目が覚めた。
「よく寝ていたな、なまえ。もう8時だぞ」
こめかみへ優しく唇が降ってくる。
起きたばかりで焦点のぼやける目元をこすれば、そっと手を取られ、指先にもキスを落とされる。
ベッドで横になっているわたしの上に覆いかぶさるようにして、赤井さんが顔を覗き込んでいた。
目の覚めたわたしを認めて、エバーグリーンの瞳が穏やかに細められた――その表情を見て、ふと思う。
もしかしたら、彼を知っているひとは驚いてしまうかもしれない。
「あの」赤井秀一はこれほどやわらかく穏やかに笑うことの出来る人間だったのかと。
目は口ほどに物を言うとはよくいったもので、眼差しひとつでいとしいいとしいと雄弁にわたしへ語りかけていた。
目元のクマはいつもより薄く、その代わり幸福そうな笑い皺がうっすら寄っている。
彼の後ろに見える扉は中途半端に開いていて、食欲を刺激する良いにおいが漂ってくる。
優しく甘いにおい。
バターと、砂糖と、なにか小麦粉の焼けるやわらかなにおい。
「――ママ!」
突然、聞いているだけで心が弾むような、明るく楽しげな声が真横で発された。
ぎょっと全身が強張る。
思わずあげかけた悲鳴を咄嗟に飲み込んだだけでも上出来だと褒めてほしいと、誰に向けたわけでもなく思った。
懸命にベッドによじ登ってきた子供は、利発そうな目をまたたかせ笑った。
わたしよりも赤井さんよりの、やわらかな癖のある黒髪がぴょこぴょこと揺れている。
血色の良い真っ赤なまるい頬、赤井さんと同じエバーグリーンの瞳、わたしによく似た口元、――考えるまでもない、この子供は。
「ママ? どうしたの?」
ここはどこだ。
全く見覚えのない広い寝室で、わたしは叫びだしそうになるのを必死に堪えていた。
違和感どころではない。
絶望した。
――ああ、まだわたしは夢を見ているんだ!
「どうやらママは具合が悪いらしい、俺たちで朝食にするか」
「だいじょうぶ? ママ、どっか痛い?」
ベッドに横たわるわたしの上へ乗ってこようとしたところで、赤井さんがその子をひょいと抱き上げた。
小学校に通うより前くらいの年の頃だろうか?
見知っている子供が、江戸川コナンくんというあまりにも歳不相応に聡明な少年なものだから、比較対象として考えても良いのか分からないけれど――たぶん、コナンくんよりもひとつふたつ幼いくらいだろうな、という印象だった。
その子供が大きな目を不安そうにまたたかせた。
心からわたしのことを心配しているのが痛いほどに伝わってくる。
全く知らないとはいえ、幼い子に――ましてやいとしいひとと自分の面影のある子供に、そんな顔をさせているのはどうにも心苦しかった。
加えて、逞しい腕で軽々とその子を抱え上げている赤井さんも、わたしのことを慮った表情で見つめていた。
泣きたいような心持ちがした。
はやく目を覚ましたかった。
「――ううん、心配しないで、」
無理やり口角をあげる。
その笑みは先程の夢のなかで浮かべた下手くそなものよりも、自分でも驚くほどずっと自然にこぼれた。
「――怖い夢を見たの。でももう大丈夫。一緒にご飯、食べようか」
愛らしくのびのびと笑いながら、小さな手をいっぱいに伸ばしてくる「我が子」を赤井さんから受け取り抱きとめた。
子供の体は思っていたより重たく、恐ろしいほどにやわらかく温かい。
泣きそうになりながら微笑んだ。
怖い夢? と首を傾げた息子に、もう忘れちゃった、と答えながら、キッチンへ向かう。
視界の端、キッチンに置かれていた包丁が「はやく使え」と急かすように、ぎらりと光った。
その光から逃げるように目を逸らす。
まだ、待って。
これが夢だとして、――目を覚ますためとはいえ、その包丁を腹に自ら突き刺すのはいまじゃなくても良いだろう、……夢のなかとはいえ、なにもこんなに可愛い子供の前でやるべきことじゃあない、となにに対してか分からない言い訳を重ねる。
それに、痛いのはもう嫌だった。
あんな痛い思い、何度も繰り返したくなかった。
たぶん疲れていたのだろう。
何度か繰り返した、夢から覚める夢を、わたしはもう味わいたくなかった。
はやく目を覚ましたいと思った。
けれど、もう起きたくないと思った。
夢から覚めて、起きたと思ったらまた夢で、――もしその夢がこれほど幸せなものでなかったらどうしよう?
例えば一回目の夢のように知らない男に刺されたり、あるいは二回目の夢のように愛するひとに裏切られる目に遇ったり。
そんな酷い夢を見るくらいなら、ちょっとぐらいこの夢を楽しんでも良いんじゃないか?
どうせ、いつか目を覚ます。
いまくらい、この幸せな夢を見ていても罰は当たらないよね?
ママー? と息子が呼んでいる。
キッチン横の背の高いテーブルに、朝食が並んでいる。
可愛い息子が子供用の高い椅子に座っている。
赤井さんが――いいや、秀一さん、が、わたし好みのマグカップにコーヒーを注いでくれているところだった。
そのカップがわたしのものだということは、初めて見るというのに理解できた。
どうやらふたりでパンケーキを焼いてくれていたらしい。
甘酸っぱいベリーのソースと、熱したバターが溶ける香りがする。
優しく甘いにおいに、コーヒーの深い薫香が混じる。
なんて幸せな光景なんだろう。
じわりと涙が滲んできそうになるほど、いとおしい朝の団欒に心からの微笑が漏れた。
こんな幸せな家庭を、秀一さんと築くことが出来るなんて。
もうずっとずっとここにいたいと思うほど。
――まるで、夢みたい。
わたしの左手の薬指には、やはりシルバーの結婚指輪がきらきらと輝いている。
(2018.03.14)