存在しない人間のやることだ。
どうせいつか、その名前、人格を捨てるときが必ず来る。
犯した行いも覚えた感情も、そのとき一緒に捨ててしまえば良い。
わたしが「彼女」ではないように、「彼女」がわたしではないように。

・・・


「――覚えていて。とっても大切なことなんだけど、ここでは別の人格をつくった方が良い。……うーん、分かりやすく言うとね、ここでのキャラクターを設定してほしいの。あなたの本来の性格と似ているものでも良いけど、まるっきり違った方が演じやすいかもしれないんじゃないかな?」

この子はどのくらい「もつ」のだろう。
意識しておっとりとした笑顔を浮かべながら、キーホルダーもなにも付いていない、シンプルな鍵を手渡す。

「このことは、ここのお店だけじゃなくて、仮に他のお店に移ったとしても言われると思うの。自分とは違う、って思い込むだけでも良い。それで、疲れだとか嫌な記憶とかを、遠くにしちゃうの」

遠くに、と鸚鵡返しに呟いた唇は、たっぷりと塗られたグロスのせいでてかてかと不自然に光っていた。
やわらかい手のなかで、かちゃりと金属の硬い音が鳴る。

「そう、遠くに。……ロッカーはここを使ってね。鍵はこれ。無くさないでね。ロッカーは基本的にひとつしか使えないけど……もし荷物が多くなったら、スタッフさんに相談してみて。もしかしたらこっちの空いているのも使っていいよって言ってもらえるかもしれないから。……分からないことがあったら、わたしでも良いし、スタッフさんに聞くようにしてね。慣れるまでは他の女の子には尋ねないようにしてほしいの。……どうしてか分かる?」
「い、いえ……」
「他の女の子だと、その子も新人かもしれないから。新人さん同士だと分からないことも多いでしょう? それに、ついしゃべり過ぎちゃって、個人情報とかぽろっと言ってしまうことがあるみたいなの。以前、それでトラブルになったことがあったらしくって……。あのときは仲が良かったから、とか、そんなことをするひとだとは思わなかった、とか聞くけど、言わなきゃ分からないんだから、自分の情報は極力出さないように気を付けてね。もちろん、お客様相手にも。……折角こうして会えたんだもん、一緒に頑張っていこうね」

微笑んだまま、鍵を握るやわらかい手をそっと包み込んだ。
こうして同性に手を握られることなどあまりないのだろう、緊張した面持ちの女の子が、はい、と従順に答えた。

誰しも初めては緊張するものだ、こんな仕事なら尚更。
うぶな表情をした彼女が、これから仕事の回数を重ねることによってどんな顔を見せていくのだろう。
清純そうな路線のまま慣れていくのだろうか、それともあるいは擦れて気怠げな笑い方をする女になっていくのだろうか。
こればかりは、仕事を続けてみないと分からない。

この子はどのくらいもつかな、とまた考えた。
お店に数年在籍しているわたしが新人教育に関わるようになって、個人の体感だけれど、大抵、五人担当して三人は辞める。
悲しいかな、誰にだって得意不得意、向き不向きはある。

「ねえ、陽子(ようこ)ちゃん」
「……っ、は、はい!」

一拍遅れて慌てて返事をした「陽子ちゃん」に苦笑する。
カラーコンタクトを入れている、彼女の大きなこげ茶の瞳には、戸惑いの色が浮かんでいた。
こんなに感情が顔に表れて大丈夫だろうか、この子。
素直なことは美徳だ、けれどそれはここでは役に立たない。
素直で従順に見せる、思わせることは必要だけれど。

「気を付けて。陽子ちゃんの本名は一部のスタッフさんしか知らないの。まだ慣れないかもしれないけど、わたしも女の子たちもここではみんな源氏名でしか呼ばれないから、陽子って呼ばれたらちゃんとしっかり反応できるようになっておこうね。陽子ちゃん」
「は、はい、トオルさん」
「うん。ここではあなたは陽子ちゃん。わたしはトオル。……あ、わたしはお客様の前では、自分のことをトオルって言っているの。いまわたしはトオルなんだって自分に言い聞かせるためでもあるし、それに、そっちの方がお客様に自分の名前を覚えてもらいやすくなるから。名前を覚えてもらえないと、指名されにくくなっちゃうしね。……さっきも言ったけど、陽子ちゃんの性格だとか設定だとか、しっかり作っておこうね」
「設定ですか?」
「そう。わたしは性格だけじゃなくて、誕生日や好きな食べ物も自分とは違うものを決めているよ。……そうそう、もし年齢も変えるなら、生まれた年度と干支も調べて把握しておくと、お客さんに聞かれたときにスムーズに受け答え出来るからね。……面倒だったらそのままでも良いけど」

