Cerré los ojos para tranquilizarme.



今日も天気は、ぼんやりとした乳白色の薄霧。
時折霞みから現れる気紛れな太陽は、昼下がりにしては心許ない光しか投げかけてくれない。
旧ウェスト・ビレッジエリアの落ち着いた雰囲気に相応の、品の良いコーヒーの香りが漂うカフェは、お昼のピークを過ぎた時間帯とあってかひとの姿はそれほど多くない。

あたたかいカップを両手で包み込むようにして持てば、じんわりと熱がわたしのてのひらへうつっていく。
なみなみとコーヒーの注がれた白いカップは一見そっけないほどシンプルだけど、まるで長年使ってきたもののように驚くくらいしっくりとわたしの手に馴染んだ。
デコラティブなデザインのものも良いものの、こういう質の高いシンプルなものも心を落ち着かせてくれる。
ひとくち飲めば、雑誌で取り上げられていたのも頷ける美味しさが口のなかに広がった。

ここがHLであることすら忘れてしまいそうなほど穏やかな時間。
思わず頬がゆるんでしまう。
……まあどうせこの平穏も、まばたきのように束の間のことであると分かってはいるんだけれど。

「……あ」

わたしの真正面に座って、同じようにコーヒーを飲んでいたダニエルさんが、ぽつりと間抜けな声をこぼした。


・・・



絶望的なまでに物騒かつ凶悪なこの街を守ってくれている(……とは必ずしも言い切れないけれど)、日々身を粉にして市民のために頑張っている警察官と、世を忍ぶ秘密結社に所属している事務員と。
お昼下がりに面と顔を合わせて一対一、コーヒーブレイクの真っ最中だなんて、随分と面白い図だと思う。
そんなからかうようなことを言えば、たぶんこのひとは臍を曲げてしまうだろうから大人しく黙っておくけれど。

「ダニエルさん、お約束していた情報です」
「……ああ、ご苦労さん」

あたたかいカップをソーサーへと戻し、鞄から薄いスプリングファイルを取り出す。
警察じゃ到底使えないルートで仕入れた情報は、A4のコピー用紙にしてほんの6、7枚程度。
とはいえ機密性のレベルは高い。
だからこそ途中で紛失や盗難されるリスクを恐れて、わざわざこうして面と向かって手渡ししにきたのだ。
……まあ、ここのコーヒーやケーキが美味しいらしいと聞いて、このカフェを指定したのがわたしであることはこの際重要じゃない、はず。

書類を取り纏めたファイルを、ダニエルさんへと差し出す。
それを作成したのは、いまはこの場にいないスティーブンさんである。
しかしながら、こうして警察をはじめ他組織との連絡や情報のやりとりを直接行うのは、もっぱらわたしの役目だった。
書類や報告の内容を把握していて、かつ事件や何か問題が起こった際に現場へ出向くことの殆どないわたしは、連絡役として最適らしい。
それに、スティーブンさんとダニエルさんが顔を合わせると、腹の探り合いからはじまって、嫌味やら皮肉やらの応酬で大変なことになってしまうし。

いつものように憮然とした表情でファイルを受け取ったダニエルさんと、ついでに噂に違わぬ美味しいコーヒーを味わっていれば。

――冒頭へと戻る。
彼にしては珍しく、あ、と、随分と間抜けな声を漏らした。
前髪で隠されていない方の目は、窓の外に向けられている。
曇りないきれいなガラス窓からは外の通りがよく見えた。
驚いたように見開かれた彼の目は、すぐに忌々しげな色に染まっていく。

「ダニエルさん? どうかしたんですか?」
「い、いや、別になにも、」

窓の外はいつも通りの平穏……とは言い難いけれど、まあ、HLにしては平和な部類に属するストリートが広がっていた。
このカフェのある地区は比較的治安の良いところで、突発的な事件に巻き込まれることも少ない。
結果、少しばかり高級志向なお店や、土地を贅沢に使った個人宅が多く並んでいる訳なのだけれど、なにやら騒動でも勃発したのだろうか。
なにかありましたか、なんて首を傾げて、自然と彼の目線を追うようにして外を伺う。

