玄関のドアを開けると、靴が一足、行儀よく並んでいた。
男性物という点を加味しても、わたしの自宅の玄関にはあまりにも不似合いな大きなサイズの革靴は、爪先まで完璧な英国のジョージ・クレバリー。
嫌みったらしいほど気取ったラインが美しいそれは、しかし彼が身に着けるものだと考えると途端に「地に足の着いた」落ち着きを感じさせた。

ぱたぱたと足早にリビングへ。
扉を開けた瞬間、茹だるような炎天下から帰宅したばかりの体をぶわりと包み込む冷気が心地よい。
いつものように「ただいま」と声をかけようとして、――「た」の段階で口をつぐんだ。
間抜け顔を晒すのも構わず、あっけにとられた。

「おや、おかえりなさい。外は暑かったでしょう?」

人畜無害そうな笑みでソファに悠然と腰掛けていたのは、

「……沖矢さん?」
「ええ」

そこにいたのは、恋人――と言っても良いのだろうか。
同一人物なので間違いではないだろうが――厳密に言えば恋人の姿はなく、いたのは「沖矢昴」そのひとで、わたしは目をぱちくりとしばたたかせた。

「どうしました、みょうじさん」

不思議そうに赤井さん――いいや、沖矢さんが首をかしげる。

「どうしたもこうしたも、……あ、ありがとうございます」

なにやっているんですか、と聞くのは容易かったものの、見計らったように絶妙なタイミングでグラスを手渡された。
うっすら微笑んだまま沖矢さんは冷蔵庫から常備しているミネラルウォーターを取り出し、透明のグラスへ注ぐ。
炎天下の外界からやっと解放されたわたしは、ありがたくその好意を大人しく受け取って、一気に水を飲みほした。
喉を通る冷たい感触に頭の奥が、キン、と数瞬痛んだ。
ふう、と一息ついて、改めてまじまじとその姿を眺めた。

「沖矢昴」の変装は完璧で、しかし室内は快適な温度が保たれているとはいえ、この気が遠くなるような暑さのさなか、どうしてこんなことをと頭を捻らずにはいられない。
この時期にハイネックのシャツだなんて。
隠された首元を見て、暑くないのかなあ、などと内心呟く。

確か一度開封した化粧品は、ファンデーションや化粧下地で半年、アイシャドウやリキッドアイライナーは三カ月が使用期限だったはず。
わたしがそれをきちんと守ることが出来ているかはいまは置いておいて――プロフェッショナルらしい、己れの仕事道具には並々ならぬメンテナンスとこだわりを注ぐ赤井さんのことだ、使用期限を気にして消費しようと考えたのだろうか。

日本警察だけではない、他国の様々な警察組織や司法機関が協力し、壊滅させた犯罪組織の話題が世間を大々的に賑わせていたのも過去のこと――必要のなくなった「沖矢昴」の姿をわたしが見るのは久しぶりだった。
さすが闇の男爵夫人直伝の変装術。
多少のブランクなんて感じさせない、どこからどう見てもそれは完璧な「沖矢昴」だった。

「みょうじさん、」

どこか色香を感じさせる沖矢昴の声で、「みょうじさん」と呼ばれるのも懐かしい。
身の置き所のない、形容しがたいむず痒い気持ちになり、腕を伸ばした彼の身に大人しく擦り寄った。

なにしろ「彼」に会うのは久しぶりだ。
少しくらいこの茶番に付き合っても良いだろうと、いつもの煙草の香りに包まれていると、ふいに顔を上げさせられた。

「ん、っ……ふ、ぁ、沖矢さん、」

重なった唇はやはりよく知る彼のもの。
なにがきっかけでこんな茶番を繰り広げるに至ったかは未だ分からないものの、折角だからとあえて「沖矢さん」と呼ぶことにした。
恋人同士のスキンシップ中に、他の人間の名前を出されれば普通は気が削がれるものではないのだろうかとは思うものの(少なくともわたしは別の女性の名前を呼ばれながらキスするなんて絶対に嫌だ)、いろんな意味で普通ではないわたしの恋人は、むしろ興が乗ったとばかりに強くわたしの舌を吸った。

