「今でも忘れることは出来ない。そして人間というものは無常なものであり、憐れなものであると思うのである。
 死んだものは生きている者にも大なる力を持ち得るものだが、生きているものは死んだ者に対してあまりに無力なのを残念に思う。
 今でも夏子の死があまりに気の毒に思えて仕方がないのである。しかし死せるものは生きる者の助けを要するには、あまりに無心で、神の如きものでありすぎるという信念が、自分にとってせめてもの慰めになるのである。
 それより他仕方がないのではないか。」
(武者小路実篤『愛と死』1939年)

そこまで読んで、手にしていた薄い文庫本を閉じた。
とても読書を続けられる状態ではなかった。

「騒ぐな! 騒ぐとぶっ殺すぞ!」

米花公園前バス停に、予定の時刻よりほんの少しだけ遅れてバスが到着した折のことだった。
スキーウェアだけに飽き足らず、ゴーグルまで装着した二人組の男が車内へ乗り込んできたかと思えば――拳銃を手に叫んだのは。

「おい! お前も携帯電話を出せ!」
「は、はい……」

バスジャック犯たちはバスの乗客全員に携帯電話を渡すよう指示し、わたしもふるえる手で端末を差し出した。
生まれて初めて間近に迫る銃口は真っ黒で、息を飲むほど冷たく光っていた。
テレビや新聞でその存在が取り沙汰されることは多々あれど、自分自身に突き付けられるとなると話は別である。
明確に他者を傷付けることを目的としたその金属の塊は、わたしに名状しがたい恐怖を植え付けた。
緊張のあまり、自分の意思とは関係なく手がびくりと引き攣る。
耳の奥では、先程彼らが発砲した際の銃声が未だうわんうわんと反響しているようだった。

元から所持していない者を除き皆己れの端末を手渡し、全ての通信機器は没収されてしまった。
常日頃から肌身離さず――とまでは言わないものの、それに近い程度傍にあるものが奪われ、酷く心細い思いがする。
顔を歪め、どうしてこんなことに……と自分の不運を呪っていると、くい、と服の袖を引かれた。

「ひっ……」
「あ、驚かせてごめんね。……おねーさん、大丈夫?」

通路を挟んで隣の座席にいた少年が、こっそりと声をかけてきた。
歳の頃は小学生低学年ほどだろうか――子供らしい顔の小ささには不似合いな、大きなレンズの眼鏡をかけている。
聡明な面持ちで気遣わしげにこちらを見上げていた。

「え、ええ……ありがとう、大丈夫だよ」

わたしなどよりも余程不安だろうに。
大人のこちらが安心させてやらなければならない立場にも関わらず、これほど小さな子に気を遣わせてしまうことが情けない。
わたしは曖昧に笑みを浮かべた。

なんてしっかりした子だろうかと感心していると、その隣に座っている少女が深く俯いているのが目に入った。
よくよく見れば、小さくふるえているようだった。

「あの子は……」
「あ、あー……この子はね、たまたま乗り合わせた知らない子なんだけど、すごく怖がってて……」

無理もない、こんな状況だというのに泣き出さないだけ気丈な子だ。
目深にかぶったフードによって表情は窺い知れなかったが、出来ることならば大丈夫だよと抱き締めてやりたいほどに少女の拳は硬く握られ、小刻みに揺れていた。
わたしは上体を伸ばし、そっと少女に向かって囁いた。

「そうよね、怖いよね、わたしもすっごく怖いの……だけど、きっと大丈夫、ちゃんと一緒に帰ろうね」
「おい、そこ! なにこそこそしゃべってんだ!」

銃口と共にしゃがれた怒声を向けられ、びくりと身をすくませる。
わたしは居住まいを正し、再び目線を落とした。
そのためずっとずっと後々まで知らずにいた。
少女がちらりとこちらへ視線を向け、かすかに目端を緩めていたのを。

――その後、あの少年をはじめ、友人らしい子供たちの機転により、バスは無事停車した。
無事というには些(いささ)か手荒な作戦だったようだが。
急ブレーキをかけた車体は派手に傾き、揺れ、わたしは危うく床に叩き付けられるところだった。
車内フロアへと激突する目に遭わずに済んだのは、犯人たちの身代わりにスキーウェアを着せられていた男性が、寸でのところで腕を引っ張ってくれたためだ。

「あ、ありがとうございます……」
「……」

目付きの悪い男性だったが、しかしとにかく容貌の整ったひとだった。
よろけながら謝罪と感謝を伝えるも、男性は空を使い、ふいと顔を背けた。
そのときのわたしには彼の態度を気にする余裕など露ほどもなかった。
急停車の衝撃でバッグからぶちまけてしまった私物や本を片付けるのに必死だったからだ。

小仏トンネルを抜けたところでは警察車両が待ち構えており、やっとわたしたちはバスから降りることが出来た。
ようやく解放された――ことを喜ぶ暇などなかった。
なんの因果だろう!
例の眼鏡をかけた少年が――真剣な眼差しで如才なく周囲を警戒していた彼が、こちらへ目線をやった途端、鋭い声をあげたためだった。

「お姉さん、危ないッ!」

――いつだってはじまりは唐突だ。
もし神様というものが存在するのなら、それは余程わたしのことが嫌いなのか、あるいは悪趣味極まりない性根の持ち主なんだろう……云々、薄っぺらい小説にありがちな、陳腐なフレーズが脳裏をよぎった。
これ以上に済度し難いことがあるだろうか。
以降、何度も繰り返す問いに対する答えは、終ぞ見付からずにいる。


(2018.10.31)
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