「――あっ、おい、」

視界の端でダニエルさんが慌てた素振りをみせていた気がするけれど、わたしの動きを止めるには至らず。
まばたきをひとつすれば、彼が何に対して反応したのか分かってしまった。

通りの向こう側、寄り添って歩いていたのは、スティーブンさんと、見知らぬ女性。
……ああ違う、見知らぬ、じゃない。
確か、いま追っている違法薬物に関する組織の一構成員だったっけ。
その美貌に似合わず女だてらになかなかの銃の名手なのだと、調べ上げた情報のなかに記されていたのを思い出す。
明るいブロンドは生粋のものなんだろう、霧がかって直射日光のあまり射し込まないこの街でも目を引くはっきりとした金髪が、風になびいて揺れていた。
長身のスティーブンさんの隣に立っても全く見劣りしない、すらっとした白い美脚が短めのワンピースの裾から伸びている。
仲睦まじく歩きながら和やかに会話を続けるふたりは、文句なしにまさしくお似合いのカップルといった雰囲気を醸し出していた。

ぼんやりと眺めていれば、ほんの数十秒足らずで彼らは視認できないところまで歩き去って行った。
確か今日のスティーブンさんの予定は、珍しくお昼からずっとオフ。
このためにスケジュールを空けていたのかと納得しつつ、まばたきをひとつ、ふたつ、繰り返す。
また正面へと顔を戻せば。

「……なんて顔してるんですか」

それはもう、苦虫を噛み潰したようなという言葉がぴったりなほど、盛大に顔を顰めた警部補さんがいた。
このひとは就いている職種や役職のわりに、考えていることが顔に表れやすい。
ダニエルさんがそんな顔することないじゃないですか、と苦笑すれば、不快げな表情は更に色を濃くした。

「……あんたはそれでいいのかよ」
「ええ、大丈夫ですよ」

ひとつ頷いて即答する。
ダニエルさんは僅かに目を見開いた。
彼がなにを考えているのかなんて、直接聞くまでもなく明らかだ。
肩をすくめ、苦笑した。
ダニエルさんは、ライブラに所属しているひと以外でわたしとスティーブンさんがお付き合いしていることを知っている、数少ないなかのひとりだった。
といってもわたしがそれを伝えたことはない。
大方スティーブンさんが何気なく、それでいてぬかりなく正確に漏らしたんだろう。
あれは僕のだから、なんていつもの笑顔でちくりと釘を刺すことは忘れずに。
心配性なひとだ。
わざわざそんなことしなくても、わたしなんかに興味を抱くひとなんている訳もないのになあ。

「そんな顔しないでくださいよ。わたしだっていま、お仕事でダニエルさんとこうして会っているじゃないですか。それと同じですよ」

そう、仕事。
いま見たことに関して、わたしが深く気にする必要も考える謂われもない。
苦笑を浮かべたまま、ね、と同意を求めるように首を傾げる。
しかしながら彼の不機嫌そうな眉間の皺がとかれることはなく。
いまにも舌打ちせんばかりの表情に、やっぱりわたしは苦笑しか返すことが出来ない。

ダニエルさんの言いたいことは分かる。
こっちも仕事、あっちも仕事。
ただしその内容には比べものにならないほどの大きな差異がある。
彼らの雰囲気は遠目から見ても明らかに、蜜月期間の恋人のそれで。
女だったらきっと誰でも見惚れるだろう甘ったるそうな彼の笑顔、いま目撃したそれを、わたしは脳裡からさっさと追い出した。

「お前は、……」

口を開きかけたダニエルさんは、結局なにも言わずに口をつぐむ。
次いでタバコを取り出そうとしたところで、ここ禁煙ですよと小さく窘めた。
忌々しげに顔を顰めたダニエルさんは舌打ちをひとつすると、ぐしゃりと音を立てて箱を握りつぶす。
ああ、勿体ない。
ちらりと見えた中身は、まだいくつか本数を残しているみたいだったのに。

