「おはよう、アリス。」
(小林泰三『アリス殺し』2013年)

それなりに厚みのあるハードカバーの本は、ふるえる手によりごとりと鈍い音を立てて机へと落下した。

「っ、……は、あ……」

知らず知らず詰めていた息を吐く。
大仰な呼吸音はひどく耳障りで、自分自身が驚いた。
わたしは誰、ここはどこ――そんな、記憶を喪失したシチュエーションにありがちな自問は無駄だった。
わたしはみょうじなまえ、ここは市の図書館。
熟考せずとも当然すぐに自答した。

自宅からは米花図書館の方が近かったが、先日陰惨な事件があったばかりでそちらへ足を向ける気になれなかった。
海外から密輸した麻薬を図書館の館長が捌(さば)いていた、そのうえ殺人まで犯していたなんて、誰が想像できるだろうか――いまは通常通り開館しているとはいえ、それなりに面識のあった人物が起こした凶行が脳裏をよぎり、なんとなくバスに乗ってわざわざここ、杯戸図書館に到着したのはほんの二時間ほど前のことだった。

きょろきょろと落ち着きなく周囲を見渡すと、並んだ机と、少し離れたところに居並ぶ書棚が見えた。
手元を見下ろせば、先程取り落とした本が一冊。
隣の椅子には見慣れた自分のバッグが、わずかにチャックを開けたまま鎮座していた。
暖かな冬の陽光がガラス越しに気持ち良く降り注いでいる。
館内は静かで、しかし多数の人間がそれぞれに存在している明確な音にならない雑音たちに満ちていた。

額に滲んでいた汗を無意識に手で拭う。
化粧が、ファンデーションがよれてしまうことなどどうでも良かった。

二つずれて斜め前に座っていた中年の男性が、不審げにこちらをちらちらと覗き見ていた。
明らかに挙動のおかしい女に声をかけるべきか否か、考えあぐねているらしい。

わたしは本と傍らのバッグを手に取り、足早に席を立った。
背の高い重厚な書架たちの間を縫うように歩いていく。
整然と立ち並ぶ書棚は、さながら本の森に迷い込んだようだ。
古い本特有のにおいに包まれながらずんずん進み、辺りに人の気配がないことを確認してようやく歩みを止めた。

深呼吸する。
未だにどくりどくりと心臓の鼓動が早駆けしていた。
衝動を押し殺さなければ、恥も外聞もなくその場で座り込み泣き出してしまいそうだった。
――あれは、夢だったのだろうか。
思い返すだけでまた冷や汗がじっとりと浮かぶ。
図書館で転寝(うたたね)をしてしまい、あんな夢を見てしまったのだろうか。
あんな、――自分が死んでしまう夢を。

「っ……」

ひとり唇を噛み締める。
体に穴が開く感覚、内側から「中身」がこぼれ出てしまう錯覚、自分が生温かい肉塊になっていく自覚、――筆舌に尽くしがたいあの経験すべてが夢だったのだろううか。
良い歳をして怖い夢を見たからといって、と笑い飛ばすには、それらの感覚は――「死に心地」は、あまりにも生々しすぎた。

滲んでいた汗をハンカチで拭い、手にしたままだった本を書架へ戻した。
ひとりで深呼吸を繰り返しようやく落ち着いたところで、今日はもう大人しく帰宅しよう、と踵を返す。
到底、のんびりと読書や作業をしていられるような心境ではなかった。

図書館の正面玄関へ向かっていると、わたしはぎょっと目を剥いた。
やっと静まったはずの心臓が一拍跳ねて、思い出したように再度どくどくと鳴り始める。

――あのひとだ!
咄嗟にそう口走らなかっただけ上出来と言えた。
見間違うはずなどない、前方からこちらへ真っ直ぐ歩いてくる人物は、あの恐ろしい白昼夢でわたしの最期を看取った男性だった。

黒ずくめの服装に、日本人離れした長い四肢、厚い胸板、シャツの上からでもそれと分かる鍛えられた見事な体躯。
すっと通った高い鼻梁、酷薄そうな薄い唇、ニット帽から癖のついたブルネットの前髪が覗き、不健康そうなくまが白磁の頬へ濃く影をつくっていた。
そして、あの、緑の目。
忘れていない、忘れられるはずもない、自分が死んでしまうという悪夢で最後に見た緑の瞳は、紛う方なくわたしの脳裏に刻み込まれていた。

再び激しく打ち鳴る鼓動が鬱陶しい。
焦りで上手くまとまらない思考を自覚しつつ、なんとか彼との接点をつくろうと必死だった。
なぜか? ――分からない。
とにかくそのときは彼との繋がりがあれば、いま現在置かれている混乱状態から抜け出せると、不思議なことにわたしは確信していたのだ。

「どこかでお会いしましたか?」――却下だ、ナンパだと思われるのが関の山。
あれだけの見目良い男性だ、女性に声をかけられることなど慣れているに違いない。
仮に彼に心当たりがなかった場合、簡単に素気無くあしらわれるのは目に見えている。
「あなたを夢で見ました」?
駄目だ、もしもわたしが見ず知らずの異性にそう声をかけられたなら、関わらないよう逃げ去るか、あるいは通報くらいするかもしれない。

ひとり思い悩んでいる間にも、彼はその長い脚でどんどん距離を詰めてくる。
比例して心臓がますます高鳴る。

そこで唐突にひとつの疑問が湧いた。
――あれは本当に夢だったのだろうか?

彼がこちらへ歩いてくる。
どくりどくりと心臓が騒いで仕方がないわたしのことなど歯牙にもかけず、彼はゆっくりとすれ違った。
こつこつと革靴の音が後方へ流れていく。
こちらへちらと視線を投げることすらしなかった。
当然だ。
夢のなかでしか出会ったことのない人間を偶然見かけたからといって、わたしはなにを期待していたというのか。
きっと以前どこかでお目にかかったことがあるに違いない、余程印象に残っていて、だからこそ白昼、夢に見てしまったのだろう。

どっと疲労感が押し寄せて来る。
肩を落として脱力した。
我ながらなにをしているのだろうかと、愚かさに自嘲の笑みが浮かぶのを堪えきれない。

だからこそその瞬間、反応が遅れた。

「――あんた、どこかで会ったことがあるか」

背後から、ぐ、と腕を引かれ、バランスを崩す。
予期せぬ衝撃によろけたものの、そのまま転倒せずに済んだのは男性の大きな手で肩を支えられていたからだ。
いままで知っている誰よりも大きく、そして熱いてのひらが服越しにわたしの肩をつかんでいる。
乾いたてのひらはしっかりとわたしを支え、触れたそこからじんわりと熱が移ってしまいそうだった。
あの手だ。
直感した。

そしてぶつかる、緑の虹彩。
なにを口にしようとしたのか自分でも分からぬままに、唇が微かに揺れた。

目を見開いて固まっているわたしに気付いたのだろう、彼はすぐに手を離し、言い訳がましく目蓋を伏せた。

「いや……すまない、自分の記憶力を過信していたんだろうが……。君と顔を合わせたことがある……が、思い出せず困惑している」

彼自身、なぜわたしのような取るに足らない一介の女などにわざわざ声をかけてしまったのか理解できていないのだろう。
不可解げに口の端を歪め、言い做(な)した。

どう返答するのが正しいのだろうか。
先程見た夢の話など始めるわけにもいかず、わたしは途方に暮れてしまった。


(2018.10.31)
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