深い森は月明かりを通さず、こんもりとした木々に囲まれた古ぼけた屋敷は明るい色の外壁のせいだろうか、木立のなか妙にほんのりと光を帯びて浮き上がって見えた。
人家の群れから外れた郊外の森に生えるようにして建つ洋館は三階建てで、四隅には小さな尖塔、そのうちひとつは鐘楼を兼ねているのか、これまた古ぼけた鐘が吊り下げられていた。

小さな古城のような外観の屋敷。
そのある一室、大きく取られたフランス窓が印象的なパーラーからは――葬儀屋が遺体を安置するためのパーラーではなく、言葉通りの――重暗い森がよく見えた。
堅く閉ざされた窓のおかげで外の物音はひそりとも入り込んできやしないが、さやさやと囁き交わすような、薄布を幾重にも折り込み引きずったような、微かな物音が満ちているかのよう。
なんとも不気味な光景に目を引きもどすと、手前にはチューリップやクロッカス、ラッパスイセンなどの球根が庭師によって植えられており、春になれば大層美しい庭になるだろうと思われた。
残念ながらいまはただ寒々しいばかり。
そもそも冬の間はこの小部屋を使わないのだろう、整然と管理されてはいるものの全体的に埃っぽい印象を受けた。

手ずから削ったランプ・オブ・アイスで飲むウイスキーを好んだり、煙草に火を点けるのにマッチを用いたりと、少なからず懐古主義的きらいがあるとライは自覚していたが、それにしたってこのマナー・ハウスにはいかんせん食傷気味だった。
まるで百年かそこら年月が退行してしまったかのような錯覚を、否応がなしに引き起こすほど重苦しい雰囲気は現代にも尚健在。
古い屋敷や城は、彼の生まれ故郷でもあるこの国ではさして珍しくもないが、ここまで堅苦しく厳格に古めかしさを誇示しているのは、いささか神経質すぎるのではないか。
暖かな室内は、部屋相応にどっしりした古めかしい家具が置かれている。
冴え冴えとした月明かりもあまり届かず、部屋の隅は重たく暗く、なんとなく落ち着かない、胸の悪くなるような心持ちにさせた。
アンティークの内装や調度品は勿論のこと、あたかも充満する空気までも、その頃のものを保持していますと喧伝されても信じてしまいそうな雰囲気だった。

辟易せざるをえない時代錯誤の古屋敷は、しかしその実、エントランスホールでの顔認証システムにはじまり、生体認証や電子ロックなど、SF小説顔負けのサイバネティックスな技術が満載だった。
張り巡らされた暗渠(あんきょ)まで完全にコンピュータで管理され、要塞と呼ぶに相応しい様相を呈している。
客が入ることを想定していなかっただろうこの堅苦しい小部屋も、空調や湿度は快適にコントロールされていた。
時節柄外気はひどく冷たかったが、この大きなフランス窓をもってしても忍び込んでは来られない。
加えて最も近い住居までは少なくとも二マイルは離れているとあって、後ろ暗い事案を運ぶには打ってつけ、秘密の会合には願ってもいない物件だった。
見取り図が正しければ三階廊下の突き当たりにあるはずのマスター・コントロール室では、このパーラーに男女二名がしけこんでいるのも今頃お見通しなのだろう、あまり長居はしたくなかった。

この屋敷のことも知らないその程度の人物なのか、それとも承知した上で目先の欲を優先する愚か者なのか、あるいは。

「ねえ、」

つい、と白く細い指が甘ったれたように伸ばされる。
女の着けた大ぶりなネックレスが、月明かりを反射して射すように光った。

こんな何が潜んでいるのか分かりやしない、叩けばいろんな意味で埃だらけの古臭い屋敷に、ライが息の詰まるスリーピース・スーツなんぞ着込んでもぐり込んだのは、ひとえに組織からコードネームを与えられたばかりの自分へ下された命令に従わざるをえなかったから。
そうでなければ誰が好き好んでこんな面倒な場に単独で潜入するものか。

第一段階、この悪趣味な洋館へ客として潜入する。
これは問題なくクリア出来た。
第二段階、ターゲットの女から興味を持たれる、これもあっけないほど容易に果たせた。
彼にとってさしたる障壁はなかった。
――しかしながら問題は、持たれすぎた興味をいかに適度に削ぐかという点。
女は間取りを把握しているのだろうか、笑いながらなんの躊躇いもなくこの部屋へライを引っ張り込んだ。
微かな月明かりが照らす薄暗い部屋、遠くのサルーンからさざ波のように途切れ途切れ話し声や笑い声が漏れ聞こえてくるのが恨めしい。
確かにこの女性に近付き、信用を得ろとのなんとも漠然とした言葉をラットゥンアップルの魔女から言い付かってはいたものの、果たしてここまで付き合ってやる必要はあっただろうか。

