No puedo vivir sin ti.



「あ、おかえりなさい! お疲れさま」

開いたドアから入ってきた彼らを認めた途端、室内で分厚い書類を手にしていた女性がにっこりと笑んだ。

今日も今日とて天地を引っ繰り返すような乱痴気事件を巻き起こすはた迷惑な奴らは、ひとの都合なんてものを考慮してくれる気などこれっぽっちもないらしい。
迷惑極まりないことに早朝からロウアー・イースト・サイドで勃発した騒動に駆り出されていたレオナルドは、ようやくたどり着いたライブラ本部の事務所にて、見慣れぬ女性にぱちくりとまばたきをした。

クラウスやスティーブンたちは後処理があるとかで未だ現場にいるはずだが。
彼らのデスクの書類を整頓していた女性はそこから離れると、やわらかな笑みを浮かべたままレオナルドへと手を差し出した。

「はじめまして、レオナルド・ウォッチくん、よね? ここで事務員をしています、みょうじなまえです」

よろしくね、と小首を傾げてまた微笑んだなまえに、一拍遅れてレオナルドも握手を交わすため同じく手を伸ばす。
おずおずと手を握れば、嬉しそうに彼女の笑みが深まった。
心がほのかに温まり、ついこちらも頬が緩んでしまうような笑み。
邪気ない真っ直ぐな笑顔というものは、こんなにも心をやわらかくほぐしてくれるものだったか。
HLに来てからというもの、肉体的にも精神的にも荒んだ日々を送っていたレオナルドには、まるでなまえが女神のように見えた。
正直、うっかり泣きかけた。
彼女から後光が見えるのは気のせいだろうか。

レオナルドはでれでれと締まりのない顔をしつつ、こちらこそよろしくお願いします、と頭を下げる。
ぶっちゃけ一緒に入室してきた隣のSS先輩のことなんて、脳内からきれいさっぱり消し飛んでいた。

「おうなまえ、コイツと初対面だったっけか」
「うん。堕落王の一件のとき、わたし本部に居なかったし」

報告は聞いてたんだけどね、となまえが苦笑する。
次いでソニックとも手指を差し出して嬉しそうに握手をしている彼女を見ながら、こんな善良そのものって感じの女性と、度し難い人間のクズ野郎が会話できていることすら驚きだなあ……なんて失礼なことをレオナルドが考えていると。
なまえが、あ、と声をあげた。

「お茶いれてくるね、ふたりとも座ってて」

どうやらレオナルドが朝食にしようと手にしていたファストフード店の紙袋に気付いたらしい。
ギルベルトさん居ないし、わたしで悪いんだけど、となまえが背を向け、給湯室へと歩いていく。

彼女の着用する黒いスーツのスカートは膝丈、そこから伸びる脚も薄手の黒いストッキングで覆われている。
足元はそれほど高くはないヒールの黒いパンプス。
仕事に最適といえるかっちりとした禁欲的な身なりだというのに、その後ろ姿になぜだか妙に変な気を擽られてしまうのは、オーダーメイドなのだろうか、ぴったりフィットして体のラインを露わにしているスーツのせいか。

かいがいしくお茶の準備をしている彼女へ見惚れながら、なまえさんっていうのかぁ……と、レオナルドが依然緩んだ顔をしていると、いつものようにソファへ腰かけていたザップが(正直なところレオナルドはいまのいままで彼の存在を忘れていた)、ガシッと肩を組んできた。
ニタニタと歪んだ顔を寄せ、クズっぷりを隠そうともしない下世話な口調で尋ねてくる。

「おうおう、いっちょ前にレオナルドくんってば、甘酸っぱいオフィスラブでもおっ始めようって訳っすかァ〜?」
「ちがっ、そんなんじゃねーっすよ!」
「アーやめとけやめとけ、万が一、億が一、兆が一にもお前に見込みはねえよ。なんてったってよお、なんとなまえチャンのオフィスラブのお相手はだな、」

馬鹿ヅラをしておちょくってくるザップに、レオナルドが顔を赤らめつつ慌てて声を荒げていると。

「――おや、君たち早かったんだね」

先程自分たちが入ってきたドアが、がちゃりと音を立ててまた開かれる。
あ、スティーブンさん。
レオナルドが絡んでくるザップを押しやりながらそう呟けば、いままでにやけた表情を浮かべていた彼が声にならない悲鳴をあげてズザザザーッとその場から飛びのいた。
広い部屋の中央から端までへと人間離れした素晴らしい跳躍を見せたザップは、デッサンの狂ったような顔をしてだらだらと冷や汗をかいている。

なんだこいつ。
唐突な先輩の不可解な行動にそんな表情を浮かべていると、いつものように当たり障りなく薄く笑んだスティーブンが、一歩レオナルドに向けて脚を踏み出した。
その途端、パキ、と硬質な音がする。
それはまさに氷の塊を踏み、割れる、音。
この本部のなか、突如氷が現れる訳がない。
出てくるとすればそれは、目の前で微笑む男が意図的につくりだしたものに他ならない。

レオナルドはごくりと喉を鳴らす。
……なんかめちゃくちゃ寒いんですけど。
頭上にいたソニックが怯えて首元へとしがみついている。

「――さて少年。朝っぱらからどっかのバカが仕出かしてくれたさっきの事件、活躍してくれた礼にひとつ良いことを教えといてやろう」

一段低く抑えられた声色は、文字通り氷のように冷ややかで簡単に身動き出来なくなる。
あれ、まだ事件は終わってなかったってオチ?
事件は現場ならぬ事務所で起こってるんですとかそういう系?
レオナルドがただならぬ空気にいっそ泣きそうになりながら戦慄していると、スティーブンが笑みを深めた。
それは同じ笑みという表情でも、先程目にしたなまえのものとは正反対、真逆、対極にあるかのような、見る者に恐怖を覚えさせるもので。

「このHLには数えきれないほど多種多様、千差万別な死因で溢れているんだが、――他人のモノに手を出すって行為は、特にやっかいなことになりやすい。君、死因は増やしたくないだろ?」

まあこれはここで限ったことじゃあなくて、外界でも同じことだな、とうっすら笑ったスティーブンの、目。
服の隙間から入り込んだ冷気が、背中から首筋へと這い上がってくるような冷たさと圧迫感。

体の芯から寒さを覚えるくせに、冷や汗ばかりはだらだらと流れる。
本能的にこれはマジでヤバイと察知したレオナルドは、壊れた機械のようにコクコクとただ首肯することしか出来なかった。

「おまたせー……あ、スティーブンさんもおかえりなさい」
「ただいま、なまえ」
「お疲れさまです。……あれ、ふたりともどうしたの?」

彼女が戻ってきた瞬間、それまでの冷気が嘘のように霧散した。
ほんの数分前とは比べものにならないレベルのレオナルドとザップの憔悴っぷりに、なまえはきょとんと目をしばたかせる。

なんでもないさ、と微笑んだスティーブンは、彼女の手からカップを取り上げてそれへと口を付けた。
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