夢だったのではないかと。

窓もない密閉された「オメガ部屋」から数時間ぶりに出て、はじめに思ったことは、全て夢だったのではないかと。
そんな、甘ったれた願望だった。
人ひとりの――それも、大きな重責を負った敬愛する上司の「人生」を狂わせておいて、なにを。

「っ、う……」

ぶわりと視界が拡張するような目眩を覚え、なまえは思わず口元を抑えた。

ヒートは未だ続いている。
アルファの精をたっぷりと与えられ、番(つがい)関係を築いたことによって、一旦小康状態に至ったにすぎない。
どくりどくりと、心臓と胎がざわめいている。

オメガのヒートは七日間ほど続く。
すぐに帰宅し、常備している抑制剤を――そして避妊薬を摂取しなければならない。
先程スマートフォンを確認すると、降谷から、地下駐車場に車を回しておくこと、地下の第三玄関から出てくるように、との連絡が入っていた。
法律でヒート状態のオメガは車両の運転を禁じられているため、どうやらなまえを送迎してくれるつもりらしい。
メールには加えて、出来るだけ誰とも顔を合わせないようにと追記されていた。
時計を確認すれば早朝というよりも明け方と言った方が正しく、さすがにこの時間ならば庁舎にいる人間も僅少だろう。
つまり、狂乱と呼ぶに相応しい、凄惨な性行為――いいや、あんなもの、オメガのフェロモンを利用したレイプのようなものだ――あの地獄のような一幕を、七、八時間も続けていたことになる。
それほどまでに時間が経過していたとは全く感じられず、なまえはあまりのおぞましさに手指をふるわせた。

――オメガなどに生まれなければ良かった。
第二次性徴、初潮を迎え、自分がオメガなのだと分かったとき心底そう思った。
ベータの両親によって病院へ連れてこられ、検査の結果下された「オメガ性」という診断。
それは小さな頃から憧れていた、警察官という仕事を自動的に諦めなければならないことを指していた。
オメガは警察官にはなれない。
明確な決まりこそなかったが、純然たる筋力の差、能力の差、頭脳の差、その他様々な要因が、オメガを劣ったものとはっきり位置付けていた。

「っあ、……は、」

アルファに噛まれたうなじが、じくりと痛む。
分け隔てなく接してくれた上司が、この地位まで引っ張り上げてくれたというのに、自分が報いた仕打ちとは。

うなじから発される痛みはまるで、忘れるな、と呪いのように囁きかけているようだった。
未だ熱を持つそこはじりじりと疼き、なんの効用なのか、自らを支配してくれる番(つがい)がいるのだというどうしようもない幸福感すら与えてきた。

本能から来る強制的な幸福感に、あまりの申し訳なさで気が遠くなりそうだ。
蜂蜜色の髪よりも僅かに色を濃くする形の良い眉を苦しげに寄せ、荒く息を吐く上司の顔を思い出す。
降谷の、快楽に耐えるあれほど淫蕩な表情を見るのは初めてだったが、――そこに甘い感情などかけらもありはしなかった。
あるのはただ、罪悪感ばかり。

アルファは、発情期のオメガが発するフェロモンによって強制的に発情させられる。
この番(つがい)関係は、オメガのフェロモンを利用したレイプのようなものだ。
清く誇り高い上司を、自分がそうなるように仕向けた。
「加害者」は自分だ。
澱のように沈殿していく罪悪感に、喉がふるえた。

なまえが降谷を利用したのは否定しようのない事実だった。
一時的なヒートを乗り切り、それだけに飽き足らず、先の人生をより良く渡っていくために。

番(つがい)を持ったことにより、オメガは他者が感知できるフェロモンを発さなくなる。
フリーの頃は誰彼かまわず誘うフェロモンを撒き散らしていたものが、その代わり、己れの番(つがい)のアルファにのみ効くように変質するのだ。
つまりフェロモン抑制剤を飲まずとも、他者にオメガだということが悟られないようになる。
抑制剤を摂取した直後はどうしても頭がぼんやりと重怠くなってしまうため、なまえは毎日常飲していた薬剤がどうしても嫌いだった。

