「あら、残念」

なまえ、あなた、番(つがい)ができちゃったのね、とさして残念そうでもなく、高貴なフレーバードワインの名を持つ魔女はそれはそれは美しく微笑んだ。

「べ、ベルモット、」
「ふふ、あのバーボンもとうとう番(つがい)を持ったの。どうしてかしら、なんだか感慨深いわ」
「えっ、あ……そ、そんなに、分かるものなんでしょうか……」
「あなた、気付いていなかったの?」

濃く長い睫毛を大仰にまたたかせたかと思えば、ベルモットが愉快げに笑った。
彼女が笑うのに合わせ、手に握られていた、透明に近い色のシャンパンがグラスのなかで僅かに揺れる。
繊細なカットを施されたフルートグラスは、スパークリングにしては豊かな香りを誇るミレジメを楽しめるようやや膨らみを持たせた形状で、細く華奢な女性のスティレットヒールを思わせた。
良年のみ製造のヴィンテージ――ミレジメは、色合いばかりではなく涼やかな気泡のはじけ方すらどこか上品だった。
持つ細い手指は白魚のようになめらかで、繊細なグラスにしっくりと馴染んでいる。

本来酒を楽しむためのただの道具であるグラスも、職人の手でひとつひとつつくりだされた逸品はそれだけで芸術性を持つ。
良い酒を、良い器で。
強く美しいアルファの女性が酒を飲む様は、それだけでまるでひとつの絵画のように艶美だった。

嗜好品の最たるもののひとつとは到底かけ離れた、書類――先の任務で必要な、電気系統の記された図面を渡していたなまえの手がぴくりと跳ねる。
その様を見て、美酒を嗜む魔女はまた笑みを深めた。
番(つがい)ができたことだけではなく、まさか相手まで露呈しているとは思わず、なまえはそろりと上目に彼女を見やる。

「オメガには感知できないのかしら……においで分かるわ」
「におい?」
「オメガは番(つがい)ができると、番(つがい)以外に察知されるフェロモンを発さなくなるでしょう。それと別に、アルファのにおいが染み着いているわ。このオメガは自分のものだって、アルファが主張しているの」

完璧に保たれたプラチナブロンドを優雅な手付きで肩へ流すと、ベルモットはゆったりと笑んだまま、「それに、」と続けた。

つい、と指で招かれ、逆らえないアルファの命令に、なまえは静かに傍へ寄る。
指一本で、つう、と頬の輪郭をなぞられる。
不思議と温度は感じなかった。

以前はアルファの彼女にそうやって触れられれば、抗いがたいオメガの本能がざわざわとなまえの体の奥でうごめいていたものだったが、番(つがい)ができたいまは、嫌悪の念すら微かに湧くほど。
番(つがい)ができると、オメガは他の人間との性行為が不可能になる。
無理に触れられれば猛烈な目眩、頭痛、吐き気に襲われ、番(つがい)専用となった肉体は強い拒否反応を示す。
知識としては知っていたものの、実際に体感すると、なるほどこういうことか、と納得せざるをえない。
漠然とした不安感、不快感をなまえが他人事のように抱いていると、それすらお見通しなのだろう、ベルモットが顔をそっと寄せた。

「それにね、なまえ、アルファと結ばれたオメガは――いつだって、それと分かるほど、美しくなるのよ」

唇と唇が触れそうなほど寄せられた白皙の美貌はそれはそれは愉快げで、密やかな囁きは低く、ゆるりと肌に纏わりつくようだった。
どんな人間をも魅了する、深く染み込むような声色が寄せる波のように響く。

「ベルモット、」
「――分かっているなら、ソレから離れていただけませんか」

とうとうなまえが拒否の声をあげようとしたところで、気配なく突如ドアが開かれた。
その美しい蜂蜜色の髪より僅かに色を濃くする形の良い眉を上品にひそめ、――なまえの番(つがい)のアルファが、現れた。

「あら、バーボン」
「あなたのその悪趣味なお遊びに、僕のものを巻き込まないでいただきたい」
「番(つがい)ができたことのお祝いをしていたのよ」

おめでとう、と嫣然と笑う美女になまえは曖昧な笑みを浮かべた。
目線を下げ、口元をゆるめる。
なまえが言葉を発することはなかった。
世界に名を轟かせた大女優に、一時しのぎの嘘やおためごかしは通用しないと知っている。
一連の動作が、番(つがい)ができたことによる気恥かしさによるものだと勘違いしてくれはしないかと思いながら。

