曲がりくねった峠道を、法定速度ギリギリで車両が駆け抜ける。
太陽もとうに役目を終えた時間帯、急激に冷えた峠道にはうっすら夜霧が這いはじめ、うやむやを裂くようにして走行する車列はさながら明滅する葬列のようにも見えた。
かの男が死んだはずの場所というならば、それもまた相応しいかもしれないが。
鬼が出るか蛇(じゃ)が出るか。
テールランプが残光をまとわせ、エンジン音が暗く随行していく。

車内は硬い面持ちばかりが並び、突けば破裂するような緊張感に満ちている。
前方のベンツを鋭い眼光でねめつけたまま、捜査員のひとりが口を開いた。

「みょうじさんは直接赤井と面識はないんですよね」
「はい、わたしが組織に潜入した頃には、赤井捜査官は素性が割れ、既に組織から離脱していたので」
「ならば我々と同じく、写真でしか知らないと」
「ええ。今回の計画で、前方の彼ら……FBI捜査官たちには少々近付きましたが」

作業班と呼ばれる、各道府県警、警視庁公安部からなる実働部隊の数名と、直接降谷から命令を受けたみょうじなまえは、以前から進めていた計画の終演が近付いている気配を静かに感じ、しかしふつふつと水面下で昂りを覚えていた。

FBI捜査官と関係のある小学校教師、渋谷夏子を利用し、楠田陸道の死の詳細を得、ジョディ・スターリング、アンドレ・キャメル両名を追跡、必要があれば捕縛する――ここに至るまでの筋書きは、降谷の描いた通り完璧だった。
今頃、この計画を立案し、加えて最も重要な立ち回りを演じる降谷零は、米花町にて赤井秀一本人を追い詰めているはずだ。

――全てこの夜に決着するはずだ。
数時間前、降谷はそう口にした。
殉死したとされる赤井秀一は、生きている。
決して揺らぐことのない確信をもとに降谷が進めてきた計画は、今夜、終わりを迎える。
静かに、けれど力強く宣言した降谷を見て、この強く高潔なアルファに着いて行こうと、なまえは決意を新たにした。
それは周囲の作業班の者たちも同じ思いだったらしく、同種のアルファも異種性のベータも、皆一様にその声へ応えた。
なまえは直接顔を合わせたことはなかったが――組織に潜入していた捜査官のひとり、コードネーム、スコッチと呼ばれていた捜査官のことも、同所属だった警視庁の作業班たちの頭にあったのかもしれない。

公安という、家族にすら秘匿せざるをえない立場にある彼らは仲間意識が強い。
勿論、必要とあらばそれを切り捨てることの出来る強さも持ちながらだ。
組織に潜入し殉死した同志を表立って悼むことすら許されていない彼らにとって、その死に深く関与したとされる赤井秀一に対し、仇討の念もあったに違いない。

殺気立った公安部の捜査官たちと共に、なまえも懐に忍ばせた銃を上着の上から撫でた。
これを使う機会など訪れないと良いと思っているが、――いざとなれば。

車が速度を上げる。
前方を走行するベンツがこちらに気付いたらしい。
蛇行する峠道とは思えぬ速度で疾走する。
なかなかのドライブテクニックらしいが――そもそも米国連邦捜査局、FBIは本来、国外での捜査権限を持たない。
拘束さえすればいくらでも言いがかりをつけることなど容易い。
あとは情報を吐かせるだけ。
あるいは、かの男を揺さぶる人質とさせてもらおう。

「……バリケードは」
「三〇〇メートルほど前方に、車両二台を配置しています」
「もし仮に突破されても、追跡に加わるよう伝達してください」
「分かりました、みょうじさん」

――アルファのベースの欲求は、狩猟本能による。
獲物を追いつめ、狩ることを本能が欲し、優位に立つことを喜びとする。
オメガであるなまえから見ても、同乗する面々、特にアルファの捜査官たちの高揚は激しく、飲み込まれそうなほどだった。
最も、なまえもその程度のことで困惑するような甘ったれた性根も立場でもなかったが。

しかし、緊迫する峠道でのカーチェイスは、突如終了した。
配置していた車のバリケードを突破され、カブリオレットのルーフが開いたかと思えば――発射される、一発の銃弾。

「なぜここに、赤井秀一がっ……!?」

捜査官のひとりが焦って声を荒げた。
正確無比な射撃で先頭車のタイヤを打ち抜かれ、これ以上の追跡は不可能。
クラッシュした車両に追突し、後続車にも怪我人が出ている。

なぜ、この来葉峠に赤井秀一本人が。
今頃、降谷によって殉職劇の真相を、沖矢昴の正体を、暴かれているはずの男が。

混乱のさなか、なまえは自分の役割を冷静に把握していた。
いち早く降谷に連絡し、この場の指揮を執らなければならない。
それはこの来葉峠のグループにおいて最も立場の高い、警察庁所属のみょうじなまえの仕事だった。
はやく、はやく、と理性は急かすのに、しかし全く体が動かない。

