「最近、調子が良さそうですね」

膨大な量の報告書やメールに目を通し、裁断を下し、采配を振っているなか、しみじみと部下のひとりが呟いた。

「そうか?」
「はい。普段から降谷さんの体力や精神力、自分は尊敬していましたが……それにしてもここ数週間は、特に」
「君も休んできてくれて構わないぞ、風見」
「馬鹿言わないでください、思ってもないでしょう」

そう言う部下は眼鏡をかけていても分かるほど、目の下に酷いクマを見せていた。
頭脳は勿論、体力自慢の逸材たちが揃うここ警備企画課でも、数名げっそりとやつれた顔をしている。

「はは、バレたか」
「どうなっているんですか、その爽やかさ」
「爽やかさ?」
「少なくともこの場では一番、すっきりした顔をしていますよ」

それもこれも、ここ数日、ある男の捜査に時間も人員も割かざるをえない事態に陥っていたためだ。
本来であれば一個人に対する刑事事件の捜査や摘発は、警察庁、それも公安においては全くの管轄外である。
しかしその事件の被疑者のひとりに前々から別案件でマークしていた人物がいるとなると、話は別だった。
どうしてもその関連性を精査せざるをえない。
警視庁から回させた情報の取捨選択、今後の捜査にどう役立て、本来追っていた案件にどんな影響を与えるかが不明瞭ないま、休んでいる暇などなかった。
隣で補助をしている風見という部下も、本来ならば警視庁の実働部隊、通称「作業班」の者だったが、ここ数日こうして警察庁に詰めている。

最後に自宅のベッドでゆっくり横になったのはどれくらい前か……、考えるのも億劫だと、降谷は口の端だけで苦笑した。
とはいえ、庁舎の休憩室で一旦仮眠を取ったあと、洗面台で見た自分の顔は、たった数時間しか睡眠を取っていないとは思えないほどすっきりしていた。
思考回路も至ってクリアで、疲労感も少ない。
そう、優秀な部下の言う通り、調子が良かった。
常にないほどに。

原因は勿論分かっていた。
番(つがい)ができたからだ。
劣等種であるオメガを守るため、番(つがい)のできた優性種のアルファは肉体的にも精神的にも増強される――と、知ってはいたが。
学生の頃、教科書で学んだときにはなんとも思っていなかったそれを、今更ながらに降谷は実感していた。
元々高かった能力値や体力値が、基礎から底上げされているような感覚だった。
加えて、集中力すらいつもより続いているようだった。
番(つがい)のいる充足感は、多幸感ばかりではない、ストレスや肉体的疲労も癒すらしい。
自分の番(つがい)であるみょうじなまえは、女性として、オメガとして、この関係をどう思っているのか話したことも、尋ねたこともなかったが、しかし降谷にとっては現状プラスの面が大きいのは事実だった。

「降谷さん?」
「――ああ、どうした」
「みょうじさんから報告書が上がっています。こちらに」

丁度、当の部下のことを考えていたせいか、一瞬、反応が遅れた。
ワンテンポずれて、ああ、と書類を受け取る。

先日、突発的なものではない、本来の周期の発情期を迎えたみょうじなまえは、降谷を自宅に招き入れた。
潜入した組織での任務上、同じタイミングで登庁しないことはこれまでにも多々あったため、幸いなことに特に訝しむ者などいなかった。
この関係をはじめることになった、「オメガ部屋」での性行為――と呼ぶにはあまりにも獣じみたあの交わりのように、あるいはそれ以上に爛れたヒートを、降谷は番(つがい)と共にほぼ軟禁状態で過ごした。

まさに狂乱と呼ぶに相応しい、ヒートの一週間を経たあとの降谷は、ずぶずぶと沼に沈んでいくような心地がしていた。
己れの番(つがい)との性交渉は、それほどまでに濃く深い快楽と歓喜をふたりにもたらした。
あんな、身体も脳髄も爛れるような淫蕩な性行為を繰り返していれば、いつか気が触れてしまうのではないか、と愚かしく危惧する程度には。
いつも冷静で理性的な降谷が、我を忘れてただ快楽だけに没頭すること、それ自体が普段の彼には到底考えられないものだった。
自分が自分ではなくなってしまうような恐怖。

ヒートの間、部下はこの関係がはじまった、あの「オメガ部屋」でのように、繰り返し繰り返し、ごめんなさい、と泣いていた。
そして降谷も、謝罪と懺悔ばかり吐くみょうじなまえの薄い胎に精をぶちまけた。
同じくあのときのように、うっすら笑いながら。

