La Luna brilla de noche.



いつもの定位置に置いているマグカップを、つい癖で手元も確認せずに口に運んだところで、ようやく中身が空になっていることに気が付いた。
熱いコーヒーがなみなみ注がれていたはずのそれは、残念ながら既に白い底を晒している。

う、と喉奥で小さく呻き、マグカップをデスクへと戻す。
なんとも間抜けな行動をしでかしてしまい、居心地悪く恥ずかしい思いをするものの、悲しいかな、いま現在事務所にはわたしひとりしかいない。
おかげで、幸か不幸か、それを指摘してくれるひとも笑ってくれるひともいなかった。

「ふー……」

深く深く息を吐く。
ギシ、と音を鳴らしてデスクチェアの背もたれへ上体を預け、高い天井を見上げる。
置き時計の方へちらりと視線だけ投げてみれば、時刻は午前0時を少しばかり過ぎたところだった。
大きな窓からは外の灯りが眩く入り込んでくる。

日々飽きもせず勃発する事件やら、それに発展しかねない揉め事の萌芽の駆除やら、騒動とその鎮圧で発生した建造物や公共物の被害状況を報告する書類作成や整理、一応「秘密」結社だというのにみんな気にせず派手に暴れてくれた結果、撮影されてしまった写真や映像の削除、1:9くらいに敢えて正誤織り交ぜた加工、ええとそれから、関係組織への定期または臨時の連絡や、敵対組織へ向けた誤情報流しに、果てはみんなへ支払われる給料の計算などなど、……やるべき膨大な作業たちは、内容を列挙していけばキリがない。

とはいえ今日の進捗状況は悪くない。
いや、悪くないどころじゃない、正直なところ、ほんの二時間前――つまりは日付にして昨日、22時頃には帰ろうと思えば帰ることが出来る程度には済ませていた。

しかしながら、例えHLだろうと人界だろうと、そんな時間帯に戦闘どころか最低限の自衛の能力すら持たない人間が、ひとり徒歩で帰宅を敢行するほど、わたしは愚かじゃなかった。
まあ、ただ単に、なんとなく面倒くさかったというのもまた理由のひとつだけど。

……だってもう数時間後には、ここに居ると思うと……帰宅するのも億劫なんだもん……。
誰に向けてという訳でもなく、胸のなかで言い訳のようなものをひとつ呟いた。

考えたくないというのに、プライメリースクールで習う程度の算数の計算は瞬間的に答えを出してしまう。
いまは午前0時。
つまり遅くとも8、9時間後には、クラウスさんもギルベルトさんもこの事務所にいつものように到着していることになる。
8時間、8時間か……と具体的な数字を考えると、本格的に帰宅するのが億劫になってくる。

……もうこのまま寝ちゃってもいいんじゃないか。
シャワー室と仮眠室を借りて、常備しているクリーニング済みの下着とシャツを出せば、明日の業務になんら支障はないし……。
そんな自堕落なことを考えながら、ちらりとデスクの下、わたしの足元へ視線を落とす。
そこには、2、3日程度の旅行に適したボストンバッグがいつも鎮座していた。
そのなかにはビニル袋にパッケージされた下着やシャツをはじめ、新品のストッキング、基礎のスキンケア道具から化粧道具までばっちり揃っている。

きっかけは……あれはいつのことだったか、ここHLでいつものように飽きもせず「世界を揺るがしかねない危機」とやらが、それぞれ別々、同時にトリプルで発生したことがあった。
そのまま押し潰されて息絶えてしまうんじゃないかと戦慄するほどに仕事が立て込んでしまい、帰宅なんてもっての外、充分な睡眠すらままならず、近所の24時間営業スーパーへ替えの服や下着を買いに走るハメに陥ったのも懐かしい。
トリプルで積んでくれるのはアイスクリームだけでいい、そんな馬鹿なことを徹夜明けのまともに働かない頭でゆらゆらと考えたのを覚えている。
それからというもの、わたしはこのボストンバッグをいつでも使えるように準備していた。
とはいえそんな苦行が多発することなんてそうそうなく(寧ろあってたまるか)、もっぱら帰宅するのを面倒がる自堕落なわたしの逃避手段になってしまっているけれど。