――そのとき、なまえが感じていたのは、全く違うこと。

「は、あッ……!?」

どくり、と、体内の血液が沸騰するような、脳髄が痺れるような感覚がした。
追跡途中からなまえはずっと、蛇行した峠道を車両がどんどん速度を上げるに従って、心臓の音も比例するように逸(はや)っていくのを自覚していた。

――これは、いけない。
なまえは直感した。
確固たる証拠や明確な事実がないのに、直感などというもので判断するような愚かな人間ではないと、自分のことを信じていたが。

しかし、これは。
直感、あるいは「本能」が、警鐘を鳴らしていた。
わたしは、この場にいてはいけない。
いますぐここから立ち去らなければ。
これ以上の追跡が不可と判断し、捜査官たちが車道に散るなか、なまえは停車した内で、愕然とした。

ぼんやりと曖昧になりつつある意識のなか、めまぐるしく想起する。
以前もこんなことを考えていた、あれはいつのことだったか。
あれは、――数月前、密室の「オメガ部屋」で。
突然、周期外のヒートが訪れてしまい、上司をメールと電話で呼び寄せ――無理やり自分の番(つがい)にさせた、陰惨な、あの狂乱。

愕然とした。
あのとき、なんとしても退職しておけば良かったのだ。
自分のせいで取り返しのつかない重大な失敗を招くくらいならば、ここで潔く脱落すべき、そう考えていたのは、正しかった。

いいやいまここで後悔などしている暇などない、はやく指揮を執らねば、違う、まず降谷に連絡を、――けれど、このままでは。

「みょうじさん!? どうしました、どこか怪我でも、」
「……いえ、怪我はありません、……降谷さんに、っ、連絡を……してください」
「は、はいッ!」

声がふるえる。
なまえはきつく噛み締めた唇からじわりと血が滲んでいることにも気付いていなかった。

――どうして。
あのときにも思ったことを、またも繰り返す。
そうやって座席に座っていることすら難しく、気を抜くとそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。

ボンネットを開けて車の具合を見る者、怪我人を介抱する者、はやく指示を出さねばと理性では分かっているのに、しかしなまえはその場から動くことが出来なかった。
じっとりと体中に汗が浮かぶ。
半端に開きかけた口は、浅く乱れた呼吸しか吐けない。

飢餓感にも似たこの感覚には覚えがあった。
思い出したくもない、逃げ込んだあの「オメガ部屋」で、降谷が来るまでひとり苦しんでいたときと同じ、感覚。
いいや、そのときよりもずっと、強く、深く、

「……みょうじさん……?」

なまえは口元をてのひらで覆った。
いいや、そんな、まさか。

いつでも指示を仰げるよう傍にいた捜査官のひとりが、いち早く異変を察知し、怪訝な顔をしてなまえを覗き込んだ。
アルファの彼には、じわじわと滲み出したオメガのフェロモンが察知できてしまったらしい。
本来ならば、番(つがい)であるアルファに――降谷にしか感知できないはずのソレが。
なまえのことをベータの女性だと思っている彼も、どうしてこの場でオメガのフェロモンを嗅ぎ取ってしまったのか理解できないのだろう、訝しげに眉をひそめている。

はやく、どうにかしなければ。
くずおれそうになる全身を叱咤し、強く歯噛みする。
しっかりしろ、自分の職務を、責任を、思い出せ。
なんのためにいまここにいるのか自覚しろ。
この場の指揮は勿論、現状を打破するために、すべきこと、出来ること、優先順位をつけて――、

「みょうじさん、FBIの車が……!」

走り去ったはずの、赤井秀一を乗せたベンツが戻ってきた。
ゆらゆらと歪んでいたなまえの視界でも、そのカブリオレットがルーフを開けたまま接近してくるのがなぜかはっきりと視認できた。

周囲の捜査官たちが、殺気立って懐から銃を取り出す。
車が近付いてくるにつれ、なまえの安定しない鼓動と呼吸がしゃくりあげるように跳ねまわった。
吐き気。
目眩。
耳の奥で、ドイツ車特有の這うようなエンジン音がうわんうわんと反響していた。

来る。
来てしまう。
ずっと呪わしく思っていた「本能」が、痛いほどに叫んでいる。
肉体全てが、みょうじなまえという人間を構築する全てのものが、強く強く、唯一の相手を求めていた。

「っ、……ふるや、さん……」

縋るように自分の番(つがい)の名を呼んでも、驚くほど空っぽに響いた。
いつもならば、思い浮かべるだけで、名前を呼ぶだけで、自分が抱いて良いはずもない幸福感や充足感で、強制的に満たされてしまうというのに。
違う、そうじゃない、求めているのはそれじゃない――となまえの身体の奥底から、仄暗い、しかし鋭く響く声がした。

熱く揺れる吐息まじりに、ああ、と呻く。
絶望の溜め息は、しかしどこまでも甘ったるく恍惚に濡れていた。

わたしの、番(つがい)は、

夜霧の瞳、あるいは死人の目
(2018.04.06)

「運命」を信じるか。

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