「災害レベル」と形容された今年の夏の陽射しは容赦なくかんかんと照りつけ、試験中ということもあってか学内は閑散としていた。
日傘を差して木陰を選んで歩いていても、吹き付ける風がこう生暖かくては、じっとりと浮かぶ汗を乾かすことすら難しい。
今日は試験がふたつしかなかったおかげではやく帰宅できるものの、なんの因果か太陽は丁度真上の時刻、気が遠くなりそうな暑さのなかわたしは朦朧と呟いた。

「なんだか妙なことになっちゃったなあ……」

ダークグリーンのハンカチを恨めしげに見やる。
あのあと安室さんから聞いた情報によると、ハンカチの主の名前は「沖矢昴」というらしい。
二七歳、工学部の院生、喫煙者……とのことだった。

まさか院生だったなんて!
……なんて大袈裟に嘆きたくもなる。
工学部というだけでもツテがなくて悩んでいたのに、院の方なんて尚更だ。
シンプルなフレームが印象的な眼鏡をかけた彼は、いまどき珍しいほどクラシックな服装で(それが似合っているからスタイルが良いひとは本当に羨ましい)、知的で落ち着いた風貌だったから、もっと年齢も上だと思っていた。
先生や補助のひとだったら、探しやすかったのに……と肩を落としながら、とりあえず学生課へ向かった。
理数系にツテがないのだから仕方ない。

「忘れ物を拾ったのですが」と申し出れば、「じゃあ預かりましょうね」と返された。
いや、そうだよね、普通そうなるよね。

「拾った場所や時刻、ここの欄に記入してもらって……」

職員に差し出された小さな用紙には、「取得物届出書」の文字が。
なんと説明したものかと思いあぐねつつ、「いえ」と首を振る。

「ええと、ハンカチを拾ったんですけど、……誰のものかは分かってるんです」
「はあ」

往来は真っ直ぐ立っていられないほどの炎暑だというのに、いいや、だからこそか、室内は空調がききすぎていた。
対応してくれた人の好さそうな年配の女性は、薄手の黄色いカーディガンを羽織っていた。

「学部と名前は知っていて……でも連絡先は知らなくて」
「そう……どこで拾ったの?」
「ええと、喫茶店で……そのひとと一緒になって」
「じゃあ、その喫茶店に置いてもらっていたら? また本人が来たときに返してもらえば良いじゃない?」

不思議そうに首を傾げた彼女に、うっかり「ですよね!」と声をあげてしまいそうになった。
おっしゃる通り、ポアロに「忘れ物」として保管しておくのがベスト、というかそれが普通ですよね。
なのに、どうしてわたしはこんなことを……と回想するまでもなく、安室さんのコーヒーとケーキにほいほい釣られたのは他ならぬわたし自身である。
おのれ、安室さん……!

「いま色々と厳しいからねえ、住所や連絡先は教えられないの」

責任転嫁して義憤に駆られていると、年かさの女性がのんびり呟いた。
そうか、いまは試験期間中だからあまり学生課にはひとは来ないのか、と閑散とした室内を見回しながら「そうですか」と合槌を打った。
特に急ぎの仕事もないのだろう、いつの間にか切り替わっていたスクリーンセーバーの画面を解除するためだけに、彼女がそっとマウスを動かした。

「あっ、じゃあ学生情報を検索してもらって、どの先生のゼミなのかだけ教えてもらえません? 自分で渡しに行きます」

さすがに所属する学部の情報だけでは、この膨大な量の学生のなかから彼ひとりを見付け出すなんて、藁山のなかから針を探すようなものだ。
顔はお互いに見知っていますから、と食い下がれば、溜め息をつきつつ女性はパソコンの画面へ向き直ってくれた。

「お手数おかけして申し訳ないです……」

彼の情報を伝え、へらへらと愛想笑いを浮かべながら見守っていると、クーラーの冷風に肌寒さを覚えた。
なるほど確かにこの寒さ、彼女のようにカーディガンや膝掛けが必要だろうと内心思っていると、唐突に「あら?」と声が湧いた。

「どうしました? 沖矢さん、見付かりました?」
「それがねえ……学生証の番号も出てきたし、在学はしているはずなんだけど……その他の情報が出てこないの」
「全然?」
「全然」
「所属ゼミも?」
「それどころか、入学も編入も、した記録がないの」
「ええと……それはどうして?」
「どうしてかしらねえ……」

ふたり揃って首を傾げた。
冷えた風が直接肌に吹き付け、ふいにぶわりと肌が粟立った。
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