これは夢ではない。

「目が覚めないね……なまえさん」
「……ああ」

静かな病室に、少年の沈んだ声が落ちた。
言葉少なに肯定を返した男は、彼女から視線を離し、目を閉じた。
白を基調とした病室はまるで空気も重たく沈殿しているようで、ゆるやかに水底に沈んでいくような息苦しさすら覚えていた。

「二か月、だっけ」

少年が――江戸川コナンがぽつりとこぼした。
物憂げな声色と口調は、おおよそ見かけの愛らしい年齢に見合わないものだったものの、いまこの病室にそのことを指摘する人間は皆無だった。

また男は吐息まじりに、ああ、と囁いた。
影を濃くする男の眼窩と頬骨は、彼の方こそしっかりとした休養が必要だということを如実に示していた。
赤井秀一という人物をよく知ることになっていたコナンでも、驚くほど彼はわかりやすく憔悴していた。
それも当然か、と苦々しく思う。

赤井が日本を離れている間のことだった。
このところ度々ニュースで取沙汰されていた通り魔によって、なまえが左の脇腹を刺された。
背後から、不意を突いての犯行だったらしい。
なまえは意識不明の重体。
犯人はコナンによって特定、警察によって無事逮捕された。
――けれど事件から二か月経ったいまも、なまえは未だ目覚めない。

知らせを受けてすぐに米国から帰国した赤井を迎えたのは、病室で昏睡状態に陥っていたなまえ、そして交友関係のあったコナンや蘭、園子たちだった。

医師曰く、「外傷は問題なく治癒しています――ただ、意識が戻らない原因は未だ特定できていません」。
眼球にペンライトを当て瞳孔の反応を窺いながら、主治医の男性は報告した。
沈痛な面持ちを形づくりながら、平坦な声がとうとうと流れる。
いつ目を覚ましてもおかしくはありません。
今日目が覚めるかもしれません、あるいは一年後になるかもしれません。
はっきりとお伝えすることが出来ず、すみません。

なまえが何をしたというんだ、とそのとき赤井は思った。
職業上、恨みや悪感情をいままで数えきれないほど買ってきた自分ならばいざ知らず、真っ当に生きてきたみょうじなまえという平凡な女が、どうしてこんな目に遭わなければならないのかと。

「――なにか夢でも見ているのかな」

コナンの言う通り、眠るなまえの抜けるように白い目蓋の下、眼球が動いていた。
ぴくぴくと目蓋がふるえる。
口元にはうっすらと微笑すら浮かんでいた。
なにか幸せな夢でも見ているのか。

赤井が米国へ一旦帰国した理由は公私共に複数あったが、――そのうちのひとつ、彼のジャケットのポケットには、ジュエリーケースがひっそりと眠ったままだ。
なまえの左の薬指に捧げるために、彼が選んだ指輪。
シンプルなシルバーの指輪は、なまえの指で輝くために存在しているというのに。

二か月間ずっと持っていたそれを、赤井は白く痩せた指へそっとはめた。
購入したときには完璧にぴったりだったはずのソレは、眠り続けるなまえの痩せた指には大きく、くるくると容易に回った。
外れ落ちてしまわないように、力の抜けたなまえの左手を両手で包む。
記憶よりずっと低い体温に、赤井は握る手の力を思わず強めた。
白い手に祈るように口付ける。

どうか早く目を覚まして、この指輪を見て、答えが欲しい。
ひざまずいて「Will you marry me?」と言わせてほしい。
なまえはどんな顔をするだろうか。
笑うだろうか、涙を見せるだろうか、それともあるいは。

穏やかに微笑したまま、なまえは目覚めない。
赤井はうっそりと呟いた。

「――まるで、悪夢だ」




(2018.03.14)
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