もう、限界だと思った。

いままでの人生全てを否定されたような気がして、みょうじなまえは、――オメガである女は、窓ひとつない狭苦しい部屋でひとり、唇を噛み締めた。

規範に則り国民を守り、正義によって職務を遂行するべき警察官である自分が、いますぐ死んでしまいたいと心底思うほどの無力感であふれる涙を止められずにいた。

最悪だ。
なにもかもが無駄だった。

自分自身の体だというのに思うように動かないふるえる手で、なんとかメールを送信する。
直属の上司へ、職を辞する意思を伝えるメール。
正しい形式に則った文書は自分のデスクの引き出しにあること。
多大なる迷惑をかけること。
当然ながら、得た情報をこの先決して漏洩させないこと。
引き継ぎはまた後日に。
志半ばにして戦線から離脱することの申し訳なさ、悔しさ。
あなたの下で働くことが出来て光栄だった、と。

そんなことを記載したメールを送信した。
もしかしたら誤字や脱字、文章のおかしな箇所もあるかもしれない。
しかしながら揺れる手指と濡れかすむ視界では、最低限のそんなことにすら構っていられる余裕はなかった。

一個人の都合や事情がそうそう罷り通る職種でもない。
もう無理だと職務を容易に投げ捨てられる性質もしていない。
だからこそこの重要な仕事に就けたのだ、日々己れを研鑽し、上層部にも自分の能力を認められて、――けれど、それもこれも今日でおしまい。
噛み締めた歯が、ギリ、と嫌な音を立てた。
無責任極まりないというのに職務を放棄してでも、自分はここから去らなければならない。
これ以上現状にしがみ着いている方が、いつか更なる迷惑をかけ、より重大な問題を発生させることは明らかだった。

「はっ、ぅ……はあっ……」

オメガの発情期特有の、ぼんやりと頭の芯がとろけるような感覚。
はあはあとわずらわしい呼吸音と激しい動悸のせいで、ますます意識が混濁していくようだった。

この世界はβ(ベータ)と呼ばれる「一般人」がほとんどを占めており、そしてそれより少数のα(アルファ)がトップに立つことによって成り立っている。
更にマイノリティであるΩ(オメガ)も存在するものの、表舞台に出てくることはあまりない。
なぜなら一般的に、アルファ性は優勢種であり、オメガ性は劣等種だからだ。
基本的な能力や性質、資質をはじめとして、アルファとオメガには様々な差異が存在する。
そのなかでもオメガが劣等種とされる原因に、社会生活を送るに当たって致命的な問題がひとつある。
ヒートと呼ばれる発情期だ。
多少なりとも個体差はあれど、オメガには三か月に一度、一週間ほど使いものにならない時期がある。
アルファ、あるいはベータの子を生むため、妊娠しやすい体へと肉体がつくりかえられる時期だ。
その間まともな日常の生活を送ることは難しく、それゆえオメガは進学、就職にも不利とされる。
アルファにもヒートはあるものの、それは発情期のオメガのフェロモンに誘発された突発的なものでしかなく、オメガに接しさえしなければそれは起こらない。

――「オメガの体は、子を孕むためのものである」。
アルファもベータもオメガも同じ人間、平等な社会を目指しましょう、なんて政治家も企業も喧伝しているものの、この国でやはりその認識は簡単にはなくならない。

女性で、それもオメガである人間では無理だと言われた夢のため、しゃにむに努力してようやく念願の警察官になれた。
その警察組織のなかでも多大なる重責を伴うこの部署へオメガを割り振ることを渋った上層部の人間もいたというが、敬愛する上司が口添えしてくれたと聞いて知っていた。
その上司の期待にも精一杯応えたいとみっともなく縋り続けてきたものの、もう、それも。
申し訳なさとやりきれなさで、更に涙がこぼれた。

「は、っ、はあっ……ぁ、」

上がる呼吸、溢れる涙、時折びくびくと跳ねる四肢。
腹の奥の空洞が、はやく埋めてほしいときゅうきゅう収斂して泣いている。
欲しい、ここに、はやく欲しい、――アルファのものを、胎内(ナカ)に。
理性で抑え込もうとしても、そんな浅ましい欲望は、「本能」というどうしようもない名前で肉体のなか暴れ回っている。

そもそも、三か月に一度であるはずの発情期、ヒート状態になんの前触れもなく陥ってしまったのはなぜか。
予定ではまだひと月以上先のはずなのに。
女性としての月経は月に一度、体調やストレスで多少なりとも前後することはあった。
けれどヒートの時期が狂ったことなどこれまで一度たりともなかった。
発情期前になると常飲しているヒート抑制薬も自宅にしかなく、いま手元にはない。
この「部屋」にひとり、頼れる他者もいない。

