「だめです」

こんなこと、だめ、と譫言のように繰り返す部下の唇が濡れている。
降谷はぐらりと倒れこみたい衝動を覚えた。
頼りなげにふるえるそこに、なにもかも忘れてむしゃぶりつきたい。
とろけた顔をしたメスを、なにが駄目なんだと責めなじってやりたくて堪らない。

このオメガを自分のものにしたい。
孕ませたい。
支配したい。
いま、気も狂わんばかりに強くそう欲している。

降谷の――アルファの本能に強く作用する、噎せ返りそうなほどのオメガ特有の濃く深いフェロモン。
ぐずぐずに思考が煮溶けていくのが、常から冷静である彼には手に取るように分かった。

ヒート時オメガは強制的にアルファを、稀にベータをもヒート状態に陥らせることが出来る。
――「オメガの発情期には勝てませんでした」。
発情期を売りにした、低俗な成人誌やアダルトビデオで使われる常套句だ。
そして愚かなことにフィクションだけに止まらず、それを理由にして性犯罪に手を染めるベータも現実に少なからず存在する。
いわく、「フェロモンで誘ってきたオメガが悪いのだ」と。

番(つがい)を持たないオメガは、通常、異種性を誘うフェロモンを発している。
そのため三〇年ほど前にフェロモン抑制剤が開発されるまで、オメガはほとんど人前に出ることはなかった。
「オメガのフェロモンが原因」、容疑者にそう言われてしまえば、「被害者」であるはずのオメガは「自分のフェロモンもコントロール出来ない社会不適合者」へと立場を変える。
平穏に生活してきた世の大多数である一般人――ベータを惑わせた、乱暴されても仕方のない加害者へと。

「っ、は、」

目の間の現実から逃避する、馬鹿馬鹿しい思考に吐き気を覚える。
いつの間にか浮いていた額の汗を、降谷はダークグレーのスーツが汚れるのも構わず乱雑にぬぐった。
奥歯を噛み締め、落ち着け、後のことを考えろ、と自らに言い聞かせる。
けれどいまのみょうじなまえを前に、加速度的に下半身へ血液や熱が集まっていくのを否定するのは不可能だった。

任務のために仕方なくアルファ性を利用することはあれど、いままで仕事上の立場や役割において、第二性にこだわることはなかった。
能力があればベータだろうとオメガだろうと使う。
異種、あるいは同種性の同僚として部下として接し、仕事を割り振ってきた。
降谷にとっては第二性など、男女の区別とそう変わりない、ただの属性の区分でしかなかった。
社会構成と同じく警察組織でもやはりベータが最も多く、ただし、一般企業よりはアルファが多く存在した。
そのなかでも公安部は比較的アルファの多い部署だったのも、一因だったかもしれない。
人間は自分が置かれた環境や状況に慣れ、それが普遍的なものと勘違いしていく。
アルファが多い環境の、アルファとして。
滅多にお目にかからないオメガのことなど、大して気にもしていなかった。

世界のどこかにいるかもしれない自分の「魂の番(つがい)」とやらも――ただでさえオメガの数が少ないがゆえに、ほとんど都市伝説的に語られる「運命」という繋がりも、面倒なしがらみだと、彼は疎ましくさえ思っていた。
オメガだのアルファだの、理性のない動物でもあるまいし。
文明社会に生きる知性ある人間がなにをのたまうのだと、第二性を理由に罪を犯す者に対しては、侮蔑と憤りを覚えていた。

――が、これは、存外に。

「ああっ……ごめんなさい、降谷さん、ごめんなさい、なまえに……おねがい、なまえにちょうだい、ふるやさん、」
「みょうじ、やめろ、ッ、」

暴力的な欲求や熱で、なにもかもが駄目になっていくのを感じていた。
「本能」というものを甘く見ていた。
心臓がいままで感じたことがないほど高鳴り、耳の奥でどくどくとうるさい。
本能に直接訴えかける甘ったるく濃いフェロモンと、頼りなげに縋ってくるやわらかな肉体。
だめだと繰り返していたはずの部下の唇は、いまや謝罪と許しを乞うものになっていた。

あのとき、降谷がこの部屋の――通称「オメガ部屋」のドアを開けたのが間違いだったのか。
公的施設や一般企業に設置することを義務付けられた「オメガ性擁護対策室」。
アルファやベータの間では、劣等種に対する蔑視や嘲笑を込めて「オメガ部屋」と呼ぶ者もいた。
ここ警察庁の元第一六資料室、現「オメガ部屋」も、利用は愚か、近寄る者もあまりいなかったのだろう、換気の悪さも相まって妙な息苦しさを覚えた。

