この話は一言一句の末まで絶望的に真実だが、読む人にいきなり信じてもらおうとは思わない。
現代では、物事を信じる前提として「合理的説明」が求められるからだ。

従って、まずは、我が身に降りかかった悲劇をわたしが語り聞かせた人々にもっとも受けのよかった「合理的説明」を提示しておこう。
わたしたち二人――なまえとわたし――は、あの八月三十一日に「妄想にとり憑かれて」いたのであり、そう考えることで全て割り切れる、というものだ。
わたしの話を聞き終わったとき、この説がいかほどのことを「説明」しているか、どういった意味合いで「合理的」であるのかを、あなたは己(おの)がじし判断なさるがよかろう。

この話には三人の人間が関わっている。
すなわち、なまえ、わたし、そしてもうひとりの男だ。
彼はまだ生存しているので、わたしの話のもっとも信じがたい部分について証人となってくれるはずだ。




わたしはこれまでの人生で、あたりまえの日常的必要――とても安価とは言いがたい仕事道具の数々、上質な稀覯本、愛車の維持費――について悩むという機会がついぞなかった。
結婚したときにも、飢え死にするつもりなら「浪費癖のある妻を迎えずに済んだ」ことを悔いるくらいしか手立てはなかった。

わたしは二十代から三十代の大部分を捧げた大きな「仕事」を終え、なまえを連れてアメリカへ移住し、十を超える年月が経過した頃のことだった。
休暇用の小さな家を英国に購入することになり、彼女が都市部に住むことを控え目ながら辞退したため、結局わたしの母が生まれた故郷のあたりの小さな一戸建てを手に入れるに至った。

南部の沼沢地に面した丘の上にある小さな村だ。
滞在していた海沿いの無から教会を目当てにこの村へ向かったところ、教会から畑二つ隔てた場所にその家があった。
一軒だけぽつんと建っており、村からは二マイルほど離れていた。

――「まるで、セント・メアリ・ミード村みたいですね」、よくなまえはそう言って笑ったものだった。
なるほど彼女の言う通り、居並ぶ家々には必ず手入れの行き届いた小綺麗な庭があり、隣人は隣人同士を知りすぎるほどに知り抜いていた。
良く言えば伝統的かつ牧歌的、悪く言うならば停滞、沈殿したこの村は、「古き良き」という言葉に辟易するほど誇りを持っていた。
死ぬまでここに住めと言われれば、火のついた煙草を愛すべき隣人宅へ投げ込んでやりたい衝動に襲われることは間違いなしだったが、年に数週間ほどの休暇を時折過ごすには文句のない場所だった。

「俺はロンドンの方が趣味に合うが」
「ベイカー街はもちろんわたしも好きですよ。でもお休みのときくらい、のんびりしたところで過ごしましょうよ。レザーヘッドは見付かりませんでしたし」
「ストーク・モーラン?」
「そう。蛇を飼うのはやめてくださいね」

この国が誇る名探偵たちによって馴染み深い地名や言葉を挙げれば、鈴が転がるように軽やかに笑うなまえの聡明な美しい瞳が、わたしをうっとりと見上げた。

備え付けられていた家具たちに、彼女が気に入ったチッペンデール様式の椅子たちを加え、ついでにロンドンのリバティで買い物を済ませれば、高くはない天井をオークの梁が伝い、窓に格子模様のあるこの家は懐古調のきらいが些か強いもののすっかり住みやすいものになった。

古風な庭には草の生えた小道が通り、タチアオイ、ヒマワリ、大きな野ユリがたっぷりと咲き誇っていた。
窓からは沼べりの牧草地が見え、その向こうに青く薄い線となった海を望む。
よく晴れた夏と相まってわたしたちは大いに気分が良く、思っていたよりも英国での休暇を楽しもうという意欲が湧き上がっていたことは決して否定できなかった。
開け放たれた格子戸からの見晴らし、雲が彩なして浮かんでいるさまは、紫煙に混じることなく見飽きることもなかった。


