録画


「えっ、ストーカー?」

もうそろそろ閉店という頃、喫茶ポアロに素っ頓狂な声が響いた。
他に客もいないクローズ間際の時間帯、顔色の優れないなまえに「なまえさん、どうかしたんですか?」と梓が声をかけたのきっかけだった。
普段ならば無意味にだらだらと長居するタイプではないなまえを訝しんでいたのだろう。

気立ての良い彼女に促され、はじめは躊躇していたなまえもぽつりぽつりとここ最近自分を取り巻く違和感を口にしていた。

「あ、梓さん、声が大きいです……。それに、ストーカーっていう確信もなくて……もしかしたらわたしの思い違いかもしれないし……」
「でも、誰かにつけられている感じとか、家に帰ったら物の位置が動いていたって、どう考えてもおかしいですよ!」

なまえさん、一人暮らしだし怖かったでしょう? といたましげに顔を歪める梓に、なまえは、ええ、それは、まあ、と躊躇いがちに首肯した。

「警察には行ったんですか?」
「いえ、まだ……」
「どうしてですか!」
「だってまだストーカーって決まった訳じゃないですし……こういうのって、実際に被害がないと動いてくれないっていうし……」

怪しい人物を見たとか、無言電話がある、とかそういうのじゃないんです。
なんとなく、生活していておかしいなあって思うことが多くて……。

そう口にしつつ気弱げに眉を下げて苦笑するなまえに、ポアロの名物看板娘の梓はぐっと拳を握り締め、声高らかにその名を呼んだ。
ここでの勤務は彼女よりも遥かに日は浅いものの、頭脳明晰、スポーツ万能、来店する女子高生をはじめ多数の老若男女をファンに落としこんできた、非常に頼りになる人物の名を。

「安室さん! ちょっといいですか!」
「はい、梓さん」
「そんな大事(おおごと)にしなくても……」
「いいえ、いけません! なにかあってからじゃ遅いんです!」
「なまえさん、梓さんの言う通り、事件や問題が起こる前になにかしらの対策を講じておくのは大切ですよ。それに、女性の一人暮らしなんですから用心に越したことはないでしょう」
「安室さんまで……」

大方ずっと聞き耳を立てていたのだろう、カウンター内で食器を洗っていた安室は作業を一旦ストップし、テーブル席の彼女たちの元へやってきた。
なまえのため意気込む梓の言を肯定しつつ、冷静な声音で「他に被害はありませんか?」と問いかけてくる。

無関係な彼らを巻き込んでしまい申し訳なく思うと共に、それだけ誰かが自分に心を配ってくれているのだと思うとやはり嬉しく、なまえは無意識に強張っていた肩の力を抜き微笑んだ。
ストーカー被害も単なる自分の気のせいかもしれないとはいえ、それでもこうして励ましてくれる存在がいるというのは心強い。

しかしそんな彼女とは対照的に、安室は「ただ……」と顔を曇らせた。

「僕もお力になりたいのはやまやまなんですが、いま依頼が立て込んでいまして……」

梓が、ええー! と声を上げる。
安室も歯痒そうに眉をひそめ、なまえに頭を下げた。

「僕がご自宅のチェックや、通勤途中での身辺の警戒が出来たら良いのですが……。すみません、どうしても都合が付かず」

申し訳そうな表情で尚も謝る彼に、なまえは慌てて「いいえ」と手を振った。
ここポアロでの業務だけではなく探偵業でも忙しいというのに、これ以上なまえに時間を割かせるわけにもいかない。
元々正式な依頼でもないのだから彼がそこまで気に病むことはない……等と伝え、「お気持ちだけでも嬉しいです」となまえは微笑んだ。

「大丈夫ですよ、もし安室さんにそこまでしていただいて、やっぱり勘違いでしたっていうオチだったら、さすがに申し訳なくてもうポアロに来られなくなっちゃいます、わたし」
「なまえさん……」

おどけて肩をすくめたなまえに、安室も梓も苦笑する。

とはいえやはりひとりの自宅へ帰るのが不安ではあるのだろう。
明るい口調とは裏腹に、彼女の表情は普段より心なしか沈んでいた。
そんななまえを見かねたのか、安心させるよう安室は「では、こうしましょう」と微笑んだ。

「なまえさん、ビデオカメラか……使わなくなったスマートフォンはありますか?」
「え、ええ……持っています」
「それで、録画をするんです」
「録画?」
「ええ、要は、警察が動くだけの証拠があれば良いんです。外出中に物が動いている気がするんですよね?」
「は、はい……」
「では、部屋にビデオカメラ等を隠して設置してみてください。録画にもし怪しい人物が映っていれば、立派な不法侵入ですからね。さすがに警察も動かざるをえないでしょう」
「は、はい。そうですよね……早速試してみます」

安室さん、ありがとうございます、と幾分かやわらかさの増した表情でなまえが微笑んだ。
なにも起こらなければ……それこそなまえの言うように、ただの思い違いであってくれたらなら良いのだが、と安室も悄然と笑みを返した。