この部屋のドアを開けたのが誤りだったか――いいや、あの、メール。
部下が寄越した不穏なメールが元凶だというのは、言い訳か。
しかし咎めるためにかけた電話越し、「助けて」と口にする部下を見捨てることなど出来ただろうか。
それこそ言い訳だろうが。

呼び寄せられ、あのとき「オメガ部屋」のドアをノックしようとした手が小さくふるえていることに気付いていた。
情けないことにその時点で既に脳内はかすみがかり、いつもの自他共に認める冷静さや合理主義的性質は見る影もなかった。
ただひとつのことしか考えられない。
この扉の向こう側にいるオメガを、自分のものにしたい。
孕ませたい。
支配したい。
部下の姿を見るより先に、ドア越しのオメガの気配のせいで、気も狂わんばかりにそう欲した。

その欲求は例えるなら、呼吸を求めるような、食物を摂取したいというような、それらと同等の。
段階欲求の最下層、生きるために必要な最低限の欲求レベルで、みょうじなまえを欲していた。
発情状態のオメガのフェロモンによって引き起こされた強制的なヒートだと理解はしていても、それでも。

しかしながらそのとき降谷が無理にドアを蹴破らなかったのは、ここが神聖な庁舎で、自身はいつものグレースーツを着用しており、ドアの向こうにいるのは自分の部下だからで――いいや、ただ単純に、この部屋が内側からしか開かないと知っていたからに過ぎない。
男女平等と同じく第二性の平等などと謳った国が、オメガ性の保護のためとして、規定上「オメガ性擁護対策室」のドアは室内に人間がいる場合、内側からしか開かないようになっている。
そうすれば、フェロモンによって誘われたアルファやベータから、オメガを守ることが出来ると考えたらしい。

しかし、これは。
降谷は嘲笑に似た苦い笑みを浮かべた。
あまりにも愚かとしか言いようがない。
オメガを守るために便宜上設置されたものとはいえ、これだけ強烈なフェロモンを発している当のオメガならば、いまの降谷よりもずっと強く深い欲求、渇望に襲われているに違いないのに。
いまだって、ほら。

「あ、ああっ、降谷さんっ……!」

とろりとメスの顔で微笑む部下が、甘ったるい声色で彼を呼んだ。
扉越しでも耐えられないと思っていたオメガのフェロモンが、ぶわりと降谷を襲う。
ノックの音で、あるいはそれよりずっと前、近付くアルファの気配によって降谷に気付いていた彼女は、内からしか開かないドアを自分から開けて、降谷を――アルファを迎え入れた。

「みょうじ、」

自ら扉を開けた従順なオメガを褒めるように名を呼んでやると、彼女はまるで恋を知ったばかりの処女のように、それはそれは幸福そうに笑った。
乱雑に閉じられたドアが立てた大仰な音など、ふたりの耳にはとうに聞こえていやしなかった。

目の前のオメガは優秀な部下、ここは厳粛かつ謹直であるべき職場、メールが来るまで手掛けていた中途半端な案件、――そんなことはもうどうでも良かった。
思考も倫理も崩れこぼれていた。
職責に忠実な自分がそう思うほどには。

いままでみょうじなまえについての印象は、慎ましやかで清廉、自分の意見や要望を強く通すタイプではないものの、曲げぬ信念と意地を持っている優秀な部下のひとりという認識だった。
オメガ性だという報告は受けていたものの、本人たっての希望でベータの女性と変わらない扱いをしてきたし、しっかり抑制剤を摂取しているらしく異種性という事実を忘れる程度にはオメガのフェロモンの気配などありはしなかった。

しかし、――これは、誰だ。
降谷の足下、恍惚に目を潤ませながら、密閉されたオメガ部屋の床で膝を着き、はやく男のスラックスのベルトを外そうともどかしげに手を這わせている女。
熱っぽい荒い息が服越しに下腹部へ吹きかけられ、思わず腰が揺れた。
とっくに硬く勃起しきっていた男性器は、布地を窮屈そうに押し上げてしているのを隠せずにいる。

「ぁ、あ……おねがい、ふるやさん、おねがいです、」

甘ったるくとろけた表情のオメガが、アルファの精をねだっている。
バックルの立てるかちかちという金属音が耳障りだった。

「おねがい、……なまえを、犯して」

恍惚、絶望
(2018.01.29)

導入部のため設定の説明が多く申し訳ないです。
理性と本能、思慕と打算、いつか「運命」とも出会うかもしれません。

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