そういえば芸能人の沖野ヨーコと同じ名前だね、と笑う。
全く覚えられない名前より、誰もが聞いたことのある耳馴染みの良い名前の方が印象に強く残るものだ。

「陽子って、スタッフさんが決めたくれたの?」
「そうです……偽名とか、考えるの初めてで……」
「ふふ、あのヨーコちゃんと同名かあ。人気が出るかもよ、あやかれたら良いね」

なんて笑いながら、ロッカーがずらりと並ぶ部屋から出た。
お客さんからの電話が鳴るまで女の子たちが待機している部屋を通りすぎながら、小さな声で説明していく。
ずらりとソファとデスクが並んだ待機場では、いまは女の子たちが四人座っていた。
スマートフォンをいじっている子、化粧をなおしている子、髪をコテで巻いている子、本を読んでいる子。
……この感じだと、今日は暇かもしれない。
この新人教育のあと、わたしも出勤なんだけれど。

「待機部屋では、出来るだけうるさくしないようにね。小声でお話するくらいなら構わないけど、なにか作業をしている子もいるし、迷惑にならないように気を付けて。……煙草は喫煙室で。お客さんは女の子は吸わない方が良いってひとが多いから、あんまりオススメはしないけど」

わたしの言葉ひとつひとつに真面目に頷きながら聞いている陽子ちゃんに、思わず苦笑する。
良い子だ、どうかそのままでいてほしい。
けれど彼女にその「素直さ」を求め続けるのはきっと愚かなこと。

「……お店のことはこれくらいかな。それじゃあ具体的なプレイの説明をするから、ホテルに移動しよっか」
「……は、はい」
「ふふ、そんなに緊張しないで。まあ、女の子とラブホテルに入るのは初めてだろうし、戸惑っちゃうよねえ……。大丈夫、わたしが陽子ちゃんに触ったり、なにかしたりするわけじゃないから」

苦笑しながら、彼女を連れて待機部屋を出る。
ふいに視線を感じて振り向けば、わたしが「陽子ちゃん」と呼びながら退出する瞬間、ひとりの女の子がこちらへ目を向けていた。
眼差しの主は、先程まで静かに読書していた女の子。
カバーをかけた文庫本からちらりと目だけを上げ、丁寧にマスカラを塗られ重たげな睫毛を揺らしている。
しかしすぐに興味をなくしたように、ふい、と視線は逸らされた。

意図せず不覚にも、といったその行動に、ああ、と腑に落ちる心地がした。
もしかしたら、あの子の――「楓さん」だったっけ、彼女の本名が「ようこ」なのかもしれない。
名前というものは不思議なもので、どれだけ離れていても耳に入ってきてしまうものだ。
それが自分の本来のものであれば、尚のこと。

そんなことを考えながら、バタン、と待機部屋のドアを閉めた。
まあ、彼女の名前がなんだろうと、どうでも良い。
知ったところでなんだというのだろう、どうせ名前なんて、個人を識別するための記号でしかない。

「トオルさん?」
「……ああ、ごめんね。送迎のドライバーさんを店下まで回してもらうから、ちょっと待っててね」

はい、と明るい栗色の髪を揺らして、陽子ちゃんが頷いた。
男性スタッフにホテルへ向かうことを伝え、ホテルの部屋の代金を受け取る。

「トオルさん、陽子さんの指導、よろしくお願いしますね」
「はあい。陽子ちゃんとっても良い子だから、はやく一緒にお仕事できるのが楽しみです」

嬉しそうに見えるよう意識して目を細めながら返事をすれば、男性スタッフも同じく微笑んだ。
優しそうなその笑顔の下で、内心、なにを考えているかなんて分かりやしない。
ちゃんと仕事を仕込めよ、だとか、また辞めるような育て方するんじゃないぞ、だとか。
そんなことを思っていても不思議じゃない。

けれど円滑な人間関係を築くためには、ひとは嘘もつくし、裏切りもする。
笑みを浮かべることなんて、泣くことよりもずっと容易だ。

「陽子ちゃん、お待たせ。じゃあ行こうか」
「はい、トオルさん」

必要なのは、仕事をする上での人格、キャラクターだ。
ここでわたしがみょうじなまえではなく、「トオル」であるように。
どうせみんなみんな、架空の名前だ。
この仕事は欺瞞しかない。

「トオル」が存在しないのと同じように。


(2018.05.10)
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