どくり、と身体の奥底でなにかがうねった。
生まれて初めて感じるその衝動に、赤井秀一は目を見開いた。

一目見て――いいや、その存在が近付いてきただけで、分かってしまった。
理解してしまった。

「恋愛はただ性欲の詩的表現をうけたもの」とのたまったのは、この国の文豪だったか。
第二性など、つまらない属性の区分だと疎ましく思っていた。
そんなつまらないものに振り回され、なにかを得たり失ったりすることなど、愚かだと心底思っていた。
諸星大、ライ、沖矢昴と多数の顔や名を持てども、赤井秀一という芯の部分は決して揺らぐことはなかった。
それが彼の性根だったし、決して変質することのない根幹なのだと。

運命?
魂の番(つがい)?
そんなものをまだ夢見ているのか、ミドルスクールに通う子供だって、サンタクロースやユニコーンが存在しないのと同じくらい、信じてないさ。
そう鼻で笑って、夢見がちな処女の顔に煙草の煙でも吹きかけてやりたかった。

――そんな男が、いままでの人生において築いてきた考えを、価値観を、呆気なく覆される。
世界最高峰の射撃の腕とそれを使いこなすだけの頭脳や精神力、忍耐力を兼ね備えた赤井秀一という男、アルファにも関わらず――、いいや、「だからこそ」、己れの力量を明確に把握しているがゆえに、彼は寸分違わず理解した。
どれだけ驚嘆すべき、かつ、信じがたいことなのか、認識できるのは本人だけだった――が、しかしそのイレギュラーを受け入れざるをえない。

理性で抑え込もうとしても、その衝動は「本能」というどうしようもない名前で肉体のなか暴れ回っている。
狂おしいほどの激情は、身の内に留めておくことなど不可能ではと恐れるほどにうごめき、――脳が、心臓が、感覚が、赤井秀一という人間を構成する全てが、痛いほどに叫んでいた。

ようやく見付けた、と。
彼女が、このオメガが、自分の「魂の番(つがい)」なのだと。

忘れていた呼吸を再開する。
は、と熱のこもった息がのたうつように漏れ出た。

「――君は、」
「シュウ!?」

公安警察の者たちが停車している場所まで、車を戻らせる。
薄く漂う夜霧に交じって、自分を捕らえる陶酔の香りがあたりに充満していた。
誘われるようにゆらりと車外へ出ると、焦ったように同僚が声を荒げる。

江戸川コナンという卓越した頭脳を持つ少年の手を借り、死亡偽装までやってのけたというのに。
自分が「死んだ」この場所で、こうして日本の公安警察と相対し、更に、まさか自分を狂わせる世界で唯一のものと邂逅するとは。

なんてことだ。
「運命」などという、都市伝説のようにして語られる薄ら寒いロマンチックなお伽噺すら、うっかり信じてしまいそうに――いいや、信じざるをえなくなってしまう。

眼前には、こちらを睨みつける銃口がずらりと並んでいた。
いつでも発砲可能なそれらに、しかし頓着することなく、赤井はただひとりだけをその緑の瞳に映していた。
ぴたりと交わった視線は、全くそれることなく深く絡み合い、離れることなど到底考えられないと雄弁に物語る。

緩慢な動作で車を降りた女が、わなわなと体をふるわせていた。
濡れた唇が呆然と呟く。

「赤井、秀一……」

瞬間、全身を貫いた歓喜を、生涯忘れることはないと彼は確信した。

欲しい、などと生ぬるい感情ではない。
彼女を、――このオメガを、自分のものにしなければならない。
例えるならばそれは、拷問における水責めの最中、気まぐれに時折与えられる酸素のようなものだった。
生命維持レベルでの欲求だった。
呼吸がしたい、酸素を欲する、――それと同等レベルの。
いままでどうやって彼女なしに呼吸をしていたのか最早思い出すことすら困難だ。

