目が覚めた。

じっとりと全身に浮かぶ汗がわずらわしい。
比例するように口内はからからに乾き、不快感が強い。
無理な体勢で寝ていたせいだろう、首や背中が妙に強張っていた。

「……は、ぁ……こ、こわかった……」

起き抜けのかすれ声も、自分の心臓の立てる音がうるさいせいであまり気にならなかった。
どくどくと耳の後ろ辺りで血の巡る大仰な音も鬱陶しい。
脈打つのは心臓ばかりではなく、忙しない呼吸もまた不規則に揺れている。

見慣れた自宅のリビングで、はあ、と深く溜め息を吐いた。
座っていた愛用のソファにぐったりと沈み込んだ。

なんて夢を見たんだろう。
夢のなかで……夢を見るとは。
それも二度とも、死ぬ夢を。
夢を見ていてこれが夢だと自覚することはあっても、夢のなかで夢を見るのは生まれて初めてのことだった。
なにか精神的に大きなストレスでも負っているのだろうか、自覚はないけれどそうとしか思えないほど酷い夢だった。
精神的なストレス?
いくら考えを巡らせても思い当たる節はない、最近、仕事でちょっとしたミスを犯したくらいだ。
他に心当たりは特にない。

「なんだったんだろう……」

あまり信じていないけれど、夢占いでもしてみようか。
見慣れた自分のスマートフォンで「夢のなかで夢を見る」と検索しようかと手を伸ばしたところで、馬鹿らしくなってやめた。

時間が経てば、いつものようにそのうち徐々に記憶も薄れていくと知っていた。
いつの間にか、あんな夢を見たこと自体あっけなく忘れてしまうだろう。

ぱちぱちと意識してまばたきを繰り返せば、窓から入ってくる西日があまりに眩しく、眉根を寄せた。
もう夕方か。
容赦のない強い陽射しは、まるで目に刺さるようだ。
ぎらぎらと射し込む西日のせいで、リビング全体が茜がかって見えた。

どうしてこれほど眩しいのだろうかと考えたところで、レースのカーテンが開きっぱなしであることに気が付く。
窓越しに、ベランダで煙草を吸っている赤井さんの背中が見えた。
ほ、と安堵の吐息を漏らす。
見慣れた背中、けれど決して見飽きることなどないくらい惚れ惚れする逞しい背中を、うっとりと眺める。
白いシャツ越しに、ごつっと浮き出た背骨や筋肉のおうとつに、いちいち胸が苦しくなる。
あんな夢を見た直後だからだろうか、いますぐその背に抱き縋りたくて堪らない。

そこで思わず、ああ、と嘆息した。
――そうだ、わたし、洗濯物を畳んでいたんだった。

周りには中途半端に畳まれたシャツや下着が散乱している。
そうだった、赤井さんが煙草を吸いたいと言い出して、普段から喫煙するならベランダでお願いしていて……いつものようにベランダへ出てもらった。
けれどそこには洗濯物が干しっぱなしで、そのままだと煙草のにおいが付いてしまうから、「取り込むまではお預けです」とわたしが笑って、赤井さんは苦笑しながらホールドアップしていて、……取り込むのを手伝ってくれて、それをわたしが畳んで、――そうしてわたしは、いつの間にか眠っていたらしい。

ひとつひとつ順を追って、眠る前のことを思い返す。
荒唐無稽な夢と、目の前のなんとも平和な光景との落差に、また深々と溜め息をついた。
やっぱり疲れているのだろうか、今日ははやく就寝しよう。
けれど、またあんな変な夢を見るのは御免だった。

カラカラと音を立てて窓を開け、赤井さんが部屋へ戻ってきた。
かすかに煙草の香りが漂う。
喫煙するなら外でといつもお願いしていたけれど、わたしは赤井さんの煙草の香りは嫌いではなかった。
けれど彼がいない間、それがふっと嗅覚を刺激すると、どうしようもなく寂しくなって、だからわたしはいつもその香りを遠ざけていたに過ぎない。

「どうした」
「……え?」
「顔が真っ青だ」

具合でも悪いのか? と心配そうにわたしの横へ座った赤井さんへ、体重をかけてもたれかかった。
意識してゆっくりと呼吸すれば、肺を赤井さんの香りが満たす。
頭の奥の方がじんわりと溶けていくような、堪らなく心地良い感覚。
甘やかすように髪をなでられ、苦笑した。

「ううん……いま、ちょっとうたた寝しちゃって、変な夢を」

そう、夢。
目を覚ませばすぐに消えてしまう、その程度のもの。

「夢?」

そう鸚鵡返しに呟いてまた首を傾げた赤井さんが、一番はじめに見た夢の彼と重なって見えて、ぐらりと目眩を覚えた。
どうやらまだ意識が完全にはクリアになっていないらしい。
そう、彼もそんなふうに呟いて首を傾けていた――全く同じ顔で、全く同じ動作で。

身体が無意識に強張った。
は、と呼吸が跳ねた。
――なにを考えているんだ、わたしは。
夢見が悪かったくらいでなにを怯えているのか。
大丈夫、これは現実。
自分自身に言い聞かせた。
なぜなら夢のなかの証明である、違和感なんてひとつも存在しなかった。
現実との差異はこれっぽっちも見当たらない。

見慣れた自宅、見慣れた赤井さん、見慣れたわたしの――、

「――ひっ」

指輪。
わたしの、薬指。
うろうろとさまよっていた目線を手元へ落とせば、全く身に覚えのないシンプルなシルバーの指輪が、わたしの左の薬指にはまっていた。

結婚指輪。
わたしの人生で、一度たりとも、したことがない、指輪。

笑顔をつくろうとして失敗した、下手くそな笑みが口の端に寄る。
無様に口角が引き攣るのを自覚しながら、ふるえる手で赤井さんへ縋りつく。

「あ、……あかい、さん、」
「ん? ……お前にそう呼ばれるのは久しぶりだな」

まだ寝惚けているのか? と優しく微笑んだ赤井さんが、わたしの頬を手の甲で撫でた。
仕方ないな、と怯える子供に言い聞かせるように優しく、唇へ口付けられる。

「いつもみたいに、秀一さんと呼んでくれ」

喉の奥で、ぐう、とつぶれた呻きのような、醜い息が漏れた。

恐ろしくて堪らない。
幸せの象徴であるはずのソレが、まるで眼前に突き付けられたナイフのように見えた。
指に感じる金属の冷たさは驚くほどリアルで、これが夢だと到底信じられないほどまざまざと感じられるのに。

発作的に外して投げ捨てようとしたところで、全くわたしの体は言うことをきかない。
夕日を反射してきらりと光ったソレが、まるで先程夢のなかで自ら突き立てた包丁の刃のように見え、大袈裟なほどかたかたと手が痙攣した。

どうして。

「わ、わたし……まだ、夢に……?」

なまえ? と心配そうにわたしの頬へ、利き手である左手を伸ばしてきた赤井さんを、凍り付いたわたしはただ受け入れることしか出来ない。
彼の左手の薬指にも、わたしと同じシルバーの指輪が、――


(2018.03.10)
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