こぼれそうになる溜め息を殺しながら、いかにしてさっさとこの局面から逃れるかについて考えていた男は、次の瞬間、その優秀な頭脳を、それまでの意識の散漫さや億劫さなど初めから存在していなかったかのように緊張させた。
目元の険を深めた男に、女は甘ったれた微笑を親しみやすくとろかせた。

「つれないところも魅力的。聞いていたよりもずっと素敵な男性だったのね――ねえ、ライ?」

あからさまな反応を見せるような、無様な真似はしなかった。
目を見開いたり、慌てて振り向いたりといったような。
しかし、彼の纏う空気は瞬間的に急変した。

触れれば破裂するするようなピリピリとした空気が古めかしい部屋に満ちたことを感じて、またたきすら躊躇われるような沈黙を物ともせず、女は軽やかに笑い声をこぼした。
彼が組織の一員として知っていて、敢えて。
この女は分かっていてこんな悪趣味な誘いをかけたというのか。

「ご存知だと良いけれど。あなたとは多少は縁があるの」
「……ハ、流石、かのトゥ・デイ。男に媚びを売るのが上手い」

今度こそ嫌悪を隠さず眉をひそめ、しかし大仰な動作は謹んで、ライは吐き出すように呟いた。
トゥ・デイと呼ばれた女はひっそりと笑んでその呼び名を肯定した。

「媚び? そんなもの、後生大事に取っておけって言うの?」

薄く微笑んだまま、こてりと小首を傾げる。
その様はふいを突かれる程度にはあどけなく、裏表など考えるこちらが愚かではないかとよぎるほどに無垢だった。
ほんの数瞬、まばたきよりもずっと短い間を見過ごすことなく、女は、つう、と彼に身を寄せ胸元へ手を沿えた。

「そんなくだらないもの、いくらでも売ってあげてよ、ダーリン」

ウイスキー・トディはその名の通り、ウイスキーからつくられる。
彼がかの名を得てから日はまだ浅く、外部の人間がそれを知っている可能性は極めて低い。
ならば組織内の人間で、未だ顔を合わせたことはない、そして「多少は縁のある」、「女」となると、名前だけ耳にしたことのある「トディ」しか該当しなかった。
果たしてその推察は正しく、トディはやわらかく微笑んだ。

――とろけるような、と一言で表すには到底足りない。
雄に「欲しい」と本能的に訴えかける魔力のようなものを持つ微笑。
いっそ大きく開いて無防備に肌を晒す背へ、腕を回してがむしゃらに抱きすくめてしまいたくなる。
初々しい清らかささえ覚える容貌、しかしライを見上げる眼差しは甘ったるい倦怠感を帯びていて、清楚さと嫣然、その落差で女を捉えどころなく感じさせていた。

「安心して。この部屋は盗聴や盗撮の心配はないから。……ベルモットに聞いていない? この件、ライ、あなたと当たれって指示されたけど……」

ターゲットはこの男性、とタブレット端末を差し出される。
古めかしい重厚な小部屋と液晶画面の明滅はどうにもちぐはぐだったが、それが手にするのが彼女であれば妙に様になっていた。
いやそんなことよりも、体にぴったりと沿ってラインを露わにしているジョーゼットのイブニングドレス、この衣裳のどこからタブレットを取り出したのかとよぎった――が、考えるだけ野暮というもの、口にすることはなかった。

明度を絞っても尚目映い画面に映る男は、ライも知り及んでいた。
今晩この屋敷で密やかに、けれど盛大にパーティーを開催している主催の男。
エントランスホールで慇懃に来賓との挨拶をこなしていたターゲットは、丁寧な所作と儀礼的な微笑、しかし目は鋭さを隠さず狡猾そうな印象を抱かせた。
大変な資産家で、確か欧州銀行の新たな出資者として名が挙がっていたように聞き及んでいる――、この要塞じみた屋敷といい、俄然キナ臭い香りがいや増す。
ライが見たところ老獪な目端に好色そうな目移りのかげりを見せていて、あの男に近付くには、なるほど男ひとりよりは女連れの方が何かと都合が良いだろう。