わたしたちは、留守の間、家の管理を任せる農家の老婦人を雇った。
彼女はわたしたちの家に最も近いところに住んでいて、村の家々で料理をしたり、洗濯をしたり、様々な面倒を見て生計を立てていた。
旧時代的な村には、そんなオールド・ミスや夫人が未だ多くいたのだ。

わたしたちがその家を離れている間、週に一度か二度、掃除や庭の手入れをしてくれるのを引き受けてくれた彼女は、一遍、届いた手紙をクアンティコに転送したこともあった。
庭仕事についてはなんでも知っていて、あちこちの茂みや畑についている名前を教えてくれた。
さらになまえが興味を寄せたのは、星の輝く夜に物寂しい峡谷で「歩いていたり見えたり」する不可思議なものの話だ。

彼女はわたしたちにとって慰めだった――彼女、ミセス・ドーマンは新たな入居者を、それもアジア系の風貌の若い夫婦を、村に馴染ませようと奮闘しているようだった。
閉鎖的な村ではよくある話だが、教会の慈善活動やささやかな婦人たちのお茶会に熱心に参加しては、やれ旦那様の母親はこの近くの村の生まれなのだとか、奥様はこの村に親しみや愛情を持って住んでいるのだとか、勝手に噂話を広めてくれるのに役立った。

結婚してからというもの、わたしたちはとても幸せで喧嘩ひとつしたことがなかった。
さて、三度目の滞在中――八月のある夜、わたしは最近知り合いになった医者――その村唯一の医療従事者で、陽気なアイルランド人だった――に呼ばれていたので家を出た。
まだ年若いとはいえ彼のシガレットコレクションはなかなかのものだったし、この外界から隔絶されたような村では珍しく、様々な国を渡り歩いた経験を持つ人物でもあった。

なまえは庭や小道に茂る植物たちの手入れをしたいのだと言って、ひとりで家に残った。
ところが、わたしが帰ってみると、なまえは淡いモスリンのスカートをうち乱し、窓際の椅子に座って泣きじゃくっているのだ。

「どうした、何かあったのか?」

わたしは彼女を抱き締めて言った。
なまえはやわらかな黒髪をわたしの肩に押し当てて泣き続けた。
彼女が感情を大きく乱すのはひどく珍しいことだったので――特にひとりで泣き続けることなんて――なにか恐ろしいことが起こったに違いないと思われた。

「いったい、どうしたというんだ? 聞かせてくれないか」

「ミセス・ドーマンが」となまえがしゃくりあげた。
「彼女が何をした?」――これなら大したことはなさそうだ。
わたしはほっとしながら尋ねた。

「月末までに辞めたいって言うんです、姪御さんが病気だからって。いまも看病をしに行ったんだけど、それが本当の理由とは思えない。姪御さんはずっと病気なんだもの。誰かが、ミセス・ドーマンにわたしたちを嫌わせようと仕組んでいるのかしら。それに、あの人の様子、とっても変だったから――」

「まあ、落ち着いてくれ」とわたしは応じた。

「とにかく、泣くのはやめてくれ。そうでなければ、俺も泣いて君をなだめないといけない。そうなったら、君に夫として尊敬してもらえなくなってしまう」

彼女は大人しくハンカチで涙をぬぐうと、力なく微笑んだ。
「だけど」となまえは続けた。

「本当に、どうすれば……村の人たちはとても人見知りだから、ミセス・ドーマンが辞めたら、同じ仕事を引き受けてくれようなんて人はいないでしょう。そうなると、夏の間、この庭も小道も見るも無残な有様になってしまうし、部屋も埃だらけになっちゃう」

仮にそんな羽目になったとしても後々どうにでも出来るさ、とわたしは説いた。
けれども、彼女はひどく悲観的な物の見方しかしようとしなかった。
わたしのなまえはとても分からず屋なのだ。
とはいえ、彼女があの論理学者ホエートリーのごとく論理的になってしまったら、百年の恋も冷めてしまおうというもの。