別段わたしが借りているアパートからここまでは、それほど距離は大きくない。
昼夜問わず渋滞気味のこの街で、車を使えば5分から10分くらい。
歩いても20分程度で家まで辿り着ける。
それでも帰路で巻き込まれるかもしれない厄介事を想像すれば、仕事がひと段落した二時間前と同じように、帰宅願望は波のように引いていった。

ぼんやりと天井を見上げたまま緩慢にまばたきすれば、僅かに視界の端が霞む。
頭の奥では、かすかに鈍い頭痛も感じていた。

自宅へ帰るのを諦めたとはいえ、さすがにもう眠った方が良さそうだ。
とはいえ同じ建物内だというのにシャワー室や仮眠室まで行くのすらもうなんだか面倒で。
我ながら本当に自堕落だな、なんて溜め息をつく。
デスク下に脱ぎっぱなしにしていたハイヒールを、黒いストッキングに覆われた爪先でなんとはなしにゆるゆるなぞる。
……このまま眠ってしまいそう。
だめかな、だめだよなあ。

立ち上がるべきだと分かってはいる。
けれどなんとなく、どうしようもなく億劫で。
曖昧になりつつある意識と理性をそのままに、だらだらと背もたれへ身を預けていると。

「……スティーブン、さん?」

気が抜けていたせいで、反応するのが少し遅れた。
いつもより乱暴にドアが開け放される。
忍び寄ってきていた睡魔は霧散し目を丸くして注視すれば、音を立てて現れたのは、随分とお疲れのご様子のスティーブンさんだった。

いつもの隙なくピシッと整えられた雰囲気はどこへやら。
スーツの上着は乱雑に脇に抱えられ、ネクタイももういっそ外した方がいいんじゃないかと思うほどだらしなく緩められていた。
ボタンもひとつふたつ外されている。
とはいえ恋人という贔屓目を考慮しても、そんなくたびれた風采も絵になるんだから、色男っていうのは全くもって本当にずるい。

確か今晩は、余所の女性とお食事のあとそのまま自宅に直帰するはずだったと記憶している。
どうしたんですか、と声をかけるものの、足早に入室してきたスティーブンさんからの返答はなく。
いつもは無駄に饒舌なくせに。
本当にらしくない。

この時間にひとり事務所に残っていたわたしに対してスティーブンさんは驚いた様子もなく(どうせわたしへ勝手に付けたGPSでまだここにいると分かったうえで来たんだろうけれど)、ソファの背へバサリと放り投げるようにスーツの上着をかけた。
……これはよっぽど参ってしまっているらしい。
皺が寄ってしまうことを嫌って、上着をそんなふうに放る真似なんて普段はしないのに。

黒いパンプスは脱いだ状態で放置して、少しだけデスクチェアを引く。
そこに腰掛けたまま、既にわたしのすぐ目の前へと到着していた彼を見上げる。
うろんな表情でわたしを見下ろす端整なお顔は、疲弊しているのを隠そうともしていない。
なにも言わず、スティーブンさんへ向けて両腕を伸ばせば、やっぱり彼も口を閉じたまま、しかしまるで遅いと言わんばかりにすぐに抱き締められた。

床へ膝を着き、わたしのお腹の辺りに顔をうずめるようにして抱き着いてくるスティーブンさんに、彼のスーツが汚れてしまう、と少々慌てる。
しかしながら、そう忠告したとしても、きっとこの拘束が解かれることはないだろうとすぐに思い至った。
開きかけた口をつぐみ、諦めて体の力を抜く。
彼が容赦なく上体を預けてくるせいでとても重たい。
けれど慣れ親しんだ体温は多幸感すら覚えるほどに心地良く、甘んじて受け入れ目を閉じた。

