あ、これ、夢だな。
わたしはすぐにそう理解した。

夢のなかで「いま夢を見ているのだ」と気付くことが、昔から時々あった。
幼い頃、犬を飼いたいと駄々をこねてばかりいたら、ある日、思い描いていた通りの可愛らしい小型犬を飼う夢を見た。
これが夢だと気付いたきっかけは、その子にがぶりと手を噛まれた瞬間。
全く痛みなどなく、血も一滴すら流れなかった。
ありえない状況に、幼いわたしはこれが夢だとすぐに理解した。
あるいは学生時代、密かに片思いしていた憧れの先輩と仲良くデートしているときに、ああ、これ夢だ、と気付いたこともあった。
あのときのきっかけはなんだったか――。

これが夢だと気付くポイントは、見付けること。
「現実ではありえないこと」、「現実と違うこと」、――大抵は些細なものばかりだった。
現実との差異を見付けると、違和感によって「これは夢だ」と判断できた。
そうして夢だと気付けば、いつもあとはただ受動的に楽しむしかない。
いままで起きよう起きようとどれだけ思っても、睡眠を終えられた例(ためし)はなかった。
自分の夢なのだから、自分の好きなように内容をコントロール出来たら良いのに。
目が覚めて、そう溜め息をついたこともある。

とはいえ、大抵、目が覚めればどんな夢を見ていたかなんて忘れるものだ。
メモでもしない限り、時間が経つごとに内容はおろか、夢を見ていたことそのものすらぼんやりと忘れていってしまう。

――だから、いまのうちにこの夢を楽しんでおこう、とわたしが考えても仕方がないだろう。
だって彼のこの姿は、いまとなってはとてもレアだ。

「なまえ? どうした」

土砂降りの雨のなか黙りこくったままのわたしに、赤井さんが不思議そうに呟いた。
いつものように優しい眼差し、わたしへ差し向けられた大きな手。
ざあざあと降りしきる雨でも掻き消すことなんて出来ない、聞きなれた低く深みのある声音が心地良い。
――だからこそ、違和感が酷かった。

そのまま夜闇にまぎれてしまいそうな長い黒髪が、湿気を孕んでべっとりとロングコートに張り付いている。
たっぷりと湿気を吸ったロングコートはその色合いと相まって、ひどく重たげに見えた。

「……髪の長い赤井さんも、やっぱり格好良い……」

暗い空のどこか遠くで雷が鳴った。
思わず本心から漏れた呟きは、その音に掻き消された。

いつもの表情と声音で、けれどわたしは直接見たことなど一度もない、長髪の赤井さん。
それが違和感の正体。

わたしが初めて赤井さんと出会ったときには、彼の髪は既に短く切られていた。
以前、髪が長かった頃の写真をジョディさんに見せてもらったことはあるけれど、よっぽどわたしはこのときの赤井さんに会ってみたかったに違いない。
願望を夢のなかで叶えてしまうなんて、わたしの脳は優秀だな、なんて苦笑した。

それにしても、どうしたことだろうか、妙に肌寒い。
目の前の赤井さんは黒いロングコートにハイネック、その服装からいまは冬なのだろうと思った。
対してわたしは薄手のシャツに膝丈のスカートだけ。
そりゃあ寒いはずよね、と肩を落としかけたところで、ある疑問をひとつ抱く。
いままで、夢のなかで痛覚や触覚、温感や冷感を覚えたことは一度もなかった。
傘を持っていないせいで、降ってくる雨粒をしのぐことも出来ない。
頬を打つ雨粒はひどく冷たかった。
吐いた息が白く立ち上り、すぐに見えなくなっていった。
かちかちと無意識に歯が鳴る。

「夢なのに、随分リアル……」
「夢?」

わたしの言葉を鸚鵡返しに呟いた赤井さんは、怪訝そうに眉をひそめた。
いつもの赤井さんの表情で、知らない外見の彼に、なんとなくそわそわと落ち着かない心持ちになる。
折角の夢なのだから、その黒髪の触り心地だって味わってみたいのに。
どうして屋外、それも土砂降りの雨の下なのだろう。