「ミセス・ドーマンが帰ってきたら、話をしてみるよ。なんとかならないか、交渉してみよう」
「ごめんなさい。秀一さん、任せてもいい?」
「勿論だよ、多分、給料を上げてもらいたんじゃないか。きっとうまくいくさ。教会まで散歩に行かないか」




わたしたちのお気に入りの教会は寂しい場所に建つ大きな建物で、月の輝く夜などは特によく出かけたものだ。
家から教会に行く場合、小道が林のすそをめぐり、一箇所で林を突っ切ると、草原を二つ抜けながら丘の頂上を走り、草地の壁ぞいにぐるりと回る。
その辺りは古いイチイの木々がうっそうと覆いかぶさっているのだ。

この小道は一部舗装されており、「柩道(ひつぎみち)」と呼ばれていた。
というのも、埋葬する遺体をここから墓地に運び込むのが昔からのしきたりなのである。
墓地は緑が多く、すぐ外にはニレの巨木が何本となく威風堂々たる枝を伸ばしており、その姿は安らかに眠る死者たちを祝福するかのようだった。

幅広な低いポーチをくぐり、ノルマン様式のアーチにはめ込まれた飾鋲付きの重いカシの扉を押せば、それが教会への入り口だ。
中に入ると、数多くのアーチが暗闇に迫り上がり、アーチのあいだには網格子の窓が月明かりで白く輝いている。
内陣にある窓には豪華なステンドグラスがはめ込まれていて、ほのかな光の中でも高貴な色使いを見ることができた。
その窓から差し込む光が、黒いカシでできた聖歌隊席を闇にやわらかく溶け込ませている。

ところで、祭壇の両脇には低い石版があって、灰色の大理石で作られた横臥像が安置されていた。
石でできたやわらかそうなガウンをまとい、両手を永遠の祈りに組み合わせた男の像だ。
奇妙なことに、この像は、わずかな光が差し込んだだけでも常に姿を見ることができた。
彼の名前は不明だが、農夫たちが語るところによれば、彼は残忍な悪漢であり、陸海で悪名をとどろかせ、人々に忌み嫌われた。
その行いがあまりにも非道だったので、彼らの家――わたしたちの敷地にかつて建っていたという、例の邸――は、怒れる神が下した雷によって打ち壊された。
それにもかかわらず、彼の子孫は財力に物を言わせて、教会の中に彼の安置所を設置したというのだ。
大理石に彫られた知的そうな顔と、穏やかな微笑を見るに、そんなことは到底信じられないような話だったが。

この教会は、夜になると一番眺めがよく、かつ一番不気味に見えた――イチイの木が窓を通して身廊の床に影を投げかけ、柱にギザギザの陰影を這わせているからだ。
押し黙ったまま腰をかけ、古い教会の荘厳な美しさを見つめていると、この教会を築いたいにしえの人間たちが抱いたであろう畏れがいささか乗り移る心地がする――というのはなまえの言だ。
わたしはもっぱら、ステンドグラスが彼女の顔に色彩を捧げるのをたっぷりと眺めていた。

わたしたちは内陣に向かって歩き、眠れる者たちを見つめた。
そうして静かに教会を出た。

ミセス・ドーマンが村から帰ってきていたので、わたしはいきなり差し向かいで話すことにした。
「ミセス・ドーマン、」――彼女を自分の書斎に連れてくると、わたしは話を切り出した。

「うちを辞めるって、いったいどういうことなのか尋ねても?」
「月末までにお暇をいただければ、大変ありがたいのですが」

彼女は、いつもの落ち着き払った調子で答えた。

「なにか気に入らないことでも」
「いいえ、いいえ、そんなことは全くありません。旦那様も奥様も、本当に良くしてくださいますし――」
「ではどうして? 給金が少なすぎるのかな」
「いえ、じゅうぶん頂いています」
「では、なぜ辞めようと」
「ここには――」

言いよどんで、彼女は話題を転じた。

「姪が病気なものですから」
「しかし、姪御さんの病気は我々が来たときからの話だろう?」

この問いに返事はなかった。
長く、重苦しい沈黙。
それを破ったのはわたしだった。

「せめてもう一か月いてもらうわけにはいかないかな?」
「いいえ。木曜日にはここを発たなければなりませんので」

今日はもう月曜じゃないか!