理性や感情、立場をまるっきり無視した、強制的に味わわされる陶酔も全く構いやしなかった。
だからどうした。
スナイパーという職業柄、忍耐強さには自他共に認めるものがあったが、それを遥かに凌駕する衝動の前では理性も分別もお手上げだった。
彼女に出会えたいま、そのやわらかそうな肢体を抱き締める以上に重要なことなど存在しない。

赤井は口元をゆるめ、うっすら微笑した。
ようやく見付けた、自分のもの。
大人しく認めよう、名前も知らない彼女を――愛している。

彼女の体からは他のアルファの香りがしたが、一向に構わなかった。
この香りには既視感があったが、しかし他の人間のものだからといって、容易に諦められるはずもなかった。
それはいまの赤井にとって、――そしてなまえにとっても、

「っ、はは、運命か……まさか本当に、存在するとは……」
「赤井ッ! お前、なにを……!」

呆然と呟くと、公安捜査官のひとりから拝借していたスマートフォンから、降谷の怒号が響いた。
米花町、工藤邸に踏み込んでいる降谷は、いま赤井がいるこの来葉峠に、己れの番(つがい)がいることを知っている。
降谷当人がみょうじなまえをここへ向かわせたのだから。
ただでさえ混迷極まる現状、赤井秀一がなにを言い出すのかと強く不審がっているのが声色からありありと察せられた。

「記憶にあるアルファの香りだと思ったが……これは、君のものか」
「……まさか、」

赤井は、く、と苦く笑う。
彼のことは同じ捜査官として好意的に思っているし、その優秀さゆえに、敵に回したくない人間のひとりだったのだが。

「すまないが降谷君、……彼女ばかりは譲れそうにない」
「貴様ッ、――みょうじに手を出すな!」

運命、降谷のアルファの香り、彼女。
いまこの舞台に、女、それもオメガ性である者など、たったひとりしかいない。

赤井が口にした言葉で、降谷は瞬時になんのことか察知したらしい。
手にしたままだったスマートフォンから、殺気のこもった喚声が響く。
電波ではアルファの気配もフェロモンも伝えることなど出来ないはずなのに、そのアルファの怒号からは殺気すらも届き突き刺さるようだった。

しかしそれを気にかけている余裕など、当のアルファとオメガには全くなかった。
ただ互いを見つめ、ようやく邂逅した喜びに打ち震えていた。

「みょうじ、というのか」
「……ッ、……は、っ、わたしは……みょうじ、なまえです、」
「そうか、みょうじなまえ……ああ、なまえ、」

味わうようになまえ、と低く艶のある声で何度も繰り返され、なまえは堪らずふらふらと彼の方へ歩み寄った。
陶酔。
息も出来ない歓喜。
一瞬で「恋」に落ちた者たちは、名前を呼び、呼ばれるという、ただそれだけの行為で、幸福の極致に達した。

圧倒的なアルファの気配が、色濃く周囲を埋める。
薄く夜霧の烟(けぶ)る峠道、浮世離れしたロマンスに、その場の誰もが地に張り付けられたかのように身動きが取れずにいた。

硬いコンクリートがぐにゃりとたわんでいるかのように、足元が覚束ない。
なまえは唇をふるわせた。
かすれて上手く声にならなかった。
気が狂いそうなほどの歓喜、世界にただひとりである彼を求める渇望、このひとのためにわたしは生まれてきたのだ、彼と番うためにいままで生きてきたのだという確信――否、理解。
目眩がした。
なまえは心から欲した。

彼の、――このアルファの、ものになりたい。

「なまえ……」
「っあ……ああ、わ、わたし、」

声が、唇が、視界が、脳が、心臓が揺れる。
激しい嵐のような衝動が、全身を焼く。

運命、あるいは呪い
(2018.04.08)

実はこの連載、この「運命、あるいは呪い」が、タイトル含め最初に完成していました。このお話を書きたくてはじめた連載なので、ここまでこぎつけることが出来てとても嬉しいです。
また、連載のお相手表記のところに赤井さんを追加いたしました。ずっと「運命の相手」を明かしたくてうずうずしていました。きっと、皆さまはお気付きになっていたでしょうけれど……

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