そして、デスクの引き出しに忍ばせていた辞表は彼女の枕元で破り捨てられていた。
メールで伝えていたものを降谷が持ち込み、破棄したことはすぐに察せられた。
これからも公安として働け、ということなのだろう。
なまえの目にじわりと涙が滲んだ。
――これからも、警察官として働いていける。
降谷は、オメガとしてのなまえと、警察官という夢を思い描いていたあの頃の少女を、救ってくれたのだ。

諦めかけていた希望と罪の意識で、目の前が真っ暗になる心持ちがした。
お前のその幸福感は、他人の犠牲によってなされたものなのだと忘れるな。

うなじの噛み痕がまたじくりと痛み、そしてその感覚がまた罪悪感と、強制的な幸福感をもたらした。
溢れる涙は、至極恐ろしいことに、自分には番(つがい)がいるのだという恍惚によるものに他ならなかった。

本当に、どうしようもない。

無機質な窓が単調な間隔で並んでいる。
四角い窓から見上げた明けの空は皮肉なほど青く澄み渡り、上司の美しい瞳を思わせた。
いままで感じたことのないほどの体の軽さ、心地良い充足感、甘ったるい陶酔と喜び。
本能だ。
本能によって強制的に味わわされる感情と感覚は、なまえにはどうしようもない。
しかし理解していて、それでも。

ざわざわと胎奥が疼く。
はやくアルファが欲しいとまた肉体が訴えかけているのだ。

「ふるや、さん……」

ここにいない上司の――自分の番(つがい)の名を呼んでも、底抜けに澄んだ青空ばかりが美しい。
番(つがい)を思い描いたことにより胸に湧いた強制的な喜びと浅ましい欲求に、絶望ばかり堆積していく。

どうして、オメガになど生まれてきてしまったのだろう。
なまえは透明な窓ガラスに手を着き、浅い呼吸を繰り返した。


・・・



夢だったのではないかと。

みょうじなまえのヒートに引きずられ発情し、数時間ぶりに「オメガ部屋」から出た降谷は、うっすら明るくなりつつある空を見て茫洋と思った。

予定していた雑務を切り上げ大量のメールを優先順位づけて手早く処理した後、部下たちへのさしあたっての指示をまとめ、オフィスを出た。
極力他人と顔を合わせないよう足早に地下駐車場へ向かう。
ベータならともかく、ヒート状態のいま、他のアルファやオメガに会うことは避けたかった。
幸い時間が時間だけに、誰にも遭遇することなく愛車へとたどり着く。
乱雑にドアを閉め自分の所有する個の空間へ逃げ込んだところで、降谷はようやく息をついた。
脱力し、ごつ、と硬いステアリングへ額を預ける。
冷たい皮の感触が心地良い。
体内では、未だじりじりと熱が燻っていた。

殉職したとされる男の死の真相を探るため、組織の――伝説的大女優の手を借り、変装して米花町へ赴いたまでは良かった。
まさか百貨店で爆弾騒ぎに巻き込まれるとは全く想定していなかったうえ、挙句、こんなことになるとは。
くしゃりと自らの前髪を握り乱す。
爆弾騒ぎからようやく解放され、変装を解き、一旦庁舎で雑務を処理してまたベルモットのところへ向かうつもりだったが、それも不可能になってしまった。
彼女にも連絡をしなければ。

ヒート状態の部下をあのまま放置すべきではないと分かっていた。
しかしあの部屋に留まれば、意識を飛ばした部下を際限なく貪り尽くし更なる無体を働いてしまうことは想像に難くない。
呼吸すれば、自分の身体にまだオメガのフェロモンがまとわりついているような気がして、あれだけ吐精したにも関わらずどくりと腹奥に熱が溜まる感覚がした。

燻る熱を振り切るように、思考に集中する。
ヒート状態の部下を連れてどこへ向かうか。
バーボンとして所有している部屋よりも、最も近い降谷名義の自宅のひとつが最善だろうと判断し、すべきことを順序立てていく。
組織の命令と偽ってふたり揃って一週間登庁することは不可と部下へ通達したため、公安の方は問題ないだろうが、安室透としての采配も済ませなくては。

