(※「漆黒の追跡者(チェイサー)」でのおはなしです)




アトリエ


「折角のお休みなのに、付き合わせてしまってすみません」

重たい段ボールを安室さんに奪われながら、わたしは恐縮してまた頭を下げた。
大学の講義がぽっかり空いていた平日の午後、引っ越し作業を彼に手伝ってもらうことになるなんて思ってもみなかった。

「いえいえ、それにしてもなまえさんも災難でしたね」

教科書やノート類の詰まった重たい段ボールを運びながら、安室さんが苦笑する。
白いTシャツから伸びる褐色の腕がまぶしい。

「折角引っ越ししたのに、まさか一週間でまた転居とは。それも理由は借主の方が亡くなって……でしたっけ?」
「そうなんですよ……我ながらびっくりです」

肩をすくめて苦笑しつつ、わたしは夏服を詰めた比較的軽めの段ボールを抱え上げた。
急遽引っ越ししなければならなくなってしまったのは、もうすぐそこで待ち構えている試験を乗り越えれば夏休み、というタイミングだった。

転居先はなんとか見付かったものの、なにしろ急な話で引っ越し業者は捕まらず。
友人たちも運悪く予定が合わなかった。
どうしたものかと行きつけの喫茶ポアロで世間話がてらにこぼしていたら、偶然その場に居合わせた毛利さんが、安室さんに手伝うよう言明してしまったのがそもそものきっかけだった。
毛利さんのお気遣いはありがたいけれど、さすがに探偵のお仕事とはあまりにもかけ離れているし……と辞退しようとしたら、ありがたいことに安室さんは二つ返事で快く引き受けてくれた。
謝礼は勿論お支払いするつもりだけれど、提示されたその額も業者に頼むよりも遥かに安価で。
大学生のバイト代なんてたかが知れているから、とても助かったのは事実だった。

「借主は……確か、新堂さんでしたよね。抽象画家の……」
「ええ、新堂すみれさんです。安室さん、絵画にも詳しいんですね」
「いえいえ、とんでもない。テレビや新聞で見聞きした程度の知識ですよ。……彼女の事件は大きく取り上げられましたから」
「連続殺人、ってすごく騒いでましたもんね。東都タワーでの騒動もあって……犯人もちゃんと捕まって安心したんですけど。……すみれさん、姉の友人なんです。住むところを探しているってぼやいていたら、アトリエ代わりに借りているマンションの一室を貸してくれて」
「そうだったんですね」

画家であるすみれさんは、主に生活する住居とは別に、マンションの一室を借りてアトリエとして利用していた。
アトリエに入らない、創作活動を邪魔しないという条件で、使わない部屋を貸して住まわせてくれた……のが一週間前のこと。
まさか、彼女が事件に巻き込まれて亡くなってしまうなんて、誰が想像できただろう。

「わたしがいるときならともかく、女の子ひとりなんだから、夜はちゃんと鍵とチェーンは閉めておきなさい、っていうのがすみれさんとの約束だったんです」
「優しい方だったんですね」
「ええ……」

俯いて唇を噛み締める。
たった数日という短い間だったけれど、すみれさんの使う絵の具や画材たちの香りはとても慕わしく、それがいまはもう彼女と共に失われてしまうのだと思うと胸が締め付けられるようだった。

「なまえさん……」

安室さんが静かにわたしの名前を口にする。
気遣わしげな表情で見つめられ、ああ、いけない、と内心慌ててしまった。
折角ご厚意で手伝ってもらっているのに、そんな顔をさせてしまうなんて申し訳がない。
無理やり口角を引き上げる。
下手くそな笑みだと自覚はあったものの、しみったれた顔ばかりしていても仕方がない。
ついでにこの雰囲気を払拭したくて、ずっと気になっていたことを軽い口調でさらりとこぼした。
――頭脳明晰な安室さんのことだ、なにかしらの答えをくれるかもしれないという期待ももしかしたらあったのかもしれない。