静かな室内に、時計の針の音だけがそっと響く。
それとかすかに、わたしたちの呼吸音。

嫌みったらしいほど長い脚を窮屈そうに折りたたみ、わたしの前でひざまずいているスティーブンさんは依然としてなにも言わない。
なんとなく手持ち無沙汰に、きれいにセットされた髪をぐしゃぐしゃと乱す。
普段ならやめなさいとたしなめられるその行為は、今日に限って許された。
いつもは饒舌な唇はここへやって来て以来未だなにも発さず、ただされるがままで。

……どうやら本格的にお疲れのようだ。
こうして疲弊した彼が、口数少なくわたしに縋り付いてくることはごくごくたまにあるけれど。
今日はその「ごくごくたまに」の日に当たるらしい。

「スティーブンさん、」
「……もうすこし」

ようやく聞くことの出来た声はくぐもっていて、まるで駄々をこねる子供のようで。
こんなに大きな子供をもった覚えはないのだけれど、と小さく笑った。
髪を乱してしまったお詫びに、今度は丁寧に指で撫でてすいていく。
やわらかな髪は指通りがとても気持ち良く、自然と口元がゆるんでしまう。
気持ち良さそうに頬を摺り寄せた彼に、また笑みがこぼれた。

……そうして穏やかな時間を享受しているのも幸せだし、疲れているこのひとのやりたいようにしていただきたいというのも本心なのだけれども。
しかしながら大変残念なことに、そろそろわたしの脚が痺れてきた。
薄いストッキングに包まれた爪先は、さっきから非常に冷たいし感覚があまりない。
肩に置いた手をそっと揺らす。
そろそろ放してもらえませんかと。

「スティーブンさん、スティーブンさん」
「……やだ」

思わず、う、と呻いた。
いつもなら頼んでもいないのに歯の浮くようなセリフを並び立てる饒舌な唇がようやく開かれたかと思えば、「やだ」って。
……「やだ」って。
うっかり可愛いと思ってしまったのが悔しい。
相手は三十路の男だというのに、わたしのなけなしの母性本能らしきなにかが的確に刺激され(それさえも計算の上だとしたら本当に腹立たしいけれど)、わたしは早々に白旗を上げた。

説得を諦め、仕方がないのでまたブルネットの髪を撫でる行為を再開する。
少しばかり猫っ毛気味のやわらかな髪をゆっくりと撫で、形のよい耳へかける。
わたしたちしかいない部屋は、いつもの喧騒が嘘のように相変わらず静かだ。
そうして穏やかにまばたきを繰り返しながら、ぼんやりと考えた。

――このひとのこんな姿を見ることが出来るひとなんて、他にどれだけ存在しているだろうか。
少なくともさっきまで一緒にいたはずの女性には、想像すら出来ないだろうなあ、なんて。

ふ、と頬がゆるむ。
そう思うと、ちっぽけな自尊心はあっけなく満たされ、途方もない優越感にぞくぞくと肌が粟立つようだった。

均整のとれた体躯、長い手足、柔和な物腰、じっと見つめられると異を唱えることが出来なくなる少し垂れた瞳、普通なら欠点になるはずの目元の傷すら、優男風の相貌に危険な香りを忍ばせて彼をより魅力的に見せている。
そんな男が、特筆すべき点など特にない見目、かつ世界を救うことは愚か自衛すらままならない、役に立たない、足手まといのわたしなんかへただただ縋り付いている現状に、筆舌に尽くしがたいほどわたしは満たされていた。
それこそ泣いてしまいそうなほどに。

……なんて嫌な女なんだろうか。
恋人がひどく疲れ切っているのに、心を痛めているのに。
いまわたしが抱いているのは、紛れもない歓喜だった。

それでも、ひとが憔悴している様子を喜びでもって抱き締めるような、こんな性根のねじ曲がり方をわたしがしてしまったのは、全て他ならぬこのひとのせいなのだと思うと、罪悪感すらもじくじくと胸奥が疼くような仄暗い喜びへとすり替わっていく。
自分の性質すら、このひとの影響で変質する。
そんなことにも喜びを覚えてしまう程度には、わたしは随分と毒されているらしかった。