目を閉じればまた浮かびそうになるオメガの白いうなじを意識から追い出して、報告書へ集中する。

「ありがとう、君はもう目を通したな」
「はい。いまみょうじさんは組織に潜入中でしたね」
「ああ、そっちの任務で中欧にいる」
「ハンガリーでしたっけ。こう仕事の山で遭難しそうになってくると、羨ましいくらいですよ」
「はは、君も組織の案件が終わったら、恋人とでも行けば良い。溜まった有給を消化してくれ」
「ええ、そうさせてもらいます。普通に観光で」

そんな他愛もない軽口をたたきながら、互いに手だけは休めず文字列を追っていく。
主にハンガリーに拠点を置く、中央ヨーロッパに少なからず影響力を持つ犯罪組織の報告書だった。
地名や人名、固有名を冠するでもない、ただ「連合」とだけ名乗るその犯罪組織が、ベルモットを通してコンタクトを取ってきたのがきっかけだった。
「連合」との会談に、今頃部下は彼女と共に出席している。

戦後、社会主義国家となったハンガリーは旧ソ連の影響下に置かれ、EUに加盟したいまも、近年大きく好転しているとはいえ、東欧諸国と同じく加盟国中失業率が高く、賃金も低水準である。
高い賃金を求めて西へ向かう者も多い。
そんな状況のなか、西欧の玄関口でもあるハンガリーには、EUにおける出入国の制限の低さも相まって、東欧諸国から様々な人間が流入している。
地理的にも、東欧のみならずアドリア海や地中海を経由して、北アフリカや中東からも人の流れがある。
北イタリアから近いこともあってか、マフィア崩れのならず者すらも取り込んで、「連合」は巨大化していったらしい。
明確な理念や大義名分のない烏合が集うその組織は、まさに、ただ「連合」と呼ぶに相応しかった。

かの組織との会談に出席するベルモットになまえを同行させたのは、バーボンの推挙があってのことだ。
忙しいこの時期、降谷もみょうじなまえを欧州にまで行かせることはしたくなかったが、資金面で日本の某上場企業が一枚噛んでいるという情報があっては仕方がない。

「連合」と――「赤」といえば、公安マター。
北の巨大な連邦国家が解体され、社会主義の風が日本でも吹き荒れた時代からはや数十年が過ぎようとも、警察全体、こと公安において極左対策、該当案件は目の色を変えて当たるべき任である。
該当部署は外務情報部、外事課ではあるものの、とはいえこの国で例の組織に潜入している捜査官は降谷とみょうじなまえの二名のみ。
互いに警備企画課の所属である。

降谷は上へ話を通し、結果、部下をベルモットに同行させた。
同じ警備課とはいえ、他部署に恩を売っておいて損はない。
潜入している組織に、更に食い込むことも出来る。
そうして上がってきたみょうじなまえの報告を、担当部署に精査して回すのも、降谷の仕事だった。

上手くいけば、本来の捜査だけではなく、組織を通じて他パイプが作れる可能性もあったためだ。

絶対数の少ないオメガはあの組織でもやはり珍しく、他組織との取引に同行させればそれだけで相手に対して優位性を保てる。
オメガそのものというより、「希少種のオメガを連れているアルファ」として。

そのため降谷ははじめから、みょうじなまえをアルファやベータ、異種性と偽るのではなく、本来のオメガ性として例の組織に潜入させた。
先に所属していた「バーボン」が引き入れた、元々所有する駒として。
みょうじなまえには組織にいる間はフェロモン抑制剤を少なくさせ、オメガだということ隠させず、むしろアピールするよう指示していた。
法令では人権保護の観点から、第二性を無理に公表させることも、逆に秘匿させることも、強要してはならないと定められている。
ベータとして扱ってくれと懇願していた部下をそうして使うことを、多少なりとも降谷は懸念していたが、しかしなまえ本人も任務上それがプラスに働くと理解していたため一も二もなくそれに同意した。
アルファの多いあの組織で、抑制剤を控えることがどれだけ恐怖を覚えるものか、降谷には分からないが。

――皮肉なことに、みょうじなまえが本来のオメガ性として行動したり、ヒートを理由に休養を取ったりしやすいのは、組織に身を寄せている間だけだった。
降谷は苦く笑った。
あちら側へあまり肩入れしすぎないように、いま一度釘を刺しておくべきか。
「ありのままの自分でいられる」などと、ふざけた思想に陥らないとは限らない。
潜入捜査官ならば定期的に受けさせられるカウンセリングを増やすべきか。

――まあ、オメガが番(つがい)の意に沿わない行動を取るとは思えないが。
他の部下たちへの指示をまとめ、降谷は一旦、安室透名義のスマートフォンをチェックした。
メールボックスには喫茶店の勤務についての連絡が入っており、平和そのものといった文面に僅かに肩の力が抜ける。

