目が覚めた。

「大丈夫か? 随分とうなされていた」

ちゅ、と軽い音を立てて、額へ唇が降ってくる。
手の甲で優しく頭を撫でられ、そのまま髪をすかれる。

「は、ぁ……だいじょうぶ、です……」

目を開けなくても分かる、男性にしてはやわらかな指先、嗅ぎなれた煙草の香り、深く染み込むような心地良い声音――いつもの赤井さんだ。
声がみっともなくかすれていたけれど、それに構う余裕はいまはなかった。
意識がはっきりとしてくるにつれ、どっと疲労感が襲ってくる。

重たい目蓋をなんとか引き上げると、わたしを囲い込むようにして赤井さんが腕をまわしてくるところだった。
その髪は短い。
あの長い黒髪を惜しむ気持ちよりも先にわたしがまず感じたのは、安堵だった。
鍛えられた逞しく太い腕は見た目通りに重たく、けれどその重たさがいまのわたしには「ここが現実だ」と教えてくれているように感じられて、堪らなく愛おしかった。

「怖い夢を、みました……」

は、と息を吐きながら囁く。
脱力してまた目を閉じると、丁寧に手入れされた指先で、そっと目元を拭われた。
どうやら涙が滲んでいたらしい。

たまにお前は子供みたいなことを言うな、と薄く笑う赤井さんに、反論することもなく擦り寄る。
んん、と呻いて首元へ顔をうずめた。
頬をやわらかなくせのついた髪が撫でる。
当然ながらその短い髪は濡れてなどいない。
乾燥した毛先が、さらさらとわたしの頬をくすぐるだけだった。

ちらりと自分の左の脇腹へ視線をやれば、もちろん血の跡なんて存在しなかった。
当たり前だけれど、なぜだか脱力してしまう。

「寝直すか」
「ん……はい。起こして、ごめんなさい」

わたしよりずっと激務をこなす彼を付き合せてしまったことに後ろめたさを感じる。
あんな夢を見たくらいで、怯えるなんて。
申し訳なさと気恥かしさで身をすくませていると、穏やかな動作で頬へ唇が押し当てられた。

「気にするな、今度は良い夢が見られる」

それに俺も眠りが浅くて、丁度、目が覚めたところだった、と肩をすくめる恋人に、苦笑する。
そうだったんですね、とわたしも頬へ唇を寄せた。
軽いリップ音を立ててキスをして、またその腕のなかで目を閉じた。
そんな安易な嘘を見抜けないほど愚かなつもりはなかったけれど、その優しさを無下にするほど可愛げのない女のつもりもなかった。
どこまで格好良いんだ、このひとは。
何度目か分からないことをまた考えながら、大人しくその優しさに甘え、再び眠りへ落ちようとしているところだった。

瞬間、ピリリ、と、着信を告げる電子音が寝室に響き渡った。
闇夜を引き裂くような鋭い音。
暗闇で光るデジタル時計を見ればまだ日付が変わったばかりの時刻で、思っていたよりも浅い夜の時間に驚く。
夕食後、なし崩し的にふたりこのベッドへなだれ込んだことを思い出し、眠っていたのはほんの二、三時間だったことを知る。

急かすように未だ電話は鳴り続けている。
よく見れば、わたしの脇腹の下、白いシーツの上には、黒い携帯電話が落ちていた。
最近ではあまりお目にかからない、折りたたみ式のガラケー。
どうしてこんなものが? と首を捻っていると、赤井さんが、ああ、と手を伸ばしてきた。

「そこにあったか。すまない」
「赤井さんのだったんだ……はい、どうぞ」

見慣れぬそれを手渡せば、代わりにとまたこめかみへ口付けられた。
くすぐったさに、ふふ、と笑う。
仕事柄、彼が何台か通信媒体を持っているのは知っていた。
手渡した携帯電話は随分と熱を持っている。
わたしが下敷きにしていたせいだろう。
そうか、と腑に落ちる心持ちがした。
寝返りを打った拍子にでも、これが丁度お腹に刺さったに違いない。
硬い感触に触れ、なるほど、だからあんな夢を見てしまったのだろうと納得した。

赤井さんはといえば、黒いガラケーを開くところだった。
着信画面を見ると、ふ、と口元を穏やかに綻ばせた。
その表情は見慣れたもの。
けれど、どうして携帯電話を見てそんな顔をするのか分からない。
その笑みは主にわたしに向けられるものではなかったのか。