「しかし、辞めるなら辞めるで、もっと早く言ってもらえば――新しい人を雇うひまもない。せめて来週までいてもらうことはできないか」
「来週には戻ってこられます」

ということは、ミセス・ドーマンはほんの少し休みがほしいだけなのだ――はじめからそう言ってくれれば良いものを。

「しかし、なぜ今週突然そんなことを?」

わたしはその点にこだわった。――「理由を話してくれないか」
ミセス・ドーマンは急に寒気を催したかのように、いつも着ている小さいショールの胸元を掻き寄せた。
そして、ようやくという感じで口を開いた。


「カトリックの時代、ここに大きな家がございまして、いろいろなことがあったといいます」

それがどのような「こと」であったかは、彼女の声音からそこはかとなく伝わってきた――なにしろ、ぞっと血の冷えるような声音だったのだ。
なまえが部屋にいないのは幸いだった。
感受性の強い人間の例に洩れず、彼女はいつでも神経質なのだ。
この年老いた農家の婦人の口から――それも曰くありげな態度と思わず引き込まれる真剣さで――我が家にまつわる因縁を語られたなら、さっそくこの家がいやになってしまいかねない。

「洗いざらい話してくれ、ミセス・ドーマン」とわたしは言った。
「なまえが席を外しているいまなら話しても大丈夫だ。そういう昔話を馬鹿にするような若い人間でもないしね」

「それではお話ししましょう」――と、彼女は声を低くした――「教会の祭壇のそばに、一体の像があるのをご覧になったと思います」
「ガウンをまとった男の彫像のことだね」、わたしは軽い調子で応じた。
「人の大きさをした大理石のがありますが――」と彼女は応じた。

なるほど、この表現はわたしの言い方よりずっと真に迫っている。
「人の大きさをした大理石の」という表現に至っては、ある種の不吉な力と不気味さまで漂わせているではないか。

「八月の終わりになると、が石版の上で身を起こし、そこから降りて通路を歩いていくといいます、――大理石のままで」

この表現もお見事だ、ミセス・ドーマン、とわたしは内心賛辞を送った。

「そして、教会の鐘が十一時を告げると、扉から外に出て、墓を越え、柩道を歩くのですよ。雨降りの晩だと浅まで足形が残っているそうで」
「どこへ行くんだろうか」、わたしは神妙な顔に付き合って尋ねた。

「ここ、自分の家があった場所ですよ。誰かがあの男に会うと――」
「会うとどうなるんだ?」

無駄だった――それ以上は話してくれないのだ。
姪が病気だからもう行かないと、の一点張りである。
こんな話を聞いたからには、姪うんぬんの言い訳などかかずらわってはいられない。

わたしは伝説に関してもっと詳しく聞き出そうとした。
炎暑のなぐさめにはもってこいの話だ。
しかし、得られたのは警告だけだった。

「よろしいですか、八月の終わりの晩は必ず早くに戸締りなさって、戸口と窓には十字架をお掛けください」
「だけど、あれが歩いているところを見た人はいないんだろう?」
「それは、私の申し上げることではありません。知っていることだけお伝えしているのです」
「では、我々が来るまでは誰がここにいた?」
「いいえ、どなたも。前の持ち主の女の方は、ここには毎年その晩のあたりの一か月も前からロンドンにお出かけするのが常でした。旦那様と奥様には申し訳ありませんが、姪が病気で木曜日には発たないといけないのです」

本当の理由を離した後になっても見え見えの口実を述べ立てるとは何事だ、と言い募りたくなったが、それはやめておいた。
ミセス・ドーマンはなんとしてもこの家から立ち去る決心らしく、わたしたち二人が――特になまえがいくら頼み込んでも、少しも揺らぐことはなかった。

「大理石のままで歩く」者の伝説は、なまえには伏せておいた。
この家にそんな過去があると知ったら怯えるだろうと考えたせいでもあるが、それよりオカルト的な理由も存在した。
まことに類を見ない話であるから、その日が終わるまで誰にも教えたくなかったのだ。

