「……あれ?」

ほんの数十センチほど離れたソファ席に、ハンカチが落ちていることに気が付いた。

色は落ち着いたダークグリーン。
飾り気のないごくシンプルなもので、男性ものだろうなとすぐに分かった。
ええと、さっきこの席に座っていたのは……と朧げな記憶を辿っていると、コーヒーが運ばれてくるところだった。

「丁度良かった、梓さん。これ、さっきのお客さんが忘れてったみたいなんです」
「えっ、忘れ物? どうしよう……あ、なまえさん、ありがとうございます!」

梓さんは困り顔になってしまったかと思えば、はい、と手渡すと一変、花のような笑顔で受け取った。
くるくる表情が変わってとてもかわいい。
梓さんの笑顔が移ってしまったようにこちらもにこにこしていると、ええと、と彼女が首を捻った。

「うーん、さっきここに座っていたのって、」
「――沖矢さん、でしたねえ」

彼女の後ろからひょっこり顔を出してきたのは、安室さんだった。

「あれ、安室さん、お知り合いですか?」
「ええ……まあ、ちょっと」
「じゃあ安室さんが渡してあげたら……」
「いえいえ、親しいわけではまっっったくありませんから」
「そうなんですか?」
「……ああ、そういえばみょうじさん」
「えっ、あ、はい」

梓さんと安室さんの会話をぼけっと眺めていたわたしは、突然水を向けられてぱちくりと目をしばたたかせた。
そうか、彼、沖矢さんっていうのか。
いままで何度かポアロで顔を合わせたことがあって、お互い、会釈くらいはする仲だった。

というか安室さん、その沖矢さんとやらとなにかあったんだろうか。
思いっきり否定していたし……と不思議に思っていると、ずい、と顔を寄せられた。
わあ、めちゃくちゃお肌がきれい。
睫毛もぱっちりしていて非常に羨ましい。
安室さんの後ろの方で、梓さんが恐る恐る「炎上……」と呟いていたのは何なんだろうか。

「不躾ですみませんが、確かみょうじさんって、東都大の学生さんでしたよね?」
「え、ええ、まあ」
「実は沖矢さんもなんですよ」
「そうなんですか。初耳です」
「文学部のみょうじさんと違って、彼は工学部なんですけどね」
「へえ、詳しい……って、あれ? 安室さん、わたしが文学部なのどうして知って……」
「ああ、この間、ご学友の皆さんといらっしゃったときに、お話が聞こえたものですから」

聞き耳を立ててしまってすみません、と申し訳なさそうに苦笑する安室さんに、いえ、と首を振る。
むしろこちらこそうるさくしてしまって悪かったなあと反省していると……そこで、はた、と気が付いた。

「……まさか安室さん」
「ふふ、察しがよろしいようで」
「ええ、そんな、無理ですよ……ウチの大学、学生がどれだけいると思ってるんですかあ……」
「確か今年の一般入試の合格者数は3080名ほどでしたっけ」
「なんでそんなこと知ってるんですか」
「最高学府の入試関連は毎年ニュースになりますからねえ。それに記憶力は良い方なので」

微笑みながら、はい、とハンカチを手渡された。

「沖矢さんにどうぞよろしくお願いします」
「……いくらなんでもハイリスクローリターン……いや、骨折り損のくたびれ儲けなのでは……」
「ふーむ。では、こうしましょう。無事そのハンカチを彼に届けることが出来たら、以降一か月いつでも、僕からみょうじさんにコーヒーを奢らせてください。新作のケーキも付けましょう」
「乗った!」

安直に、ハイ! と手を挙げる。
安室さんは、よろしくお願いしますね、とにっこりと擬音語が聞こえてきそうなほど完璧な爽やかスマイルを浮かべた。
うっ、笑顔が眩しい……!

用は済んだとばかりにさっさとカウンター内に戻ってしまった安室さんの後ろ姿を見送って、いよいよ引っ込みが付かなくなってしまった……と、まじまじハンカチを凝視する。

というか、いくら学校が同じだからとはいえ、どうしてこれがわたしの手に……?
くっ、全ては安室さんの提案が魅力的すぎるせいだ!
学校に行くついでに忘れ物を返すおつかい程度で、向こう一か月、安室さんのコーヒーとケーキが食べ放題だなんて……!
釣られちゃうに決まっている! と内心憤慨していると、梓さんがぽつりと呟いた。

「……なんだか珍しい」
「え?」

穴が開くほどハンカチを見つめていたせいで、反応が遅れてしまった。
首を傾げていると、口元に手を添えながら、梓さんが内緒話をするように顔を寄せてきた。

「安室さんがこんなこと頼むの、珍しいなって思いません?」
「めずらしい?」
「うーん、なんていうか……安室さんって、こういうの自分で解決しちゃいそうじゃないですか?」
「……言われてみれば……まあ、確かに」

そう言われてみれば、そんな気もしてくる。
安室さんだったら、探偵ですから、なんていつものように笑って、このくらいの些事はサラッと解決してしまいそうではある。

「あっ、もしかして! なまえさんと例の沖矢さんが、お似合いかもって思って……きっかけ作りを期待して……!」
「いやいやさすがにそんなことは」

ないない、とぱたぱた手を振れば、まるでタイミングを見計らったかのように、カウンター内から「梓さーん」と安室さんが呼んできた。

「はーいっ!」

にまにま笑ったまま(とてもかわいい)、梓さんがスキップでもしかねない勢いで戻っていった。
楽しそうでなによりだけど、残念ながらわたしは当事者なのでそれをほのぼの見守ることは出来そうになかった。

「はあ……」

ず、とようやく一口目を飲むことが出来たコーヒーは程良い温かさ。
思わず、ほう、と一息ついた。

……さて、安住の地だと思っていたここ喫茶ポアロで、なんだか面倒なことに巻き込まれてしまった。
どうしようか、と二口目を味わったところで、手持ちの情報がひどく少ないことに気付く。

「……安室さん、お手すきの時で構わないので、後でちょっとよろしいですか」

このハンカチの主のことについて、とダークグリーンの布きれを指し示せば、カウンターから顔を出した安室さんは、やはり完璧な笑顔で「喜んで」と嘯いた。
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