気を抜くと荒くなりがちな呼吸を整える。
とはいえ体内でうごめく熱によって思考はぼんやりとしがちではあったものの、対して体調はすこぶる良好だった。
とても夜通しセックスに耽っていたとは思えない。
いままで感じたことのないほどの爽快感や肉体の好調具合に、戸惑うほどだ。
自分には支配すべき番(つがい)がいるのだと、充足感や満足感が強制的に湧いてくる。
なるほど、本能から来るこの感覚だけでも番(つがい)を持つメリットはあるだろう。
日々蓄積していた精神的ストレスや肉体的疲労が、いまは全く感じられない。

加えて、番(つがい)を持ったオメガは誰彼かまわず誘惑するフェロモンを出さなくなる。
それはアルファも同じで、フリーの頃であれば異種性のフェロモンに惑わされる危険性があったが、番(つがい)を持ったいま、番(つがい)以外の人間には本能的に惹かれない。
フリーのオメガに当てられて無様に発情する危険性は、これでゼロになったわけだ。
下手なオメガに惑わされるよりも、職や任務を共にする部下の方が比べるまでもなく遥かに都合が良い。
犯罪組織に潜入している身としては、そうこの関係も疎ましいものではないように思われた。

――彼女のことだろう、今頃、自分のせいでと罪悪感に苛まれているだろうが。

この世界におけるオメガの比率はわずか五%。
七五%がベータであり、残りの二〇%がアルファである。
そして支配者階級であるアルファがほとんどの社会的重役を占めている。
一般企業は家族経営が極めて多く、アルファ同士のコネクションも強い。
結婚はそれぞれ同種間で行われるのが当たり前。
特にアルファはエリート意識が高く、アルファの血に他のものを混ぜたくない、絶やしたくないという意識から同種での婚姻に積極的だ。
アルファとアルファの子は高い確率でアルファが生まれるためだ。
結果、ますます上流階級、財閥はアルファによる独占が進む。
遅々として進まない研究によれば、潜在的オメガはもっと数が多いはずであり、実際はアルファが二、ベータが七、オメガが一ほどなのではないかと言われている。
しかしながらオメガであるというだけで進学や就職に不利という認識が根強く残る社会では、自分がオメガであることを隠す人間は多い。
調査に協力するオメガも少ないのも、研究が進まない原因のひとつだろう。
それもこれも、オメガの肉体は子供を産むために特化した種だからという認識が根強いためか。

オメガは、絶対にアルファを傷付けられない。
オメガは被支配者で、アルファは絶対的な強者だからだ。

幼い子供のように「ごめんなさい」と繰り返しながらぼろぼろと泣くみょうじなまえをねじ伏せ蹂躙している間、降谷が感じていたのは恍惚と陶酔だった。
満たされる征服欲と支配欲、たっぷりの肉欲。
みょうじなまえという女は、アルファの本能である嗜虐性を十二分に満足させた。
犬の交尾と同じ後背位で己れの欲のままに犯している間、自分がうっすら笑っていたことを――降谷は自覚していた。
服従の姿勢で乱暴に犯されるなまえは気付いていなかったかもしれないが。

目を閉じれば、揺れる白いうなじが思い浮かぶ。
あそこへくっきりと残した己れの歯型は、番(つがい)を証明するモノだ。
番(つがい)関係はアルファがオメガのうなじを噛むことによって成立する。
そしてその関係を解消できるのも、アルファによってのみである。
もしも関係を解消された場合――「捨てられた」場合、オメガは非常に強い精神的ストレスを負う。
廃人のようになる者もいるという。

つまり、――アルファにはなんの不利益もない。
どれも学生のときに教科書で得た知識だったが、第二性がここまでオメガの人生を狂わせるとはそのときは考えもしていなかった。
なぜなら自分はアルファだからだ。
その事実は変えられず、降谷は初めてみょうじなまえという人間に憐れみに近い感情を覚えた。
アルファは支配するもの、オメガは支配されるもの。
事実はただ事実として。

「……加害者はどちらだろうな」

この関係が害をなすものになるなら、いざとなれば番(つがい)を解消すればいい。
アルファである自分には、なんの問題も生じない。
部下は――みょうじなまえは、どうなるのか分からないが。

優秀な部下すらもそうしていつか切り捨てるときのことを考えている自分に気付き、強制的に味わわされる充足感や幸福感に、降谷は苦いものが混じるのを感じた。

明日には死んでしまうさ
(2018.02.18)

すれちがって、こじれて、どろどろ。

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