もっとも、やがてわたしは伝説のこともあまり気にとめなくなってしまった。
格子窓を背景に料理するなまえの横顔を眺めているのに、そんなことに思考を引っ張られたくなかったのだ。
黄色と灰色の入りまじった夕焼けが素晴らしい背景となって、わたしは彼女の横顔を存分に堪能した。

ミセス・ドーマンは木曜日に発っていった。
いよいよ別れとなって気が緩んだものか、こんなことを言った。

「あまり気負ってはいけませんよ、奥様。来週私が戻ってきたら、姪のいるペンザンスの話でもいたしましょうね」

つまり、九月がはじまってすぐにはこちらに戻ってきたいということか。
姪が病気だからという言い訳を最後まで繰り返す様子はいささかいじらしくもあった。




木曜日は何の問題もなく過ぎ去った。
なまえは「ミセス・ドーマンは今頃ペンザンスに着いた頃ですね」と微笑んでさえいた。

金曜日がやってきた。
わたしが語っているのは、その金曜日に起こったことだ。
他の誰かから同じ話を聞かれたとしても、果たして信じたかどうかは疑わしい。
ともかく、できるだけ簡潔に分かりやすく書いてみよう。
その日に起こったことはすべて脳裏に焼きついている。
どんなことも忘れないし、書き落としもしないつもりだ。

わたしは早起きをして台所の火を点けた。
そのとき、愛する妻が、晴れ渡った十月の朝のように明るく優しい様子で降りてきた。
一緒に朝食の準備をしたが、とても楽しかった。
家事はすぐに済み、わたしとなまえは二週間後、米国に戻る際のことを話していた。
なまえは普段以上に明るく楽しげで、あの午後の散歩はわたしの一生でもっとも幸福なひとときだったと思う。
青緑色の空に浮かんだ真紅の雲が鉛色に変わるのを眺め、遠くに見える沼地の生け垣に白い霧が立ち込めるのを目にしたあと、何も言わずに手を取り合って家に帰った。

「どうしたんだ、なまえ。悲しそうだ」

小さな居間に二人で腰を落ち着けたとき、わたしは半分冗談でなまえに語りかけた。
もちろん、違うという返事が来るだろうと思ってのことだった。
わたしが黙ってのも、この上ない幸福のせいだったから。
だが、驚いたことに、彼女はこう答えた。

「ええ、そうなんです――というか、なんだか落ち着かなくって。あまり気分がよくないの。ここに入ってきてから三、四回身震いがしたけど、今日は寒くはないでしょう?」

「ないな」とわたしは答え、その身震いの原因は日の暮れ方に沼地から立ち込めるあのいやな霧じゃないだろう、と付け足した。
いいえ、そうじゃないと思う、となまえは答えた。
しばらく黙った後、彼女はだしぬけに口を開いた。

「いままでに、不吉な予感がしたことってありますか」

「いや」とわたしは微笑みながら答えた。
「あったとしても、それを信じたりはしないな」

「わたしはあるんです」となまえは続けた。
「父が亡くなった夜、それがなんとなく分かったの――父はそのとき、遠い日本にいたのに」

わたしはそれには返事をしなかった。
しばらくの間、彼女は黙ったまま窓に映る光を見つめ、わたしの手を優しくなでていた。
ややあって、勢いよく立ち上がるとわたしの背後に回り、わたしの頭を自分の方へ傾けてキスをした。

「さあ、もうこの話はやめ」と彼女は言った。
「わたしってば、なんて幼稚なんでしょうね! ねえ、ビュユックの新刊はどこに置いたか覚えてる? 続きを読まなきゃ」

それからの一、二時間、なまえはお気に入りのクッションを抱いて、読書にいそしんでいた。
十時半ぐらいになって、寝る前に一服煙草を吸いたくなったのだが、なまえの顔色がひどく優れなかったので、居間に強い香りの煙を立ち込めさせるのは忍びなかった。

