Estoy loca por ti.



「今日はじめて顔を合わせたけど、いい子ですね」
「……それは少年のことかい?」

なまえはやわらかく微笑して、ええ、と頷いた。

時刻は既に深夜と呼ばれる頃合いに近く。
事務所にはスティーブンとなまえふたりのみが残っていた。
山のように、という形容がぴったりの積み重なっていた書類たちは、随分とその量を減らしてようやく終わりが近いことを示していた。

なまえは関係企業から上がってきた報告書に目を通し、ファイルへと整頓していく。
この分だと日付けが変わるまでにここを出られるかもしれない。
うろんに時計へと目をやれば、今日という日はもう残り少なく、スティーブンに気取られないようなまえは小さく肩を落とした。

今日はじめて顔を合わせた彼――レオナルド・ウォッチを「いい子」と表現してしまったが、"神々の義眼"保持者と聞いて実際のところ、なまえはどんな恐ろしい人物かと少しばかり身構えていたのだ。
にも関わらず、今日はじめて顔を合わせた当人は驚くほどか細く、このHLでちゃんと生きていけるのかと、非戦闘員であるなまえですら思わず心配してしまうほど非力そうに見えた。
大して年齢は離れていないというのに、彼のことをなんとなく「子」と言い示してしまったことに気付き、なまえはこっそりと苦笑する。
少なくとも戦闘においては自分などより、「全てを見通す」彼の能力は非常に稀有かつ重宝するに違いない。

仰々しい名を冠する能力を与えられてしまったレオナルドや、そしてその家族のことを思うと、僅かに胸が痛む。
どうか彼がこの街で無事、思いを遂げることが出来ますように。
それほど多くの時間を過ごした訳ではないものの、彼を見ていると、損得や打算などなくただ純粋にそう願わずにはいられない。
これからライブラの一員として共に歩んでいく彼のことを思い、なまえは良い関係を築いていたけたらいいな、とひとり小さく微笑んだ。

処理し終えた書類をバインダーへまとめると、デスクから立ち上がる。
彼女のデスクの背後、見る者に威圧感を与えるずらっと並んだ膨大な資料棚へバインダーを納める。
……あとはクラウスさんのサインをもらうものばかりだから今日は終わりかな。
作業に没頭することで敢えて気付かないようにしていた眠気を思い出しつつ、ぼんやりとなまえがそんなことを考えていると。

ふ、と影が重なった。
圧巻とも言える、ずらりと整列したバインダーのスパインたちに落ちる、なまえと、彼女よりもずっと大きな彼の。
気配も音もなかったのはさすがというべきか、それともはたまた彼女が戦闘慣れしていないからか。

「スティーブンさん? どうしたんです、」

振り向いて彼を見上げたところで、彼がひどく冷たい目をしていることになまえはそこでようやく気が付いた。
血より暗い赤色の瞳。
見下ろしてくる冴え冴えとした眼光は、仮に彼の能力を知らなかったとしても容易に凍てつくような氷を連想させた。
そんな目を向けられる謂れはなく、なまえは一瞬ひるんだものの、再度、どうしたんですか、と呟いた。

「どうしたって? 本当に分からない?」
「……疲れてるんですか。もう明日に回しても構わないものしか残ってないし、今日は終わりにして帰りましょう」

軽い口調でからかうように尋ねてくる恋人に、努めて冷静に言葉を返す。
背後には頑強な書棚、眼前には恋人とはいえ自分の上司、そしてここは職場。
とにかくこの状況から逃れなければと、なまえは視線を落ち着きなくうろうろと流した。
とりあえず目の前のスティーブンから距離を取ろうと手を伸ばす。
彼の胸を押しやろうとした左手は次の瞬間、指と指を交互に絡められ、スティーブンの右手によって握り込まれた。
そのまま資料棚へと縫い留められる。
なまえは目を見開いた。
互いの皮膚と皮膚を通し、その下の薄い肉を通して、彼の硬い骨の感触を感じる。
てのひらがじんわりと熱を上げていく。
手を封じられ、息が出来ないと指が訴えている。

「――っ、こ、こんなところで、」
「誰も来やしないさ」

重なった手は熱く、冷たい目は幾分かその鋭さを落ち着かせていた。
しかしながらなまえの左手をつかむ力は、到底振りほどくことが出来ない程度には強い。
スティーブンの言う通り事務所には彼ら以外には誰もいないうえ、加えてこの時間帯。
誰かが突然やって来るとは考えにくいものの、ゆらゆらと視線をさまよわせれば彼の背後には、仲間たちが団欒しているいつもの部屋が静かに広がっていて、それがなまえにどうしようもなく羞恥を抱かせる。
やっぱり放してくださいと彼を見上げれば、唐突に腰を抱き寄せられ、口付けが降ってきた。

「ん、……っ、ふ、」

まるで握られた手の強さと反比例するように、重なる唇は無垢な子供のお遊びのように軽く触れ合う程度のもの。
しかし彼女から言葉を奪うにはそれで充分で。
ちゅ、ちゅ、と角度を変えて繰り返される軽いキスは、簡単に大人しくなったなまえを褒めるようにすぐに深いものへと変わった。

じんわりと溶けかけたなまえの脳裡に、くちゅり、と小さな水音が届き、思わずパンプスの華奢なヒールがぐらつく。
舌先で下唇をそっとなぞられれば、それだけで力が抜けてしまう。
下肢がふるえ、なまえが思わず脚を折ってしまいそうになったところで、ぐっと抱き寄せる腕の力が増した。

「っは、……ぁ、スティーブン、さん、」

僅かに唇を離せば、既にとろりと潤んだなまえの瞳が必死にこちらを見上げてくる。
スティーブンは目の端を歪ませ喉奥で低く笑った。
元々彼女自身の素質はあったのかもしれないが、なまえを見事ここまで従順に、かつ情欲的に仕立て上げた己れに対して、良くやったと称賛を送りたくなる。
自分だけが彼女に触れ、自分だけが彼女を乱し、自分だけが彼女のこんな顔を知っている――そう思うだけで脳髄が痺れるような堪らない感情に襲われ、思わずなまえに勝るとも劣らない熱い吐息がこぼれ落ちた。
どろどろとした欲望にどっぷり塗れていることを自覚しながら、拘束した手を少しも緩めることなく赤く染まった耳へ唇を寄せる。

「なまえ」

低い声が耳朶を擽る。
名前を呼ばれただけでぞくぞくとした感覚が背筋を這い上がり、それに羞恥を覚える余裕もないなまえはあえかに息を荒げた。
血より暗い虹彩が欲に揺らめいている。
至近距離でその目に見つめられ、ただただなまえは体をふるわせることしか出来ない。

「なまえ、お前が一番よく知ってるだろ。俺がちょっとばかり嫉妬深いってこと」

それを聞いて、なまえはほんの僅かに口角をゆるませた。
男の瞳に映る自分は、彼によく似たひどく欲深い色をしている。

そりゃあ新人が入るたびに牽制してるの実は知ってますからね、なんて可愛げのない憎まれ口は、残念ながら音になることなくそのまま彼の唇のなかへと消えた。
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