オメガの人権において世界的に対策の遅れていた国が世論に押されるようにして、五年前、各企業へ「オメガ性擁護対策室」とやらの設置を義務付ける法令を発した。
突発的なヒートが起こったオメガが逃げ込める――つまり、喫煙者のための喫煙所のようなものを作らせたわけだ。
オメガの社会参画を推し進めるため、という名目だったが、要はヒートに陥ったオメガを「隔離」するための空間である。
そもそもオメガであるというだけで就職に不利になるとされているのに、わざわざそんな設備を整えようなどという酔狂な企業は多くはなく、官公庁や公的施設以外、ほとんど形骸化している。
制定されたときには無駄な金を使って無駄なことを、となまえもうっすら侮蔑めいた感情を抱いていた。
にも関わらず、現状、庁内の外れに存在すら忘れられつつある元資料室のこの部屋のおかげで、彼女はまぎれもなく安堵に近い思いを覚えていた。

もし異変を感じ、非常に早い段階でこの部屋へ逃げ込めていなかったならば?
考えただけでぞっとする。
同僚たちに自分のこんな醜態を晒す程度のことならまだしも、他のアルファやベータたちに影響を与えてしまったら。
いま庁内に何名のアルファが詰めているのか把握していないものの、警察組織は職業柄、一般企業よりも多くのアルファが在籍している。
オメガの発するフェロモンは、否応がなしに他のアルファ、稀にベータをも強制的にヒートさせてしまう。
神聖な職場でそんなことになってしまったらと思うと、わずらわしいほど熱を持っている身体がざっと冷えていくようだった。

今日はなんとか上手くこの部屋へ逃げ込めたものの、――もし、また同じように周期外の発情期が来てしまったら?
もし、それが緊迫した現場での任務中だったら?
考えたくもない。
そんな恐ろしいこと。

はやく、ここから去らなければ。
予定外の発情期なんてありえないと思っていた――しかしありえないことが、いま、現実に起こっている。
けれど、自分のせいで取り返しのつかない重大な失敗を招くくらいならば、ここで潔く脱落すべきなのは明らかだった。
悲劇のヒロインぶる、自分のネガティブな思考が鬱陶しい。
なまえはきつく噛み締めた唇からじわりと血が滲んでいることにも気付いていなかった。

心残りは数えきれないほど多くある。
最たるものは、この国を守るため身分を秘匿して潜入していた、世界的犯罪組織の壊滅を目の当たりに出来ないこと。
酒にちなんだコードネームは未だ得てはいない末端の立場ではあるものの、日々捜査を進めてきた。
先に潜入していた、尊敬する上司と共に。
多忙な上司は今頃、自分が送ったメールに目を通してくれただろうか。
ほんのつい先程庁舎内で顔を合わせたときは、直前まで誰かしらに変装していたらしく、首元にかすかに化粧のあとを残していたが、――

「っ、」

ふるえる爪先が、振動して着信を告げるスマートフォンにかちりとぶつかった。
ほとんど無意識に画面をスライドして、通話状態にする。
液晶画面に表示されているのは、丁度考えていた直属の上司の名前。
自分がこの仕事へ就くことが出来るよう進言してくれた、尊敬する素晴らしい捜査官。

――降谷零。
第二性は、アルファ。
オメガであるなまえと対を成す唯一の性。
この苦しみから救うことの出来る、唯一の。

「――みょうじ? どうした、なんだあのメールは」
「んん、っあ……ふ、ふるや、さんっ……、っう、」
「っ、おい! みょうじ、しっかりしろ! 答えろ、いまどこにいる」

電話越しではフェロモンやにおいを感じられないはずだ。
電波が伝えるのは、音声のみ。
にも関わらず、なまえは身体の奥がどろどろに溶けはじめているのを感じた。

身体が受け入れる準備を始めているのだ。
優秀なアルファの子を産むために。
アルファを欲する、オメガの肉体が。

欲しい。
はやく、アルファが欲しい。
いますぐこの胎を埋めてくれなければ、気が触れてしまうのではないかと恐怖するほどに。

「みょうじ……?」

最悪だ。
心底、自分に幻滅する。

オメガになんて、生まれなければ良かった。
女性だからと、オメガだからと、進学するときも、就職するときも、口々に言われた。
あなた自身のためにもやめておいた方が、周囲の理解も得られるとは限りませんし、などと。
オメガだと診断されたときの、医師や看護師たちの憐れむような目、共にベータである両親の落胆したような、傷付いたような表情。
ずっと、見返してやりたいと思っていた。
女だって、オメガだって、誇り高き警察官になれるのだと。
正義を全うすることができると。

――けれど、なにもかもが無駄だった。
唾液で濡れた唇が、なめらかに言葉を吐く。
警察官であるはずの自分が、いますぐ死んでしまいたいとすら思う絶望と共に。
わたしは、どうしてオメガになんて、生まれてきてしまったのだろう。

しかしその深く暗い悲観も、オメガの本能は容易く飲み込み、たちまちのうちに甘く曖昧にしてしまう。

「降谷さん、……た、たすけて、」

なんて、浅ましい。
――もう、限界だった。

いままで疎ましく思っていた己れのオメガ性をもってして、相手を地獄へ道連れにしたいと思うほど、恐ろしく醜悪になれるくらいには。

行き着く先も地獄
(2018.01.26)

ふと思い浮かんだオメガバース連載です。
先々お相手が増える予定ですうふふ

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