「外で煙草を吸ってくるよ」とわたしは言った。

「わたしも行きたい」
「いいや、今夜はだめだ。そんなに疲れてるんだから。昼間はあの暑さだったしね。すぐに戻る。さ、もう寝るんだ、じゃないと明日、君の横になったベッドから俺が離れられなくなってしまう」

キスして外に出ようと向き直ったとき、なまえはわたしの首につがりつき、行かせまいとするかのように抱き締めた。
わたしはその髪を撫でた。

「なあ、君は疲れすぎてるんだ」

なまえは腕の力を少し緩め、ほうっと息をついた。

「ううん、今日はとても楽しかったと思わないですか、秀一さん。……あまり遅くならないでくださいね」
「もちろんだ」

わたしは表扉から外に出たが、鍵は閉めないままにしておいた。

なんという夜だろう!
むくむくと雨をはらんだ大きな黒雲が次から次へと地平線を渡り、薄い輪になった白い雲が星を覆っている。
月は滔々たる雲の河を泳ぎ、波間で息を継いではまた暗闇に消えてゆく。
ときおり月光が林に届くと、木々は空の雲が動くのに合わせてゆっくりと音も立てずに揺れているように見えた。
妖しい灰色の光が地上を覆っていた。
夜霧と月光、もしくは霜と月明かりの結びつきだけが生む仄暗い白さが野原に漂っている。

そのなかをわたしはあちこち歩き回った。
夜は寂として音ひとつない。
人っ子ひとり見かけなかった。
走り回る野ウサギもいなかったし、寝ぼけた鳥のさえずりも聞こえてこなかった。
雲は空を渡ってゆくが、その雲を動かしているはずの風は、林の小道に散り敷いた枯葉を舞い立たせるほど低いところまでは吹いて来なかった。
草原の向こうには、空を背にして黒と灰色にそびえる教会の尖塔。

そんな場所を歩きつつ、わたしは幸せな今回の休暇に思いを馳せた――そしてまた、妻のことにも。
あの慕わしい目、いとおしい仕草。
なまえのことを思うだけで自然と口の端には微笑が浮かんだ。

教会から鐘の音が聞こえてきた。
もう十一時か!
帰ろうと振り返ったが、夜がわたしを引き止めた。
まだ、あの暖かい小さな部屋には戻りたくない。
教会に行こう。
すでに世を去った者たちの眠る場所を恐怖するほど、わたしは信心深くも、あるいは若くもなかった。


わたしは林に沿ってのんびり歩いていった。
と、林の中でざわめく音がして、静けさが破られた。
立ち止まって耳を澄ました。
すると、音も止まった。
歩きはじめると、明らかに自分のものではない足音がこだまのように返ってきた。
おそらく、密猟者か薪泥棒だろう――この牧歌的な地域では、そうした古風な悪者が未だに活躍していると聞いていた。
それにしても間抜けなやつだ、もっと足音を控えればよさそうなものを。
わたしが林の中へ入ると、その足音は今通ってきた小道から聞こえてくるようだった。

月光に照らされた林は、完璧なまでの美を見せた。
まばらになった葉の合間から青白い光が注ぎ込んでいるところには、大きな枯れかかったシダの葉やシバが見える。
周りを囲む木の幹は、ゴシック様式の柱さながらにそびえ立っていた。
その姿を見て教会を思い出したわたしは柩道に足を向け、遺体搬入門を抜けて墓の間を低いポーチへ向かった。

先程なまえと二人で黄昏の景色を眺めた石のベンチに腰掛け、また新たなマッチの火を煙草に移して一息ついた。
ふと見ると、教会の扉が開いている。
しまった、この間の夜、ちゃんと閉めずに帰ったようだ。
日曜以外にわざわざここへ来るのはわたしたちだけなので、自分たちの不注意のために夏の湿気が教会に入り込み、古い調度品を傷めてしまったのではないかと、わたしは中に入ってみた。

読者はいぶかしく思われるかもしれないが、通路を半分ほど進んだあたりで、やっとわたしは思い出したのである――ぞっと寒気を感じ、自分はなんて馬鹿なんだと歯噛みする心地で。
今晩、まさにいまこそ、「人の大きさをした大理石の」が歩き出すと伝わる時ではないか。

こうして伝説を思い出し、煙草の火に指先を火傷しそうになったことに我ながら呆れたわたしは、祭壇に近寄らずにいられなかった――「像を見に行くだけだ」と独りごちながら。
本当を言うと、好奇心に駆られていた。
ああ、好奇心――なんと抗いがたい衝動だろう!