あの女狐、と口汚くこぼすのを、すんでのところで堪えた。
なにがターゲットだ。
はじめからこのトディとツーマンセルでやらせる算段だったのだろう。
ならばなぜわざわざこの女がターゲットだと嘯いたのか。
今日ここへ自分を寄越した気紛れなプラチナブロンドの美女がどこかで笑っているのを想像し、辟易した。

「ダーリン、いまわたしと一緒にいるのに、誰か……他の女のひとのことを考えているの?」

先程詰めた距離はこのためか。
常ならばあり得ない失態。
ライは愕然とした。
気付けば、オーケストラ指揮者の振るタクトのように白く細い指が、彼のジャケットの下の背に回っていた。
上着とウェストコートのボタンは全て外され、夜のような光沢を帯びた美しいスーツの下、白いシャツを露わにしていた。

こちらに気取られないよう、いつの間にか上着とウェストコートの固いボタンを外した手腕に閉口するしかない。
なによりも、触れられて気付くことが出来なかったとは。
ライは己れの失態に舌を打った。

由緒正しいマナー・ハウスにごく自然に溶け込み、果ては主人とも錯覚させる美しい正装姿の雄は中途半端に乱され、真正面から女の侵入を許していた。
漂うのはだらしなさではなく、男の凄絶な色香。
秀でた額、意志の強そうな眉、高い鼻梁、伏し目がちで白い頬に影を落とす繊細な睫毛、――白皙の美貌を惜しげもなく晒し、影を濃くする眼窩と頬骨は総毛立つほど悩ましげ。
噎せ返るような雄の芳香に気が遠くなるようだった。
夜を織り込んだ螺鈿(らでん)のような布の下、鍛えられた体躯のラインを細い指がうっとりとなぞる。

「スーツは現代男性の鎧なんてよく言ったものね。堅牢な檻は窮屈じゃあなくて?」
「……ラッピングの包み紙を丁寧に開けられない性質(たち)か?」
「そうなの。気を付けてはいるんだけど、いつも破いちゃって」

この立派な包装に見合うプレゼント? と恍惚と囁いた女は、ゆるゆると背を撫でた。
羽毛の先でそっとくすぐるような指先は絶妙な力加減で、まるでこちらがもどかしくなってくるようだった。
いっそのこと、しっかりと抱き着くなり、爪を立てて引っ掻いてしまうなりしてほしかった。
そうでなければもどかしさのあまり、未だきつく締められた首元のタイを自らぐしゃぐしゃに乱し、そこの皮張りのチェスターフィールドソファへ上着と共に放り投げてしまいそうだったからだ。
自傷趣味など毛頭ありはしなかったが、痛覚を抱かなければ耐えられないほど心臓が逸(はや)る。
タイばかりのせいではない息苦しさに、唇を湿らせるようにこっそり舌なめずりをする。
気が違ってしまいそうだ。

背筋をするするとなぞる、シャツ越しに感じる細い指先。
ライが握ればあっけなく、それこそ赤子の手の捻るより容易く折れ砕けるだろう。
ぞわりと這い上がる愉悦に、知らず知らず、僅かに指先が痙攣した。
神経質そうな白い指先の微かなふるえを見て取った彼女は、幸福そうに――いっそ清らかに微笑んだ。

かのラットゥンアップルの魔女が美貌と妖艶さで男を惑わすのなら、この女はその無垢さ純粋さで他人の懐へ入り込んでしまう手腕を持つらしかった。
――そう、無垢などと、決して言える性根ではない。
ライはこのほんの数十分のやりとりで痛い程に理解していた。

「それじゃあ、ねえ、行きましょう。エスコートは期待しても良い?」
「パートナーの男はどうした」
「ええ? だってどう見たってあなたの方がずっと素敵だもの。殿方が女性を着飾らせて侍らせるのがお好きなように、淑女だって魅力的な男性に手を引かれたいと胸を高鳴らせているの」
「淑女」
「ね?」

ドレスコードのある夜会において女性がひとりだけで、あるいは男性がひとりだけで出席しようものなら多少なりとも浮いてしまう。
後ろ暗い密会の開かれているだろうこの屋敷では、そう珍しいことでもないかもしれないが。

ね、と首を傾げて、女が微笑んでいる。
楚々とした風貌に似合う、繊細かつ控えめな微笑。
敢えてつくられたものと分かっていても、思わず手を差し伸べて庇護したくなる愚かな衝動に取り付かれそうになるほどには愛らしい。
なるほどレディと呼ぶに相応しく、しかし彼は既にこの女のぬめる血のような顔を知ってしまった。