・・・



――次の日の夜。
仕事から帰宅したなまえは、やはり部屋へ入った瞬間、違和感を覚えた。

よくよく注視してみると、今朝出社するときはある程度溜まっていたゴミ箱が空になっている、サイドテーブルに置いていたはずの雑誌がデスクに移動している、洗っておいたグラスが食器棚に片付けられている、……そんな些細な変化、しかし誰か人間が意思を持って手を加えなければ決して起こりえない変化が、なまえの自室にははっきりと生じていた。

――生活のなかで最もリラックスして過ごせるはずの自宅が、心底恐ろしくて堪らない。
なまえは震える手で、ぱっと見ては分からないよう隠して設置していたビデオカメラを取り出し、再生しはじめた。

しばらくはなにも映らなかった。
見慣れた自室の風景。
なんの変化もない定点映像を、時折早送りしつつなまえが見つめていると――、

「っ!?」

ひっ、と息を飲んだ。
画面を凝視したまま視線も逸らせず、かたかたと震える手でスマートフォンをたぐり寄せる。

昨日教えられたばかりの電話番号を縋るようにタップする。
プルルル、とたった数コールの待ち時間すらもどかしい。
どうか、はやく、となまえが祈っていると、幸いにもすぐに相手は電話を取ってくれた。

「なまえさん? どうかしましたか?」
「あ、安室さんっ……! すみません、こんな時間に、あの、録画がっ」

未だ震えも止まらず、ぶわりと汗も浮いたてのひらでは、スマートフォンをしっかり握ることも出来ない。
なまえは両手で縋るように端末を握り締め、浅く呼吸を繰り返した。

「なまえさん、落ち着いてください。帰宅して、いま、録画を再生しているんですね」
「そうですっ、部屋に違和感があって、それで、見てみたら……お、男のひとが、」

大きく見開いたなまえの目は、小さな画面を凝視していた。
そこには見知らぬ男がなまえの部屋に侵入し、我が物顔で物色する場面が映し出されていた。
男はいまはゴミ箱を漁っている。

「男? 面識はありますか?」
「わ、わからないです……顔が、よく見えなくて」

帽子を目深にかぶった男の顔は、なまえには判然としない。
知人なのか、あるいは全く知らない他人なのか……それすらも分からず、なまえは安室の声に必死に縋る。

「安室さんっ、ど、どうしたら、」
「とにかくなまえさん、落ち着いて。いまから僕が向かいますから通話はそのままで、切らないでください」

恐怖は全く収まらないものの、それでもいつもの安室の声を聞いた瞬間、どっと安堵が湧くのを感じる。
通話の向こう側から、慌ただしい物音やドアの開閉音が聞こえてくる。
どうやら本当になまえの元へ来てくれるつもりらしい。

なまえがそのことに勇気づけられていると、映像は信じがたい光景を映し出している真っ最中だった。

「っ、や……」
「どうしましたか、なまえさん」
「や、やだ、クローゼットの服……」

小さな画面のなかで、丁度、男がクローゼットを開けるところだった。
慣れた手付きで衣装ケースを開け、なまえの衣類を取り出してベッドに並べている。
そのなかには下着も含まれていた。
足下からぞわぞわと這い上がってくるような気色の悪さを感じ、なまえは口元を手で押さえた。

「うっ……」

震えるなまえの目の前で、彼女のワンピースに男が顔をうずめている。
いままで何度もこの男はこうしてなまえの自室を訪れていたのだと思うとぞっとして、こみ上げてくる嘔吐感を堪えるのに必死だった。

「無理しないで。あなたが見続ける必要はありません。到着したら僕がチェックしますから、なまえさんは再生を止めて待っていてください」
「は、はい……」

崩れそうになる気持ちを、安室と電話をしていることでなんとか耐える。
よく知る彼の声を聞いていると、非現実的な録画画面の光景から、いまなまえがいる現実へ引っ張ってくれる心地がした。

――しかしこれだけはっきりとした証拠があるのだ、きっと警察も動いてくれるに違いない。
その点だけは心のどこかで微かに安堵しながら、言われた通り録画を停止しようとしたとき――室内を物色するのに飽きたらしい男は、なんのつもりか、クローゼットの中へ入って行った。

なまえは目を疑った。
呆然と固まるなまえを余所に、男は器用にも内側から扉を閉める。

「うっ……やだ……クローゼットの中に入って、なかなか出てこない……」
「クローゼットの中に?」
「は、はい……やだ、気持ち悪い……」

男がクローゼットの中へ身を潜ませ、数分が過ぎた。
映像は再び固まったように動きを見せない。

今度こそなまえが停止ボタンを押そうとしたとき――画面のなかで、また、なまえの部屋に誰かが入ってきた。

「あっ、また誰か入って……あ、わたしか……」
「……なまえさん……?」

電話の向こうで安室が彼女の名前を茫然と呟く。
ただならぬ雰囲気の彼を余所に、画面を見るなまえはほっと息をついた。
なんだ、わたしか、と。

部屋に入ってきたのは、帰宅したなまえ自身だった。
不安げにきょろきょろと辺りを見回している。

そして画面のなかのなまえは、カメラに近付き、録画を止めた。

――そこで、録画は終わっていた。



いま、クローゼットのなかにいる
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