「ダニエルさんって、本当に優しいんですね」
「……あァ?」

なに言ってんだあんた、とばかりに歪んだ顔へ、今日何度目か分からない苦笑を返す。
手元のコーヒーへ目線を落とす。
あたたかかったはずの白いカップはとっくに冷え切り、なんだかよそよそしさすら感じられた。

だって優しいじゃないか。
もしダニエルさんがわたしのことをどうでもいいと考えているんだったら、彼の行動についてそれでいいのかなんて問うてこないだろうし、そもそもスティーブンさんと他の女のひとが歩いているのを見てとっさにわたしの顔色を伺うような真似もしないだろう。
わたしのことを慮ってくれているこのひとを、優しいと形容するのは間違っていない。

でも、その優しさが、目を逸らそうとしている胸のなかの痛いところを的確に刺激する。
折角なんでもないって顔をしているというのに。
そんなふうに不快感や怒りを露わにされると、大したことじゃないと涼しい顔を保つ行為が、微かに苦痛を滲ませていってしまうから。

「……優しいけど、ひどいです」

ぽつりとこぼれ出た言葉のせいで、ダニエルさんの顔はますます理解不能と言わんばかりに歪んだ。
……きっと、頭のおかしい女だなんて思われているんだろうなあ。
わたしはやっぱり苦く笑うことしか出来ない。
すっかりぬるくなってしまったコーヒーをひとくち啜り、この空気を打破するにはどうしたら良いか考える。
この件をこれ以上深く掘り下げる必要はない、することによって得られることなんて何もないし、ただただ無意味だ。
そのことをとうにわたしはきちんと理解していた。

太腿の上へ戻した手を、ぎゅ、と握り締めた。
震えるなんて無様なことに決してならないよう、細心の注意をもってそっと息を吐いた。
――違う。
理性的な言葉を並び立てているだけで、わたしはただ、目を背けたいだけなんだろう。
握り込んだ指は、自分でも驚くほど冷たかった。

だって、考えたくない。
スティーブンさんの腕があの女性の腰へまわされていたことも、彼へしなだれかかった女性のキツめの美貌がうっとりと陶酔に染まっていたことにも、彼の――あるいは彼女の、このあとの予定も。

考えたくない、考えるべきじゃない、考えちゃいけない。

無理やり口角を引き上げる。
笑顔を形つくることは恐ろしく容易い。
ライブラのみんなと肩を並べて戦うための力は悲しくなるくらいに皆無とはいえ、その一員として後方で彼らを補佐することだけは出来る。
自分の身の周りが世界の全てだと信じている思春期の少女なんかじゃあるまいし、こんなことでいちいち傷付いたりぐずぐずと臥せっている暇なんてないのだ。
そんな不毛な感情なんて、遠い過去に置いてきた。

スティーブンさんと、ライブラのみんなと、この道を進むと心に決めてからというもの、こうして笑顔をつくることは息をするよりも簡単で、嘘を吐くよりは難しい。

「ごめんなさい、おかしなこと言って……なんでもないです。そんなことよりダニエルさん、この書類、ちゃんとお渡ししましたからね」

手渡したばかりのスプリングファイルを指し示す。
不備はないはずですが、なにかあればまたご連絡ください、と、我ながら良くできただろう笑顔のまま伝えれば、苦々しげな彼の表情は和らぐどころか一層悪化した。

