは確かなものの、全く反応のない拘束された男を前に、まるで場所が場所ならば、カフェのオープンテラス席で注文したコーヒーを待っているかのようなリラックスした表情と仕草で、なまえは唇を笑みの形にたわめた。

「……マクドゥガルさん、ずっとここにひとりで居るのは寂しくありませんか? ここでそうして自我を保つことが出来るひとってそんなにいないんです」

もう今日で6日目ですよ、すごいですね、と、なまえがのんびり微笑んだ。

時間は愚か、いまが朝なのか夜なのかすら分からない、四角い打ちっぱなしのコンクリートの箱のような狭い部屋にひとり。
冷たく無機質な鋼鉄の椅子に座らされ、両腕は肘から、両脚は膝下から切断された男は、”あちら側”の卓越した延命技術がなければ、そのまますぐに死んでしまうだろうことは想像にかたくなかった。
生体に埋め込むことの出来る武器や発信機器の類を隠し持っていないことは調査済みで、マクドゥガルと呼ばれた男は、時折ギ、ギ、と、まるで長年オイルを差すことを怠った歯車のような耳障りな呻き声を漏らすばかりだった。
本当に自我を保っているのかも怪しい。

男は、マクドゥガルは、ともすると途切れそうになる意識を自覚していた。
血の味しかしない口腔から唾液を垂らしながら、ぎり、と歯を食いしばった。
どれだけ過酷な目に遭わされようと、どれだけ人間としての尊厳を踏みにじられようと、自分が情報を吐くことは決してない。
そう自らに言い聞かせながら。
理由は多くあった。
それは、自分を拾ってくれた組織への恩義だったり、なにも知らずに帰りを待っているだろう妻や子供だったりと、他人が聞けば他愛ないと思うかもしれないものたちのため、しかし彼にとっての全てといっても過言ではないもののためだった。

マクドゥガルは見慣れぬ女を前にして、これから一体なにが起こるのかと、自らの血で狭まった視界でただ細い呼吸を繰り返していた。
女の後ろで影のように付き従っている線の細い男の方には、嫌になるほど見覚えがある。
見覚えがあるどころではない、ここに監禁されてからというもの、抑揚を欠いた淡々とした声で責め苦を与え続けてきた男以外、ここで他の人間を目にすることは決してなかった。

それがどういうことだろうか、眼前で自分と同じ鉄の椅子に座り、この血や肉のにおいで充満した部屋とは不釣り合い極まりないこぎれいな女は、なにをしにきたのか。
後ろに付き従う、嫌に細身な男より、立場が上だということしかいまは分からない。
相手は女だ、なにかこの凄惨な状況からどうにかして活路を見いだせないか。
そうマクドゥガルが必死に機を計っているのを知ってか知らずか、女はやはり場違いに、おっとりと微笑んだ。

「……そんなに心配しなくても、奧さまと娘さんはお元気ですよ」

生きているのか死んでいるのか判別できないほど、意識の朦朧としていた男がバッと勢いよく顔を上げた。
そんな彼を、まるで幼子を抱く母のように慈愛に満ちた瞳でなまえは見つめ、穏やかに微笑したまま小首を傾げる。

「……ブレンダさんとハンナちゃんでしたっけ? とても素敵なご家族ですね。心配するお気持ち、とてもよく分かります。おふたりともあなたのことをとても案じていらっしゃいましたよ。今日のおふたりは……ええと、ブレンダさんはいつも通っているお料理教室もお休みしてあなたを探していました。ハンナちゃんはエレメンタリースクールの授業中、あなたのことを心配して泣き出してしまって、先生が困っているみたいでした。ふふ、愛されているんですね。ご家族には巧妙にあなたのお仕事を隠して、家庭では良き父親として生きていた手腕、素晴らしいと思います」

やわらかな微笑はまるで固定されているかのように揺るがず、黒い瞳ばかり暗く光った。

「……そうだ! おふたりをここへお連れしましょうか? 確か来週はハンナちゃんのお誕生日ですし、やっぱりお父さんと一緒だと嬉しいと思うんです。あなたも大切なご家族が一緒なら、きっともっと持ち堪えられますよね?」

