東の空はとっくに夜で、しかし西の空はまだ爪先にかろうじてミュールがつっかかったように未練がましくうっすら夕焼けが残っていた。
ほうきで掃いたばかりの枯山水の砂紋のような、波状の巻雲が美しい。
薄い雲の模様は、夜と夕、空と雲の境目を曖昧にしていた。

なまえは振り切るように空から目を離した。
「オメガ部屋」から出てすぐの窓ガラスに手を着き、項垂れる。
そのとき、唐突な既視感に襲われた。

「っ、あ……?」

以前、自分は同じことをここでしなかっただろうか。
ともすれば濁りがちな記憶を彼女が手繰れば、それは初めて降谷と関係を持った、番(つがい)となったときと全く同じ行動なのだと思い当たる。
あのとき、自分はなにを考えていたか。
確か、そう、いまと寸分たがわず同じこと。
なまえは苦く笑った。
「どうして、オメガになど生まれてきてしまったのだろう」。
何度も繰り返してきた問い。
――自分はあれからなにも変わっていないのだ、と痛感する。

どろどろの身体があまりにも気持ち悪く、なまえは不快感で眉を寄せた。
元々一般人とは比較にならないほど体力のある降谷が、遠慮も配慮もなしになまえを抱き潰すかのように――いいや、ように、なんて比喩や形容など必要ない。
正に抱き潰され、なまえが意識を失い、目が覚めると「オメガ部屋」には後処理もされていない、白濁やその他様々な体液にまみれた彼女ひとりが残されていた。
ベタつく肌と、汚れた衣類やシーツが張り付き擦れる感触。
もうなにもかもが億劫だった。

なまえにとって、発情期以外の降谷との性行為は初めてのこと。
いままでの性的接触は、彼女のヒートに合わせて行われる義務のようなもの。
それが「番(つがい)」の役目、役割だからだ。

――もし、この関係から、降谷零というアルファを解放してやれるのならば。
なまえは俯いたまま、唇を噛み締めた。
自分はそうすべきなのだろうか。
あるいは。

番(つがい)関係を解消すれば、降谷の負担も減るはずだった。
少なくとも、みょうじなまえというオメガに縛られる必要はなくなる。
幸い、番(つがい)を解消してもアルファに不利益はない。
オメガは非常に大きな精神的負担をこうむることになると知識では知っていたが――、降谷が望むならば、なまえは受け入れるつもりだった。

この世界におけるオメガの比率はわずか五%。
七五%がベータであり、残りの二〇%がアルファである。
しかし潜在的オメガはもっと数が多いはずであり、実際はアルファが二、ベータが七、オメガが一ほどなのではないかと言われていた。
つまり、アルファに対して絶対的に数の少ないオメガのなかから、「魂の番(つがい)」などという眉唾ものの存在と出会うことなど、ほぼ不可能とされてきた。
そもそも「運命」という繋がりそのものに懐疑的な学者や医療関係者もいるほどだ。

そんな極めて低い確率のなか、「運命」などというものになまえは出会ってしまった。
アレは、あの衝動は、「運命」としか言い表せない。
「魂の番(つがい)」だと、自分の片割れだと、それ以外のなにものでもないと、脳が、肉体が、本能が叫んでいた。

――「お前の魂の番(つがい)とやらが、赤井だと知ったいま、俺がお前を解放すると思うか」。
ほんの数時間前まで繰り広げられていた地獄のような交わりのなかで、吐き捨てるようにぶつけられた降谷の言葉。
あのときの降谷の瞳、表情、怒気、アルファの威圧を思い出すだけで、劣等種のオメガは背筋が凍るようだった。

言葉通り、きっと降谷は番(つがい)を解消するつもりなどないのだろう。
赤井秀一というアルファとは、過去に深い因縁があるのだと聞き及んでいた。
きっと当て付けに違いない。
番(つがい)関係の解消はアルファの特権である。
オメガがいくら関係を望もうとも、はたまた拒否しようとも、下位種であるオメガは番(つがい)関係から逃れることは出来ない。
つまり降谷が解消を望まない限り、赤井秀一は自分の「運命」と――みょうじなまえと番うことは出来ないのだ。