「ぁ、ん……ふ、」

わたしの頬と沖矢さんの眼鏡のフレームが当たり、その感触にくすくす笑う。
なんだかまるで、本当に浮気しているみたいだ。
その笑い声ごと飲み込むように、深く深く口付けられた。

気付けば沖矢さんの大きな手は、わたしのシャツの裾を暴き、素肌をゆっくりとなぞっていた。
帰宅したばかりで汗をかいているのに、と危惧したのも束の間、――背と脇腹の曖昧な境目あたりを乾いた手で撫でられると、じりじりと焦らされているような心地すらする。
ほとんど無意識に沖矢さんの身体に自分の身体をすりつければ、重なったままの唇が口角を上げるのが感触で分かった。

「あ、んっ……ん、」
「っ……みょうじさん、どこで覚えてきたんですか、こんなこと」
「んー……ふふ、ないしょ」

引き抜こうとする沖矢さんの舌にゆるく歯を立てて、そのまま、ぢゅう、と唾液まじりの音を高く響かせれば、は、と彼が荒く息をこぼした。
うっすら開いた緑の目で見下ろされ、ぞくぞくっと下腹部あたりに痺れがはしる。
堪らない。
かく、と膝が崩れ落ちそうになる。

慣れた仕草で腰を抱かれると、そのままふたり、ソファへ倒れ沈み込んだ。



クーラーのきいた快適な室内と対照的に、窓の外ではじっとりと湿気を孕んだ熱波が路を舐めていた。
容赦のない日射を浴びせられた往来では、ゆらゆらと陽炎も生じているに違いない。
窓はしっかり閉めているというのに、かすかに届く蝉の声は飽きることなくうわんうわんと響き、まるで耳鳴りのようだった。

「あ、ああっ、沖矢さんっ……!」

ふたりで――赤井さんとふたりで選んだソファに、沖矢さんが座っている。
彼の上にまたがり、腰を揺らしていると、沖矢さんの端整な顔が快楽に歪むさまがよく見えた。
それが嬉しくて、彼のモノを咥え込んだ膣を意識して強く締め付ければ、また沖矢さんが荒く息をこぼした。
ソファの背もたれや床に脱ぎ捨てられ、乱雑に散らばる互いの衣類が妙に淫らで、熱に浮かされた頭がまたとろりと溶ける。

ぐちゃぐちゃにぬかるんだナカを熱い剛直に擦り上げられ、思わずソファに着いた手の色が変わるほど強く爪を立てた。
革張りのそれに爪痕が残ってしまう、と危惧したのも一瞬のことで、容赦なくぶつけられ与えられる喜悦に、そんな現実的な思考もすぐにバラバラになった。

涼しいリビングとはいえ、筋肉量の多い男性と身体を重ねて「運動」していればやはり暑い。
わたしの首を伝い落ちた汗を、沖矢さんがべろりと舌先で拭い舐めた。
そういう彼は未だハイネックを着たままだ。
暑くはないのだろうか。

「……っ、は、考え事ですか? 随分と余裕のようだ」
「ひぃあ、あ、ちが、ぁあっ! そんな、だめ、奥っ……!」
「好きでしょう? ここ」
「ああぁっ! あっ、あ、おきやさんっ、だめぇっ」

対面座位の体勢で腰を強くつかまれれば、わたしの抵抗なんてあっけなく無駄なものになってしまう。
亀頭で子宮口を圧迫されるような、深すぎる挿入。
強く抱えられ少しの隙間もなく密着し、体の自由を奪われて下からがつがつと突き上げられる。

内臓を押し上げられるような強烈な圧迫感と衝撃が子宮に突き抜け、ふっ、ふっ、と視界が暗くなる。
浅くなりがちな呼吸をなんとか意識して深く整えようとするものの、そのたびに奥を突かれてだらしなく口の端から唾液がこぼれた。