ぐ、と背を反らし、数瞬、目を閉じる。
今頃、みょうじなまえはベルモットと共に当のハンガリーに到着して――五、六時間ほど経った頃か。
気を抜くとすぐに番(つがい)のことを考えるのは、本能だろうか。
ふいに充足感や幸福感で胸中が満たされる。
本能から来る強制的なその感情を、湧くまま放っておく。
ここ数ヶ月の経験上、ストレスコントロールに番(つがい)のことを考えるのは最も適した方法だということを降谷は理解していた。

みょうじなまえとベルモット。
以前、浮かんだ思い付きを推考する。
ボスと直接繋がりのある幹部と、潜入捜査官を番わせることが出来たならば。
一筋縄ではいかない、あの老獪なアルファといえど、自分の番(つがい)にはある程度気を許すだろう、なんらかの情報を得ることも期待できる。
今後、組織に対して強い手札となるのは明らかだった。
もし仮にみょうじなまえが、あの魔女と番(つがい)になったとしても、公安警察としての職務を遂行できるくらいの精神力を有していれば、その選択も可能かもしれない。
堅牢な理性と崇高な職責を負う降谷を、ただのアルファとして快楽へ引きずり込んだオメガ性だ。
なんとかヒート状態で対面させることが出来たならば、あの伝説的大女優でもなんらかのアクションを起こすことは自明だった。

ただ問題は、番(つがい)関係を解消されたオメガが、みょうじなまえが、どれだけのダメージを負うか、という点。
はっきりとした研究結果がないうえ、個人差もあるというものの、番(つがい)関係を解消されたオメガは一般的に、非常に強い精神的ストレスを負い、以後、番(つがい)を作れなくなってしまう危険性もあるという。
部下はそれに耐えうるだろうか。
命令に首肯するだろうか。

警察官になるために、オメガである部下が並大抵ではない努力や犠牲を払ってここまでやって来たことを知っている。
それを無下にすることは出来ない――いいや、それは建前だと、彼は自覚していた。
複数の顔と名前を使い分ける降谷にとって、ここまで使える、それも絶対的に自分を裏切ることの出来ない駒が、どれだけ重要か。
みょうじなまえというオメガは、降谷にとって非常に有用な存在だった。
アルファである「降谷零」の、そして「バーボン」の番(つがい)が、この世界にオメガであるみょうじなまえという人間ただひとりであるように、確実に、明確に。

報告書の紙面をなぞる。
みょうじなまえという、オメガの、「自分の所有物」の作成した文面は、それだけで他と際立って違うもののように感じられた。
ただの紙に、甘ったるい気持ちすら強制的に沸き起こる。
ストレス対策に利用している、意思や嗜好を無視し味わわされる本能的な喜びに、冷静な理性が不快感を抱く。
俺がこんな気持ちを抱くことすら誤りだと、降谷は前髪を掻き上げ、くしゃりと握り乱した。

「降谷さん、例の計画についてですが……」
「ああ、組織の人間がみょうじと帰国したら、すぐに動かす」

ベルモットと部下が中欧に滞在するのは、約三日。
ある仮説を元に作り上げたパズルを補強するため、ベルモットが日本へ戻り次第、彼女には手を借りねばならない。
例の計画、――あるアルファの男を追い詰めるための手筈は、いまのところ順調に進めている。

「赤井秀一にまで情報が繋がるでしょうか」
「ああ……必ずな。奴の正体は絶対に暴く」
「念のために、病院の方にも何名か回しましょうか?」
「いや、必要ない。単独で行く」

安室透の顔で杯戸中央病院に行き、コードネームすら与えられなかった組織の末端、楠田陸道について情報を手に入れなければならない。
彼がどこで、どうやって死んだか。
必要なのはそれだ。
あの男の古巣であるFBIの捜査官から、パズルのピースとなる確信が得られるかが最重要事項。
既に手は打ってある。
人間に真実を吐かせる方法は、いくらでもあるのだから。
全ては、探し求める最後のピースのため。

結果的に得た効用とはいえ、オメガの番(つがい)というドーピングまで手にした降谷は、常になく冴え冴えと目端をすがめた。
使えるものは全て利用する。
組織に潜入するときに誓ったことだ。
降谷は人知れず奥歯を強く噛み締めた。

探し求める最後のピースを埋める、その準備は整った。
――必ず、奴の――赤井秀一の、沖矢昴の化けの皮を剥がしてやる。

蔓延る
(2018.04.04)

日常、見せかけの平穏。
現実とフィクション、妄想の区別をどうぞお付けください。これは夢小説です。二次創作です。現実とは全く関係がありません。

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