目蓋を伏せれば、密閉された庁舎の薄暗い「オメガ部屋」と、苦悶に眉をひそめる上司の上気した顔がまざまざと思い起こされる。
狂乱と呼ぶに相応しい陰惨な交わりから、早くも一月ほど経過していた。
その間、降谷とは業務以外、必要以上の接触を持たないようにしていた。
今日も顔を合わせるのは数日ぶりで、薄暗く埃っぽい「オメガ部屋」と、いまいる豪奢なホテルの部屋との落差があまりにも激しく、なまえは眩暈すら起こしそうになった。

淡く微笑んだまま、そっと上司の方へ視線をやる。
数日ぶりに顔を合わせた己れの番(つがい)に、意思とは関係なく全身が歓喜でふるえそうになっていた。

――「アルファと結ばれたオメガ」だなんて、そんな恋物語のような、きれいなものではないのに。

当の上司は、――組織随一の探り屋、バーボンとしての仕事を完璧に遂行してきたらしい、ベルモットの白魚のような美しい手へ、芝居がかった仕草でフラッシュメモリーを滑らせるところだった。

「ご苦労さま。あなたにもおめでとうと言った方が良いかしら?」
「遠慮しておきましょう。そもそも祝われるようなことじゃあありませんよ」
「そうかしら。ただでさえオメガは少ないのよ、そのなかでも番(つがい)なんてつくるのが、どれだけ大変か」
「僕の場合、この組織に入る前から、なまえを子飼いのオメガとして使っていましたからね」
「なまえ、酷い男に捨てられたときは私のところへいらっしゃい。あなたなら歓迎するわ」

バーボンは肩をすくめ、それには何も言及しなかった。
わたしには勿体ない言葉です、とやわらかく苦笑するみょうじなまえを――部下を見て、浮かべた笑みを降谷はうっすらと深める。
なるほど、と腑に落ちる心持ちがした。
もし組織でも重要なポジションに就くベルモットと部下を番わせれば、悪辣な魔女といえど自分の番(つがい)には悪いようには出来ないだろう、今後組織に対して強いカードを持つことになるのではないか。
そういう手もあるか、などと非情なことを考えている自分などおくびにも出さずに。

バーボンは深めた笑みのまま、なまえの腕を取ってやわらかい体を引き寄せた。
これは自分のものだ、と強く言外に示すように、うなじへ唇を寄せる。
いまは衣服で隠されているそこには、くっきりと己れの歯型が刻まれている。
すん、と鼻を効かせれば、世界でただひとりだけ自分にのみ作用する、甘ったるいほどのオメガの芳香が立ちのぼり、くらりと脳髄を痺れさせた。
オメガは従順に目を伏せた。

「随分と人聞きの悪い。僕の番(つがい)ですよ、ベルモット」
「あらあら嫉妬? あなたにも可愛いところがあったのね」
「まさか。あなたもアルファなら分かるでしょう、自分のものが他人に渡るのは我慢ならない性分なだけです」

女ならば皆うっとりと見惚れるだろう完璧な笑みで、組織随一の探り屋が口角を上げる。
みょうじなまえの人間性など無視した、奸悪さの滲む傲慢な発言に、往年の大女優は嘘偽りを見出さなかったらしい。
もう一度歌うように低く呟いた。
「ひどい男」と。

偽物、濃い欺瞞の満ちる空気。
番(つがい)であるアルファと共にいることによって、本能から無理やり味わわされる幸福感ですら霞みそうになるほどの息苦しささえ覚えて、なまえはそっと息をつかざるをえなかった。

フルートグラスの底から立ち上る涼やかな気泡も、もう随分と数を減らしていた。
見惚れるほど上品な仕草でそれを嚥下したアルファの女性は、強者である第二性特有の、他者を圧倒するような声音で笑った。
いくらなんでも他人の番(つがい)に手を出すような馬鹿な真似はしないわよ、と。
優雅に肩をすくめたベルモットに、なまえも曖昧に笑みを返した。
バーボンもまた、番(つがい)と似た笑みをうっすら浮かべている。

はじめから贋作の微笑だと知っていただろう
(2018.04.01)

情なぞはじめから求めていなかったとはいえ、増していくのは罪悪感ばかり。

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