「……赤井さん?」
「すまない、静かに」

しい、と口元へ人差し指が添えられる。
そんな仕草ひとつ取っても見惚れるほど様になって見えて、彼に射落とされた胸が安易に高鳴る。
わたしの恋人はなんて素敵なんだろう、と惚れ惚れしていると、

「――ああ、明美か? どうした、こんな時間に」

ざあっと血の気が引いていく感覚がした。
先程までの夢でもあるまいし、冷たい雨ざらしの下でもないのに、指先がふるえた。
――いま、彼はなんと言った?

「いまからか? 構わんが……こんな時間まで外で飲み歩いているなんて、感心しないな」
「……あ、あかい、さん、」
「ああ、聞いている、大学時代の友人だろう? いまそこにいるのか? 俺が来るまで一緒にいろ――分かった、30分ほどで着く」

時計の針の音すらしない、静かな寝室に電子変換された女性の声と、ざわざわと不明瞭な喧騒が途切れ途切れに響いた。
耳の奥になにか膜が張っているかのような不快感と、ごうごうと暴風が吹き荒れているのに似た、唸るような妙な音が反響した。

「すまない、なまえ、」

先程まで優しくわたしの頭を撫でていた手で、愛おしげに携帯電話を持つと、赤井さんはさっとベッドから降りた。
身支度を整え、最後におざなりに額へキスをされる。

「また連絡する」

行ってくる、と続けた彼は、振り返ることなく寝室を出て行った。
次いで、バタンと玄関のドアの立てる重たい音が聞こえた。
わたしが伸ばした手は空を切った。

どのくらい呆然としていただろうか。
いままで一緒に寝ていたベッドは、ひとり欠き、わたしがいつまでも上体を起こしているせいで急速に冷たくなっていた。

――なるほど、これも夢か。
先程見た夢では、わたしは会ったことのないはずの「髪の長い頃の赤井さん」が、これが夢だと教えてくれた。
今回は「彼の亡くなったはずの昔の恋人」。
宮野明美という女性については聞いて知っていたけれど、彼女は既に故人である。
すなわち、これも夢のなか。

まさか夢を見る夢を見るなんて……と、思わず溜め息をついた。
それもよりによって、赤井さんが公然と浮気する夢とは。
いや、いまの感じだと、本命はあちら、わたしはただの浮気相手のようだった。
嫌な夢、と思わず顔をしかめた。

さて、どうしようか。
これが夢だと分かったいま、こんな世界にずっといるのも馬鹿らしい。
はやく目を覚まして、本物の赤井さんにキスしてもらいたい。

わたしは溜め息をひとつ吐くと、ベッドからのっそりと這い出た。
先程はどうやって目が覚めたのだったか。
既にぼんやりとしか輪郭を描けなくなっていた夢を反芻する。
あまり思い出したくない記憶を手繰って、――そうだ、腹を刺されたんだった、と顔をしかめる。

まあ、夢だし。
縁起でもないとは思うけれど、確か夢占いでは「自分が死ぬ夢」は吉兆ではなかったか。
それに誰か大切なひとが傷付くような、死んでしまうようなものを見るより、ずっとマシだろう。

ふらふらとキッチンまで至り、そこにあった包丁を手に取った。
先程見た夢でのものとよく似たそれは、わたしの手のなかでぎらりと光った。

「うう、嫌だなあ……」

――夢のなかとはいえ、自殺するなんて。
どうにも気持ちの良いものではない。
自傷趣味なんてこれっぽっちもない。
握った切っ先からは恐怖しか感じられない。

痛いのかなあ、嫌だなあ、でも、このままここにいるのももっと嫌だし。
はやく起きよう、そして赤井さんに強く抱き締めてもらおう。
悪い夢を見たくらいで、なんて笑われても構わない。
どうかいつもみたいに名前を呼んで、甘ったるいキスをたくさんしてほしかった。

何度も躊躇ったあと、一、二、三、で自分の左脇腹をめがけて、包丁を突き立てた。
目も眩むような熱さ、耐えがたい鋭い痛み、そして先程の夢のように視界が霞み、徐々に意識が混濁していく。

次はもっと優しい夢が見たいなあ。


(2018.03.09)
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