言外に、お前の家族はこちらの監視下にあるのだと。
最長記録、更新してみましょうか、とのんびり笑い呟く彼女に、男は血と泡と共に呪詛の言葉を吐いた。
それに気付かないフリをして、なまえが唇を吊り上げる。

「……っ、ぐ、妻と、こどもは、関係ないだろう……あんただって、いま、俺が仕事のことは家族には隠してきたって――」
「そんなことよりマクドゥガルさん。わたし、ひとつだけ心配なことがあるんです。おふたりをここへお連れしたとして……ハンナちゃんはお誕生日までここで無事でいてくれるかどうかについて。お父さまの目から見て、いかがですか? 耐えてくれるといいんですけど。やっぱりお誕生日は家族でお祝いしたいですよね。それまで頑張ってくれると良いんですけど……。さすがに拘束せずにという訳にはいきませんから、あなたと同じように手足は落とさせていただいて、三人で膝を着き合わせて……。ずっと家族一緒にいられたら、」

愛らしい唇が、にぃ、と弧を描く。
丁寧に塗り重ねられた品の良いリップグロスが暗い部屋でぬらりと濡れ光った。

「そうしたら、きっと、寂しくないですよね?」


・・・



無骨なコンクリートの床を、かつかつと細いヒールが叩く。

「わざわざご足労いただき申し訳ありません」
「いえ、ご足労だなんて。スティーブンさんが帰ってくるまでに、報告書を仕上げられそうで良かったです」

ほっと安堵したように眉を下げて苦笑するなまえに、先程までの冷酷さ、おぞましさを探し見付けることは難しい。
斜め後ろを音もなく付き従って歩いていた線の細い男は、静かに首肯した。

「書類は明朝にでも。男はこちらで処分します」
「分かりました、お願いします」

男は完璧に気配を消していたうえ、なまえも必要以上に言葉を発することはなかった。
彼女の微かな呼吸音と足音ばかりが響く地下の廊下は、まるで冷たいコンクリートが音を吸い込んでしまうかのように、静謐ばかりがつきまとう。

そんななか、突然、ぐしゃりと小さく湿った音がした。
なまえはふいに立ち止まり、困ったように眉を下げた。

「さっきの……。すみません、これじゃ真っ直ぐ帰れないし、本部近くまで送ってもらえませんか?」

血に濡れて重たく汚れたストッキングとパンプスを見下ろして、なまえは苦笑した。
先程男を尋問していた際、気付かずに血溜まりを踏んでしまっていたらしい。
暗い部屋や廊下では汚れを視認することは難しいものの、さすがにこの状態で往来を歩くのは憚られた。
微かとはえ、血のにおいを纏わりつかせてHLの雑踏のなかを通るほど愚かではない。

「ええと、ストッキングは自前のだし捨てるとして……靴は、」

暗所でも目をひくレッドソールと、品の良い黒いパンプスは、目を凝らせば僅かに汚れているようだった。
靴はスティーブンさんからのプレゼントだから捨てられないんです、となまえは苦笑した。

華奢なヒールのパンプスだけではない、ストイックな黒いスーツも、肌なじみの良い真っ白なシャツも、彼と同じブランドのレディースの時計も、そして、いまは服の下に隠されている下着すらも、なまえが身に着けているものほぼ全ては彼からの贈り物だった。
あまりにも分かりやすすぎる極端な独占欲と、そして窒息してしまいそうな多幸感に、彼女は泣きそうな顔をして笑みを深める。

男は一言、失礼しますと前置くと、静かになまえを抱き上げた。
パンプスを手に坦々と呟く。

「報告書と一緒に、この靴も洗浄して明日お持ちしましょう」
「……ふふ、そうしてもらえると助かります」

靴もストッキングも脱いだ白い素足が、暗闇に宙に浮いて眩しく光る。
まるで汚れなど知らないように。

彼女を抱き上げたまま音もなく男が進む。
女と見まがう、あるいはそれよりももっと細い首へ、なまえは腕をまわした。
ゆっくりと目蓋を伏せる。

ああ、スティーブンさん、はやくあなたに会いたい。


(2016.05.20)
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