そう、ちょうどいい機会ではないか。
ミセス・ドーマンの空想がいかに馬鹿げたものであるか、この逢魔が時に歩き回るという大理石の像がいかに安らけく眠っていたか、彼女に教えてやれるのだから。

手をポケットに突っ込んだまま、わたしは通路を進んだ。
灰色のほのかな光に包まれた会堂の東の端は普段より広く見え、墓を覆うアーチ屋根も、なぜかいつもより広々として見える。
ふと月の光が差し込んで、その訳が分かった。
わたしの足はその場で凍りつき、心臓は息が止まりそうなほど跳ね上がったあと、とめどなく沈んでいった。

「人の大きさをした大理石の」が「ない」のだ。
東の窓から差し込む月の薄明かりに照らされて、大理石の台だけがガランとした姿をさらしている。

本当にいなくなったのか?
わたしの気が狂ってしまったのか!
そうではないことに確信はあったが、身をかがめ、何もない石板をなでてみると、つるんとした手触りがした。
誰かが像を持ち去ったのか?
たちの悪い冗談だろうか?
ともかく、確かめねば。
ポケットに入っていたスマートフォンのライトを付け、周囲を照らした。
青白い光が、アーチの暗がりや石板を照らし出した。
やはり、像はなくなっている。
教会にわたしひとり。

恐怖、――そう、わたしはそのとき、まぎれもなく恐怖と呼ばれる種類の感情を抱いていた。
短くはない人生における、物珍しい心の動きを、まざまざと感じていた。
しかし幸いなことに、職業上、これまでかと死を覚悟した経験も少なくはないほどにはあったし、年齢が逆行するという、自身の母親や世話になった少年が陥った非現実的な現象にも遭遇していたためか、無様に取り乱すことはなかった。
わたしは通路からポーチへと静かに歩いた――唇を噛み締めながら。
それにしても、これほどオカルトじみた不可解なことがあるだろうか?

墓地の塀を越え、我が家の窓明かりをめざして野原を降りた。
最初の踏越し段を越えたそのとき、黒い人影が地面から湧いて出た。
災厄を目の当たりにしたわたしは、道をふさぐ人影にわずかに戸惑った。

「ミスター、どうしたんです」

こんなところで、とあちらも戸惑った表情で、例のアイルランド人の若い医者が大きなカバンを手に立っていた。

「ああ、生きた人間に会えてこれほど幸福だと思ったことはないな」
「生きた人間? 死人にでも会いましたか」
「いいや、会わなかった、というのが正しいかな」

肩をすくめてそう言うと、相手は――グリーソンという男は、釈然としない面持ちで首を傾げた。

「大理石の像が教会から消えた――と言ったら、グリーソン、君は信じてくれるか?」
「おや、あなたはそんな妄言を信じるような人ではないと思っていましたよ」
「自分でもそのつもりだったんだが」
「おばあさんたちの昔話でも聞きすぎたんじゃあないですか」
「それは否定しないな」

「あなたのところで雇っていたのは……確かミセス・ドーマンでしたか、なるほど彼女ならそういった話が好きそうだ」――青年医師が言った。
わたしは肩をすくめ、「俺が君の診療や薬が必要じゃあないか、確かめてもらえるか」と返すだけに留めた。
「それであなたの気が済むのなら」と彼は頷き、わたしたちは踏越し段を越えて教会へと戻ってきた。