「ああぁあっ、沖矢さんっ、らめ、いく、いっちゃうぅっ」
「いいですよ、ッ、」

ぐ、と最奥を硬い切っ先で突かれ、がくがくっと下肢が跳ねた。
目の前の沖矢さんに強く縋りつき、揺れる腰を更に押し付けた。
射精前の兆候、一際亀頭が膨張し、ぎちぎちと胎内を埋められる恍惚に目が眩む。

浮気願望なんてさらさらなかったというのに、沖矢さん沖矢さんと繰り返し名前を呼んでいると、妙な倒錯感でたまらなく興奮がいや増した。

「はあっ、は、……はあっ、は、ぁ……ぅ、」
「は、ッ……大丈夫ですか」

絶頂から降りてくるのに妙に時間がかかった。
ぜえぜえと全身で大きく呼吸していると、なだめるように沖矢さんがわたしの髪をすいてくれた。

「これが大丈夫にみえますか……」

沖矢さんに身体を預けたまま、呻くように呟く。

「すみません、みょうじさんがあまりにも煽ってくれるものですから」
「煽ってなんか……」

身をよじれば、ごぷりと膣口から白濁が漏れ出た。
粘液がナカからこぼれる感覚に、びくりと下腹が痙攣した。
いつもならば避妊具を使い、配慮は欠かさない彼がどうして、と眉をひそめる。
生理周期はどうだっただろうか。
合意のない膣内への射精に、文句のひとつでもぶつけようとしたところで――

「クーラーの温度を下げてましたが……やはり暑いですね」

ふう、と息をついて沖矢さんが眼鏡を外した。
次いで、未だ着たままのシャツをがばりと脱ぎ捨てる。

「……そりゃあ、そんな格好をしていれ、ば、……」

沖矢さんの上に乗っかったまま、ぐったりと彼の肩口に頭を預けていたわたしは、その瞬間、口をつぐんだ。

――思わず快楽のためではないふるえが全身を襲った。
唐突に首の後ろへ冷たいものを当てられたように、ぞわりと鳥肌が立った。
晒された沖矢さんの首元には、「あるはずのもの」が「無かった」。

「お、沖矢さん、」
「うん? どうかしましたか、みょうじさん」

鍛えあげられた逞しい上半身を惜しげもなく晒して、沖矢さんがにっこりと笑った。
ざあっと血の気が引く思いがした。
肉体で蠢いていた熱が、突如凍りついたかのように硬直する。

「……へ、変声機は、」

時間が止まったかのように、沈黙だけが落ちる。
外であれほど鳴り響いていた蝉の声すら聞こえない。

――そのとき、信じられない音がした。
その音をきっかけにして、また、蝉の大合唱が聞こえるようになった。
うわんうわんと耳鳴りのような蝉の音に混じって――遠くで鍵を開ける、ガチャリ、と硬質な金属音が、した。
わたしの背後にある、玄関の方から。

――この家の鍵は三つ。
ひとつはわたしが、ふたつ目は赤井さんが、そして三つ目は普段使わないからと戸棚の引き出しに。
つまり、施錠された玄関の鍵を開けることが出来る人物は、いま、赤井秀一ひとりしかいない。

わたしの背後の、玄関の方から、声がした。

「なまえ?」

聞き慣れた赤井さんの声。
玄関にはわたしの履いていたサンダルが並べて置いてある。
そのため彼はわたしが在宅だということを疑っていない。
にも関わらず、いつもならば玄関まで迎えに駆け寄ってくるわたしが沈黙を貫いていることが不思議なのだろう、赤井さんがまた後ろの玄関から「なまえ」と呼んでいる。

凍りついたようにぴくりとも動けずにいるわたしに、真っ正面の沖矢さんの唇が、にい、と弧を描く。
どろり、と太股の内側を、吐き出されたばかりの白濁が伝い落ちた。
大きく見開いた目の端が、じりじりと痛みを覚え始めていた。

「みょうじさん?」
「なまえ?」

――お前は、誰だ。

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