ビル群の隙間を縫う夜空は澄んで美しく、しかしこう地上が明るくては星などひとつも見えやしなかった。
床から天井までを繋ぐ大きな窓ガラスは、屋内のこちら側が照明をしぼっているお陰で鏡にはならず、LEDをはじめとするビル群の可視照明が情緒を持って堪能できた。

高級ホテルの高層階ラウンジは平日の中頃とあってか人影は多くはなく、後ろ暗い話をするにはもってこいの密やかさに満ちていた。
ところどころに設置された巨大な水槽は、ラウンジの広い空間を品よく区切り、なおかつ揺らぐ水面の反射する鈍い色によって、ゆらゆらと互いの表情を分かりづらくさせていた。
アクリル製の水槽のなか、あの淡水魚はアロワナだろうか――大きな観賞魚がアクアリウム用のメタルハライドランプの明かりを受けながら、ひとり悠々と泳ぐ。
低く控えめに響くエアーリフトのフィルター音に混じって、ぼそぼそとした話し声が、凪いだ波音、あるいは衣擦れのようにかすかに漂う。

「……それで? 組織はその見返りに、私に何を与えてくるのか」

唇の端を歪め、ヤニで黄ばんだ歯を覗かせて、初老の男が低く呟いた。
睥睨するような視線は、こちらを値踏みするような色を全く隠すことなく、年を重ね僅かに色の褪せた瞳で彼を射抜いた。
色は褪せたとはいうものの、その奥の狡猾そうな光はそのままに、組織を相手になお己れの欲望を満たそうというのか、取引の場に相応しい表情で男は組織から来たという――バーボンの前で、贅肉を大仰に巻いた太い脚を組み替えた。

「こちらとしては、期待せざるをえないがね。理解しているか? これが公になれば、私は失脚どころじゃあない、つまらん塀の中だ」
「……あなたの望むものならば、なんでも。勿論、成功報酬ですが。よもや頓挫するようなことがあれば、僕もこちら側も一切関知しないことを念頭に置いていただければ」

フン、と鼻を鳴らして視線を胡乱げに漂わせ、男が口をつぐんだ。
その薄くなった髪の下で、目まぐるしく損得勘定、得るもの失うもの、自分の利、不利について熟考しているらしい。
雄弁は銀、沈黙は金。
英国のカーライルが述べたように、バーボンは形良い唇をうっすら笑みの形に保ったまま、たっぷりと相手の男に時間を与えた。

巨大な水槽のなか、白銀の背びれを気怠げに揺らめかせながら、アロワナが優雅にターンする。
ぱしゃりと水面が乱れたその瞬間、思索に耽っていた男がかすかに目を細めた。

気取られぬよう配慮しつつ、バーボンはその視線を辿った。
男が目をやった先には、――ひとりの女がこちらへ歩いてくるところだった。
分厚い絨毯は靴音を隠しがちだが、それでもこつこつと硬質な音がかすかに聞こえる。
老獪な目に好色さを滲ませて、初老の男が舐めるようにソレを眺めていた。

薄暗いラウンジでは、その姿は夢か幻のように際立って見えた。
女は大きなサングラスをかけていて、顔立ちの美醜をしっかり判別することは出来なかった。
――それよりも、その立ち姿。
首を覆うホルターネックの白いワンピースは、膝より僅かに上の裾丈で、ぱっと目にすれば地味なデザインのようにも見える。
しかし体のラインを強調するようなぴったりとしたつくりはいやに艶めかしく、そしてその背はざっくりと開かれていた。
やわらかそうな黒髪を背に流し、隙間からちらちらと白い背が覗く。
モデルような高身長というわけでも、脚が細く長かったり、胸が際立って大きかったりというわけでもない。
しかし繊細なレースで覆われた白いワンピースの下、その肉体を想像することは恐ろしく容易く、なにより、首の細さを、胸のやわらかそうな丸みを、腹部のなだらかさ、腰の堪らないライン、臀部の肉の盛り上がり方をはっきりと示した姿は、思わず目を奪われるのも仕方ないかと思えた。

楚々とした風貌の、けれど深く赤いルージュの唇が印象的な女だった。
下品な印象を抱かないのは、身に着けているものの落ち着いたバランスのなせる技か、あるいはゴテゴテと装飾品を纏っていないためか。
アクセサリーは、せいぜいが片方の手首に巻いた細身のブレスレットくらいのものだった。
唇と揃いの暗い赤のクラッチバッグも落ち着いた光沢を見せ、淑やかさこそあれ、下品な印象を一切与えなかった。
白いワンピースと真っ赤なクラッチバッグは、さながらこの国の旗のようにも見えた。

ゆっくりと女が通りすぎて行く。
凶器と見まがうほど細いスティレットヒールは、分厚い絨毯にぐらつくことなく、けれどかすかに歩きづらそうな足運びを強いていた。
中国の纏足しかり、欧州のファウンデーション、コルセットしかり、男は古来から女の「不自由さ」「庇護欲をかきたてられる姿」に欲情する。
かすかに揺れる爪先と足首、その細い腕を握り引けば、あっけなく彼女は自分の腕のなかへ倒れ込んでくるだろう、――男ならばつい引き寄せたくなるような腰をしていた。
バーボンたちから三つ席を空け、斜め横に座っていた壮年の男もまた、ちらりと、けれどしっかりと欲望を孕んだ目で彼女を眺めている。

しかし彼女はそんな視線に少しも頓着することはなく、クラッチバッグから黒いスマートフォンを取り出した。
歩みは止めないまま、耳元へそれを当てた彼女の言葉は、すれ違いざま、聞くともなしにバーボンの耳に飛び込んでくる。

「……トオルです。ええ、着きました。……はい、一七階ですね」

耳馴染みの良い、場所に相応しく低く抑えられた声音だった。
声量は小さく、ある程度の距離もあったが、元来耳は良い。
それに仮とはいえ自分の名前のひとつである偽名は、意識せずとも耳に飛び込んできた。
バーボンは――安室透は、誰にも気取られることのない程度に、うっすら目をすがめた。

エレベーターの方へさっと通り過ぎて行った女の形の良い膝の裏のくぼみと、黒髪の合間から時折覗く白い背を未練がましく追っていた初老の男に、軽く咳払いして意識を戻させる。
男は夢から覚めたように、たるんだ目蓋を億劫そうに持ち上げた。

「お邪魔してすみません。しかしビジネスの後ならば、いくらでも。なんなら手付け金代わりにお好みの女でもご用意しましょうか?」
「……顔に似合わず、随分と下衆な冗談も嗜むようだ……バーボン」
「おっと、その名前はここではやめましょう、誰が聞いているか分からない。あなたも、僕と一緒にいることが露呈すれば少々具合が悪いのでは?」

首を傾げながらうっすら笑って言う。
初老の男は憎々しげに顔をしかめると、ハッ、と大きく息を吐いた。

たかが女ひとりに目を奪われるなんてあまりに愚鈍、もしくはその程度の注意しか払う価値などない者だと、自分を――「バーボン」を軽んじているのだろうか。
白い手袋に覆われた手指を組んで、笑みを深める。
ならばそれで構わない、こちらはその温い危機感を縫って、バーボンとして課せられた契約を、そして本来の職務上必要な情報を得るだけだ。

視界の端では、例の女が目の覚めるような白い背を向け、扉の開いたエレベーターに乗り込むところだった。
――「トオル」か。
偶然とはなんとも恐ろしい。
まさかこんなところでその名前を聞くとは。

「……さて、取引に応じるかどうかは、あなたのお答え次第です」

さあ、「バーボン」の仕事だ。


(2018.05.10)
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