すべてが死んだように静まり返っていた。
湿気と土の臭いが辺りに満ちている。
わたしたちは通路を進んでいった。
グリーソンがマッチを擦る音がした。

「……来院はいつにしますか、ミスター?」

グリーソンの消えかかったマッチに照らされて、彫像が「大理石のまま」で石板に横たわっていた。
わたしは薄く笑って、首を振った。

「生憎と病院は嫌いでね」


グリーソン医師は身をかがめて、像をとっくりと見ていた。
石に刻まれた男の表情がひときわ悪辣そうに影を濃くしていた。

「おや、これは……誰かいたずらしたんでしょうか――手の指が欠けてる」

その通りだった。
彫刻の男の人差し指が一本、なくなっていた。
なまえとここに来たとき、手の指は確かに揃っていた。

「運び出そうとしたやつがいたのかな」――青年医師は言った。

「その程度では俺が見たものは説明できんがな」
「酒の飲みすぎ、煙草の吸いすぎでできませんかねえ。あるいは職業柄よくあるPTSDとか」
「そこらへんの検査は毎年オールクリアだ」

「あなたなら検査結果もコントロールできそうだ」と笑いながら彼は立ち上がった。

「思ったよりも長く出歩いていたな……妻が心配するといけない。グリーソン、家に寄ってウイスキーでも飲んでいかないか。幽霊退散と、俺の正気回復を祈って」
「ブライトのおじいさんのところに行く途中だったんですが。しかし、もう時間も遅いですし、明日の朝にしましょう」

おそらくグリーソンは、ブライトの爺よりもこいつの方が自分を必要としていると考えたのだろう。
こうした幻覚を見てしまったのはどうしてかと論じ、わたしの経験をもとに幽霊一般をあげつらいながら、わたしたちは家へと歩いていった。

庭の小道に入ると、明るい光が表扉から漏れていた。
居間のドアも開いているようだ。
なまえは出かけてしまったのだろうか?

「入ってくれ」とわたしは声をかけ、グリーソン医師はわたしに続いて居間へ入った。
部屋は蝋燭で燦々と輝いていた――普通の蝋燭だけではなく、獣脂の蝋が花瓶や装飾具といった不可思議な場所に流し込まれ、消えかかったり燃え上がったりしている。

神経が不安定なとき、なまえは灯りを欲するのが常だった。
哀れななまえ!
どうして彼女を放っておいたのか?
わたしはなんという冷たい男だろう。

二人で居間を見回したが、はじめなまえの姿は見つからなかった。
窓が開いており、風が吹き込んで蝋燭の火が同じ方向になびいていた。
椅子はもぬけの殻で、彼女のハンカチと本が床に落ちている。


わたしは窓辺に目を転じた。
その奥まったところに、彼女がいた。
ああ、いとしいなまえ、君はわたしを探して窓辺に行ったのか?
君の背後から忍び寄ったのは何だったのか?
気も狂いそうな恐ろしい表情をして振り返った先には、いったい何があったのか?
聞こえた足音がわたしのものだと思って振り返ったら、そこにいたのは――何だったんだ?

彼女は窓辺のテーブルに仰向けに倒れ、上半身をテーブルに、下半身を窓下の座席に投げ出していた。
頭はテーブルの縁から垂れ、ほどけた黒い髪がゆらゆらと床に向かって伸びていた。
唇はぱっくりと分かれ、目はひどく大きく見開かれていた。
その目はもう何も見ていなかった。
最後の見たものは何だったのか?

医者が近づこうとしたが、わたしはそれを押しのけて一気に駆け寄った。
なまえを腕に抱き締めて言った――

「なまえ、なまえ、ただいま、」

彼女はわたしの腕の中へどさりと落ちた。
思い切り抱き締め、考えられる限りの愛称で呼んでみたが、すでに息絶えていることはわたしも分かっていたように思う。
なまえの両手はぎゅっと拳に固められていた。
片手は何かを必死で握り締めている。

息絶えているのが実感でき、もはやいかなる手を施しても無駄だと納得すると、わたしはグリーソンが彼女の手を開くことを許し、何を握っているのか見た。

灰色の大理石でできた、一本の人差し指だった。


- ナノ -