「――でも、不思議なんですよね」
「不思議?」
「あの日です。すみれさんが亡くなった日。住まわせてもらっていたってことで、わたしも警察のひとから事情を聞かれたんですけど……刑事さんの言うことと……その、なんていうか、わたしの聞いたものと、時間が合わなくて」
「……どういうことですか?」

鋭い声音に、思わずぴくりと肩が跳ねる。
ほんの数瞬前までの気遣わしそうな表情から一変、真剣な眼差しで安室さんがこちらを見ていた。
その青い目に気圧されるようにして、わたしは口ごもりつつ当時の状況をなんとか説明しようと努めた。

「亡くなった時間……ええと、死亡推定時刻っていうんでしたっけ? その時間よりも後に、わたし、彼女がアトリエに来たのを聞いているんです」
「死亡推定時刻の後? ……それはいつですか」
「亡くなった日の夜です。そのときはまだわたしはすみれさんが亡くなったって知らなかったから、いつも通り、彼女のアトリエの横の自分の部屋で寝ていたんですけど……夜中、玄関が開いた音で目を覚ましたんです。廊下を歩いて、アトリエに出入りする音が聞こえて……ああ、すみれさんだって寝ぼけながら思ったんです」

――抽象作品だけではなくて、創作活動ではそういう……「下りてきた」っていうんですか?
時間なんて関係なく、アイデアが浮かんできたタイミングで作品を描くこともあるから、作業時間はバラバラで迷惑をかけるかも、って前もってすみれさんから言われていたんです。
だから夜中に玄関が開いたときも、ああ、こんな時間に大変だなあって……。
まあ、時間的にありえないから夢でも見ていたんだろう、って刑事さんにも笑われてしまったんですけどね。

苦笑しながらそう締めくくると、安室さんが思案顔で先を促してきた。
形の良い眉は、不可解げにひそめられている。

「でも、なまえさんはなにか引っかかっているんですよね?」
「え、ええ、まあ……。おかしいなって思って……」
「おかしい?」
「えっと……翌日、確かにアトリエには、すみれさんが入った跡があったんです。いつもみたいにキャンバスが準備してあって……きれいに整頓されていて。事件のときは、ぐちゃぐちゃに室内は荒らされていたらしいのに……。誰か、警察のひとが片付けてくれたんですかね?」

――わたしは片付けていないんです。
普段から、彼女のアトリエには近付かなかったので。
室内が荒らされていたことも、後から刑事さんに聞いたくらいで……。

そこまで告げたところで首を傾げていると、安室さんは静かに「そうですか」と呟いた。
低い声音に、思わず彼を見やる。

「……なまえさん、ひとつお尋ねしても良いですか」
「え? は、はい」
「住んでいたところは、玄関にドアポストはありましたか?」
「ドアポスト? マンションの入り口にある、集合ポストじゃなくて?」
「そうです。よく玄関ドアののぞき窓の下部に設置されている……」
「ああ、あれですか。ええと……あのマンションの部屋にはありませんでしたね」
「そう……ですか……」

安室さんは、喫茶店で接しているいつもの爽やかな笑顔からは想像もできない硬い表情を浮かべていた。
彼のそんな表情は初めて見たとあって、わたしは少し驚いてしまった。

どうかしたんですか? と食器類の入った段ボールを運びながら恐る恐る尋ねる。
なにか気に障るようなことでも言ってしまったんだろうか。
亡くなったひとの話題なんて出すべきではなかっただろうか、と申し訳なく思っていると、安室さんがぽつりと呟いた。

「……ドアポストがあれば、チェーンを外すトリックが可能ではあったのですが」
「トリック?」

どういうことですかといくら尋ねても、結局、安室さんは苦笑するばかりで一向になにも答えてはくれなかった。



真夜中、入ってきてアトリエを準備したものは誰だったのか、何だったのか? 家主との約束で、夜眠るときは鍵もチェーンもかけていたのに。
- ナノ -