「……背後からあんたのペアに刺されんよう気を付けよう」
「かの優秀なスナイパーさんは、接近戦はお嫌い?」
「服が汚れる」
「あら、そんなこと気にするタイプには見えないけれど」
「あの魔女にどんな嫌味を言われるか」
「やだ、もしかしてそれ、ベルモットが用意したの?」

それこそ気にするような女でもあるまい、と目端を眇めると、トディは心外だと言わんばかりに唇を尖らせた。
――だって、他の女が選んだ服でリードされるなんて、胸が痛んじゃう。
物憂げに眉をひそめた女は、心からそう思っているのだと、そっと溜め息を薄く吐くポーズを取って見せた。
わざとらしさがちらりと覗く様はまるで幼な子が拗ねて見せるのに似ていて、やはりどうにも、裏を探る企みや隙あらば尻尾を捕まえたいといった打算的な感情を持ちづらくさせた。

「ライ、ひとつお願いがあるの」

なにか良いことを思い付いたと言わんばかりに、夜を思わせる黒い瞳がまたたいた。

「このお仕事が終わったら、わたしからあなたにスーツを贈らせて。きっともっと似合うものを見繕うから」

勿論、いまのあなたも本当に素敵よ、とやわらかく微笑んだ女は、良いでしょう? と健気に見上げてきた。
ライは感傷にも似た気持ちで、好きにしろ、と静かに呟いた。

「着飾って見せびらかしたがるのは男なんだろう」
「丁寧にラッピングされたプレゼントは独り占めしたいタイプなの」

男性にリードしてもらうことを前提としたスティレット・ヒールの先端はもはや凶器のような鋭利さで、しかし彼女は細い爪先とかかと、分厚くやわらかな絨毯をものともせず優雅に彼の体から離れた。
距離を僅かに取ったことによって、失った女の体温をまざまざと感じる。
気をしっかり持っていなければ、一、二歩で容易に詰められる距離のせいでついふらふらと寄って行ってしまいそうだった。
権謀術数、悪巧みが渦巻いているだろう中枢へ呑まれようとしているには清純に微笑み、しかし男をひざまずかせて口付けられることに慣れた動作で手が伸ばされる。

時代錯誤の古屋敷に憑りつく亡霊のように立つ女。
ジョーゼットのイブニングドレスは暗い緑色で、大きなフランス窓越しに見える深い森とふいに重なって見えた。
ともすればドレスと後ろの森の境目を失いそうになり、まばたきを繰り返す。
この屋敷のように木立のなか妙にほんのりと光を帯びて浮き上がるかのような姿は、まるで現実離れして美しい。

「あなたの緑の瞳もあの森のようよ」

目線や仕草でなにを考えていたのか気付いたのだろう、深い森を着た女が呟いた。
良すぎる察しに肩をすくめる。

「……あんたの瞳はあの夜みたいだな」

まあ、と彼女は黒い瞳を潤ませて、それはそれは嬉しそうに微笑んだ。
浮かぶ笑みはやはりどこまでも純真であどけない。

「あなたの長い髪と同じね、ダーリン」

見下ろせば、いつの間にか、外れていたはずのボタンが元通り全て――勿論、ウェストコートの一番下を除いて――閉じられていた。
木立から漏れる月明かりを受け、夜を織り込んだ螺鈿のように光る上等なスーツは、再び隙なく完璧な仕上がりを見せている。
二度目の失態。
一度ならず二度までも触れられて気付けないとは、そこまで自分は愚鈍だったのかと怖気がはしるようだった。
まるで魔術でも使うのかと見紛うばかりの手腕に、腹奥だけで悪態を吐く。
美しい曲線を損なわないよう、だぶつきを限りなく減らす目的で、正装用のスリーピースのボタンとボタンホールはひどく固くできている。
じっと伸ばされた白魚のようなたおやかな手に、ライは溜め息を今度こそ殺さなかった。

今夜のトゥ・デイに腕を差し出す。
女は淑やかに、か弱そうな手をそっと添えた。

死人の目のようなぼやけた夜空は月ばかり明るく、深い森はひたひたと暗く、精緻な木彫り細工の施されたドアの向こう、いまから彼らが制圧するだろうサルーンからは秘めやかな囁き声がさざ波のように響いている。


(2017.10.21)
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