なまえ自身も強く感じた、「ようやく見付けた」という喜び、彼のために生まれてきたのだ、彼と番うために生きてきたのだという確信、彼のものになりたい、抱き締められたい、交わりたいという本能的欲求。
なまえと出会うことによって同じような感覚を赤井も抱いたのならば。
降谷の持つ「番(つがい)を解消しない」というカードは、極めて強い力を持つだろう。
どんな盤面をも引っ繰り返せる、本能に訴えかける、優位に立てるカードだ。

ともすれば、降谷はなんらかの取引を赤井秀一に持ちかけるかもしれない。
みょうじなまえをくれてやる代わりになんらかの情報を寄越せ、なんて、降谷ならばなんの躊躇いもなく吐くだろう。
あるいは引き換えに、その身柄をも要求するかもしれない。

自分の存在が、結果的に上司の利益になるならば良い。
なまえは窓ガラスに着いた手を握り締めた。
利用価値があるならば、いくらでも利用してくれて構わない、とうっすら微笑んだ。
微笑みと呼ぶには遠い、苦りきった無様なものだった。
こんな劣等種、オメガに付き合せてしまった償いになるならば、と。

アルファは、発情期のオメガが発するフェロモンによって強制的にヒートに陥ってしまう。
この番(つがい)関係の始まりは、オメガのフェロモンを利用したレイプのようなものだった。
清く誇り高い上司を、快楽に引き摺り込んだ。
そうなるように仕向けた。
「加害者」は自分だと、なまえは知っていた。
彼女が降谷を利用したのは否定しようのない事実だった。
予定外の突発的なヒートを乗り切り、あまつさえ先の人生をより良く渡っていくために。

降谷零というアルファは、みょうじなまえというオメガにいままで多大な迷惑をかけられてきたのだ。
アルファとしての輝かしい人生を狂わされてしまった。
降谷自身に出世欲があるか否かは聞き及んでいないものの、結婚はそれぞれ同種間で行われるのが当たり前であるこの社会で、上へ登りつめるためには、アルファ同士の婚姻は絶対的に有利だ。
アルファは元来エリート意識が高い。
優性種の血に他のものを混ぜたくない、絶やしたくないという認識によって、同種での婚姻が社会的に肯定されている。
アルファとアルファの子は高い確率でアルファが生まれるためだ。
いつかみょうじなまえというオメガの存在は、降谷の人生の汚点になりやしないだろうか。

ぐるぐると罪悪感が渦巻く。
喉奥が引き攣れるようにふるえた。
――わたしは、どうしてオメガになんて、生まれてきてしまったのだろう。
いつかも呪いのように繰り返していた自問をまた重ねる。

彼女の罪悪感に呼応するように、上司に噛まれたうなじがじくりと疼いた。
降谷によって残された噛み痕は、アルファの所有物の証として、なまえのうなじに深くくっきりと刻まれている。
「お前のその幸福は、他人の犠牲によってなされたものなのだと忘れるな」、――爛れ膿むような熱と痛みが、切々と言い聞かせてくるようだった。
いまなまえがこうして立っていられるのは、警察官として警察庁に在籍していられるのは、降谷零というアルファのおかげだった。
あのとき、発情したなまえの懇願の通り、番(つがい)にさせられてしまった、降谷零の。

――これは、罰だ。
大きな重責を負った敬愛する上司の「人生」を狂わせたことに対する、罰。

「降谷さん、……わたし、どうすれば良いんでしょう……」

ひとり呟いても、答える者などいるはずもなく。
部下として配属され、この誇り高いアルファに着いて行くのだと心に誓った過去が、ひどく遠いもののように感じられた。
いつものように、降谷に指示を出してほしかった。
命令に従うことだけが、いまなまえに出来る唯一のことだった。

はじめからここが地獄だと知っていただろう
(2018.06.30)

「正解」が分かっていたなら、はじめからこんな関係など生じなかっただろうに。

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