嬉しいような、悲しいような、幸せなような、憎々しく思うような、そんな感情が入りまじって、どうしてだろうか、泣きたくなるような心地がした。
思わず口角が上がる。
顔を見られない状態で良かったと思いながら、爛れた息をそっと吐き出した。
喜びで声がふるえないよう気を付けつつ、何度目だろう、また名前を呼ぶ。

「……スティーブンさん」

再三の呼びかけにとうとう観念したのか、のろのろと上げられた顔は、不満げな様子を隠そうともせずわたしを見上げた。
血より暗い虹彩が、いままで浸かっていた熱を求めてどろりと揺れている。

頬を包み込むようにして、両手をそわせる。
聞分けの悪い子供に言い聞かせるような状況に、ひっそりと苦笑しつつ囁く。

「この体勢も悪くはありませんが、」

わたしを見上げる疲れの滲んだ目尻を、指先でそっとくすぐった。
薄く細められた双眸が、言葉に出来ないほどただひたすらに愛おしい。

「……このままだと、スティーブンさんを抱き締められないから嫌です」

スティーブンさんの口から、は、と息とも声ともつかない音が漏れた。
不意を突かれたように、常になく間抜けな顔と声を晒した男を見下ろし、くすくす笑う。
見開かれた目が数瞬まばたきをしたと思えば、すぐに拗ねたような表情に変わってしまったけれど。
残念、さっきの情けない顔、結構好きなのに、と治まらない笑いのなか呟けば、顔は憮然としたものへまた変化した。

これが「あの」スティーブン・A・スターフェイズだと、一体どれだけのひとに信じてもらえるだろうか。
そんなことを考えながら、硬い床へ膝を着き、また正面から抱き締める。
背にまわした腕の力を強めると、スティーブンさんは一拍遅れてわたしの首元へ頭をうずめた。

ゆっくりと深く呼吸すれば、彼自身の香りといつもの香水に混じって、うっすらと女性物の香水と血のにおいがした。
ここへ来るまでにスティーブンさんに何があったかは聞かないし、たぶん聞いたとしても答えてはくれないだろう。

さっきより大きく増えた触れ合う面積に、いままで覚えていた優越感や罪悪感よりももっと深い喜びに満たされる。
重ねて混じっていく体温と同じように、この気持ち全部が彼に伝わればいいのに。

「ねえ、スティーブンさん。もうすこし、このままでいてくれませんか」

お願いします、と囁けば、スティーブンさんはわたしを抱き締める腕の力を強くした。
それは骨が軋むような錯覚を覚えるほどに苦しいものだったけれど、窒息してしまいそうなその強さが、ひどく心地良かった。

「……君がそう言うなら仕方ないな」

拗ねたような声色に、思わず吹き出してしまいそうになる。
見えないけれど、たぶんさっきと同じ情けない表情をしているだろうことは容易に想像できた。
なんとか堪えつつ、笑みを滲ませたまま、ありがとうございますと返す。

「ねえ、スティーブンさん。明日も早いですし、わたし、これから帰るの億劫になっちゃったんです。……今日はシャワーを浴びて、ここの仮眠室で寝ちゃいませんか。それで明日、近くのコーヒーショップで軽い朝ご飯を食べましょう。……もしスティーブンさんさえ良かったら、付き合ってもらえませんか?」

わたしの首元にうずめられた頭をゆっくりと撫でながら、のんびりと呟く。
返答はなかったけれど一層強まった腕の力に、このひとはわたしの骨を砕くつもりなんだろうかと苦笑した。

視線をぼんやりとさまよわせれば、大きな窓からは相変わらず外の灯りが眩く入り込んでいる。
目も眩むような地上の光と街全体を覆う霧のせいで、空そのものは暗いものの、静かに目をつむれば目蓋のなかで光がその姿を留めていた。

明日も――というか日付けでは今日も、だけれど――きっと目が回ってしまうほどに騒がしくて、忙しくて、もしかしたら、彼の、あるいはわたしの身を、危険に晒す事態が起こるかもしれないけれど。
どうかいまだけはこうして寄り添うことを許してほしいと、誰に向けてでもなくただ一心に願った。
そして霧越しのやわらかな朝日の照るなか、おはようと一緒に笑いあえたらいい。
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