「ここは……」

周囲を見回しても、全く知らない場所だった。
立ち並ぶ建物や看板の文字から判断するに、どうやらここは日本ではないということは分かった。
レンガ造りのビルや、外側に設置された無骨な鉄筋の非常階段は、アメリカ映画で見たことがある。
特に印象に残っているのは、オードリー・ヘプバーン主演の「ティファニーで朝食を」か。
舞台はニューヨークのマンハッタン、まさにこんな四角い窓と、鉄筋の非常階段が印象的に出てきていて、――そんな、まさかここはアメリカなのだろうか?
わたしは一度も行ったことはない。
いつか赤井さんと一緒に行ってみたいとは思っていたけれど、まさかこれも夢で叶えてしまうなんて。

「そんなことよりなまえ、はやくおいで。いい加減寒いだろう」

ぼんやりと押し黙ったまま立つわたしに、やはり怪訝な顔をしつつも付き合ってくれていた赤井さんが、とうとう焦れたように腕を広げた。
苦笑して、はい、と返事をする。
折角だ、どういう状況なのか分からないけれど、この夢を楽しまないのは勿体ない。
それにずぶ濡れの男女がふたり、いつまでもこんな往来で立ち話というのも味気ないだろう。
場所が場所だけに、まるで映画のワンシーンのよう――そう、丁度「ティファニーで朝食を」でも、ラストはこんな土砂降りの雨のなか、主役のふたりが熱く抱擁するシーンでエンディングを迎えた。
残念ながら、彼女のような魅力的な女性ではないわたしではあまりに力不足ではあるけれど。

素直にその腕のなかへ飛び込もうとしたところで――その瞬間、わたしの背後に視線をやった赤井さんが、大きく目を見開いた。

「っ、あ? ……あ、熱い、……え?」

まず初めに感じたのは、焼きごてを押し付けられたような鮮烈な痛み。
突如、ぐじゅりと粘着いた水音を立てて、なにかが腹を食い破った。
空気がいっぱいに充填された風船を突いて破裂させたような感触が、身体のなかからした。

「う、っ、あ、ああっ……!」

一拍、二拍遅れて、背後から腹を刺されたのだと理解した。
懸命に首を捻れば、すぐ後ろには知らない男が、血塗れの包丁を手に後ずさるところだった。
刺された左腹から、着ていた白いシャツがじわじわと赤く染まっていく。

夢のなかなのだから痛覚なんてなくて良いだろうに、なんの冗談なのか、刺された脇腹は気が触れそうなほど熱く、痛い。
ぼろぼろと涙が出てきた。
じっとりと脂汗が滲んで、血の気がどんどん引いていく。
文字通り歯の根が合わず、寒さのせいではない、がちがちと耳障りな音が耳奥で響いた。

「なまえッ!」

赤井さんが驚いて駆け寄ってくる。
わたしを刺した男はいつの間にかどこかへ消えていた。
それを追うこともなく、崩れ落ちたわたしを茫然と抱き締める赤井さんに、やはりこれは夢なのだという思いを強くした。
わたしの知っている赤井さんならば、まず犯人を追う。
ああ、それとも、犯人を追うことを後回しにするほど、一目見て助からないと容易に判断できるほどに、わたしの怪我は酷いのか。
いくら夢とはいえ、さすがに脈絡も整合性もなさすぎるのではないか、――なんて考えている間にも、雨のせいばかりではない、耐えられない痛みによって視界が霞んでいく。

「だ、だいじょうぶ、です……」

みっともなく声がふるえている。
刺されたのはわたしの方だというのに、見たことがないほど苦しげに顔を歪めた赤井さんは、何度もわたしの名前を揺れる声で口にした。
こんな必死な赤井さんが見られるなんて、この長髪の姿といい、本当にレアな夢だ。
そんなことを考えている程度には、わたしは状況を楽観視していた。
バレたら彼に怒られてしまいそうだ。

譫言のように、なまえ、とかすれた声でわたしを呼ぶ赤井さんへ、大丈夫、と繰り返す。
心配しないで、これは夢だから。
そりゃあものすごく痛いけれど(夢なのに!)、目が覚めたらふたりで選んだ大きなベッドで、あなたと一緒に寝ているから。
だから、大丈夫。

強く抱きすくめられ、赤井さんの濡れた長髪がべたりとわたしの頬へ張り付く。
ああ、折角だから、一度くらいその触り心地を楽しんでみたかったのに。
目が覚めたら、直接本人に「髪、また伸ばしてみませんか?」なんて言ってみようか。

失血によって意識が遠のいていく浮遊感と、がくがくと痙攣するままならない手足を感じながら、わたしは目を閉じた。

次はもう少し平穏な夢が見たいなあ。


(2018.03.08)
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