「危ない!」

叫んだのは誰だっただろうか。
男性だったような気もするし、女性だったような気もする。
年老いたしゃがれ声だったかもしれない、甲高い子供の声だったようにも思われる。
もしかしたら複数の声が重なっていたのかもしれない。
とにもかくにも、危険を知らせる喚声を耳にしたときには遅かった。

は、と爛れた呼気がのたうつように漏れ出る。
腹を撃たれたのだと自覚するのに数秒を要した。
皮膚なり肉なり血液なり、いままで普通に「在った」ものが失われるのは、その唐突さも相まって理解の及ぶ範疇を超えていた。
熱い血潮が毛細血管の隅々にまで満ち満ち、のたうち撹拌されているかのような錯覚に襲われる。
どさりと無様に倒れ、いつの間にか自分の口腔から血反吐が垂れていることに気付く。

「お姉さんっ!」

最も近くにいた例の少年が、声を上げてわたしを助け起こそうとした。
彼の背後に隠れるようにして、やはりあの少女がこちらを凝視していた。
愕然とした表情で、目を見開きながら。

どうやらバスジャック犯のひとりが苦し紛れに放った銃弾が、わたしの腹をぶち抜いたらしかった。
視界の端で、発砲したと思しき男が警察のひとに取り押さえられている。
誰かを明確に狙ったわけではない、単なる醜い悪あがきだった――しかしそれが原因で撃たれるなんて考えもみなかった。
ようやくあのバスから降りられたというのに。
どうしてわたしが! と思わなくもないが、しかし「良かった、銃弾がこの子たちに当たらなくて」と、そう安堵するだけの余裕はあった。

がくがくっと意思に反して下肢が跳ねる。
まるで空から垂らされた糸がわたしの四肢へ結び付けられていて、それで誰かが遊んでいるようなでたらめな動きだった。
思わず嘆息する。

違う、安堵などではない――そのときわたしが感じていたのは、諦念だった。
衝撃を感じたときには火傷しそうなほどの熱に襲われていたというのに、いまわたしは寒さのあまり痙攣しているようだった。
ああ、これはもう助からないだろう。
一周も二周も回って、なぜだか冷静にそう考えた。
体に穴が開くという感覚は、こんなにも筆舌に尽くしがたいものなのか。
息をすると体の中身が口からこぼれ落ちるような、言語に絶する不快な心地がした。

雑音が酷い。
耳の奥でぶつぶつと音が途切れ、挙げ句、心臓が血を送り出す音が大仰なほど鳴り響いていた。
ひとつひとつの音は聞き分けられなかったものの、周囲がますます騒然としていることは理解できた。
ふ、と気が遠くなった――が、軟弱な意識を叱咤するように、ぐっと力強く大きな手で両肩をつかまれていることに気付く。

ゆらゆらと定まらない焦点を無視して見上げれば、狭まった視界に男性がひとり大きく映った。
――車両の一番後ろの座席にいたひとだ。
すぐに分かった。
バスが急停車したとき、転倒しかけたわたしを助けてくれたあの男性だった。
彼は、血まみれのわたしを厭わずしっかりと支えていた。
バスジャック犯の指示により彼が着せられていたスキーウェアは、わたしの血や体液で汚れてますます色を濃くしていた。

「おい、しっかりしろ。目を開けて俺を見るんだ」

切迫した荒い口調でただされる。
常ならば清閑な深みのある声音なのだろう、折角ならその声が穏やかに言葉を吐くさまを聞いてみたかった。
本意無くも声を荒げてわたしの顔を覗き込む男性は、とても美しい緑の目をしていた。

かすれた目にもはっきりと分かるブルネットと、意志の強い射抜くような緑の虹彩がきれいだと、痺れる身体を持て余しながらうつろに見惚れた。
ぱっ、ぱっ、と視界が明滅する。
なにもかもが曖昧で、なにもかもが判然としなかった。
いま自分が目を開けているのか、閉じているのかすらも。

「きれ……な……」
「なんだ?」

男性が身を屈め、わたしの口元へ耳を寄せる。
彼の香水だろうか、血肉やゴムの焼ける不快なにおいに混じって、ウッディやアンバー系の深く落ち着いた香りがほのかに感じられた。

――きれいな目。
彼は聞き取れただろうか。
聞こえなかったならばそれで良かった、そもそも伝えることなど考えていなかった。
茜射す夕焼け空を見て「赤い」と思うのと同じく、ただの反射のようにこぼれ出た言葉だった。

最後に見たのは、緑の瞳。
意識が途切れる瞬間、なんてきれいなんだろう、とあまりにも場違いなことを考えていた。

そうしてわたしは息絶えた。


(2018.10.31)
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