今日のダニエルさんはご機嫌ナナメなんだろうか。
HLではいまのところ、大きな事件や騒動はわたしが把握している限りないはずなんだけど。

「――……お前、アイツに似てきたな」
「は、」

悪い意味で、と付け加えられた声は低く苦く。
どういうことですかと問いかけるよりも先に、領収書を持って立ち上がったダニエルさんは一瞥くれて目を眇めた。

「胸糞悪い笑い方するようになりやがって」
「え、……ええっと、それってどういう、」

苦笑を崩さぬまま大いに困惑して彼を見上げれば、べち、と渡したばかりのファイルで顔を叩かれる。
顔というか額だけど。
……魅力も価値もない凡庸な顔面とはいえ、一応女の顔になんてことをするんだ、このひと……。
一瞬覆われた視界の向こうで、彼が小さく溜め息を吐いているのが聞こえた。

威力は極めて弱々しいとはいえ、スプリングファイルの表面は固くてそこそこ痛い。
なにするんですか、と頬を膨らませば、ダニエルさんは再び、今度は大袈裟に溜め息をついた。

「用は済んだだろ、近くまで送ってってやる」
「……え、いいんですか! ありがとうございます」

このはなしはこれで終わり。
言外にそう伝えてくる彼の優しさに、ふいに泣きたくなるような心地がした。
目の奥が熱く、鈍く痺れるような。
冷たい手指の先までじんわりと熱を持っていく感覚を散らすように、ぎゅ、とてのひらを握り締める。
薄く息を吐いてその衝動を紛らわせる。

笑顔を浮かべることが容易であることと同様に、思っていること、感じていることから目を逸らし、後回しにしてしまう思考の制御や抑圧も、いつの間にか随分と上手くなってしまった。
それが誰のせいか、だなんて。
いま考えるべきことじゃない。
そしてたぶん、この先も。

領収書を手にレジへ向かうダニエルさんの背へ、小さく呟く。

「……やっぱりダニエルさんは優しいですね」
「あ?」
「いいえ、なんでも。あっ、ここのケーキ美味しいって雑誌で話題になっていたんですよ。ついでにお土産にいくつか買ってください」
「はあ? なんで俺がそんなこと」
「どうせいまのコーヒーも経費で落とすつもりでしょう。非正規でしか手に入らない情報お渡ししたんだから、これくらい一緒にしておいてくださいよう」
「……はあー……ったく」
「ふふ、ありがとうございます!」

いま本部にいるはずのメンバーの面々を思い浮かべる。
クラウスさんとギルベルトさん、ザップやレオ(……そういえばソニックは加工品も食べて平気なのかな)、チェインはいたっけ……ええと、5、6人分くらいあれば大丈夫だろうか。
きっと彼らも喜んでくれるだろう。
クラウスさんたちの嬉しそうな顔を思い浮かべるだけで、簡単にいままでの後ろ向きな思考は覆い隠れた。

人数を指折り数えつつ、レジの横のショーケースに整然と並んでいる色とりどりのケーキたちを矯めつ眇めつする。
いちごのショートケーキにベリーのタルト、アップルクランブルやザッハトルテ。
ごく普通の人間向けのお店らしい、ごく普通のオーソドックスなラインナップ、しかしクオリティは素晴らしい。
きらきらと輝いているそれらはまるで宝石のようで、眺めているだけで自然と頬がゆるんでくる。
そりゃあ日本人のわたしにとっては逆に食欲が減退してしまいそうな、どぎつい蛍光色のカップケーキもやっぱり健在なんだけど。
これは旧ウェスト・ビレッジの落ち着いた雰囲気のカフェでも、道端のありふれたファストフード店のチープなサイドメニューでも、なくてはならないものらしい。
……この国のひとたちは、なんでもかんでも派手にすれば良いとでも考えているんだろうか。

そんなことをのんきに考えつつ、どれにしようかな、と浮かれて逡巡していれば、隣に立つダニエルさんがぼそりと呟いた。

「……いつもそんな顔してりゃいいのにな」
「え?」
「なんでもねーよ。どれにするかはやく選べ」

横に並んだわたしからは、前髪に隠れてその顔はよく見えなかったけれど、ぴかぴかに磨き上げられたショーケースのガラスは、鏡のようによく反射してしまうものだから。
彼の瞳に少しばかりの憐憫が滲んでいたことには、気付かないふりをした。
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