ふと目が覚めた。
一瞬、自分がどこにいるか分からなくて、深く眠りに沈み込んでいた頭が混乱した。

「起きたか」
「ん……あれ、れぇにいさん……?」

零兄さんの殺風景な寝室、広いベッドに、上半身裸の零兄さんが隣で横になっていた。
わたしは兄の白いシャツだけを身に着けていて、あからさまに事の後だと示している状況があまりにも生々しく、顔が自然と赤らんでしまう。

いつもは隠されている深い影をつくる鎖骨のくぼみだとか、逞しい褐色の胸板だとか、……そういうことにひとつひとつ気付いては、胸が痛いほどにどきどきと高鳴る。
顔が火照ってくるのを自覚しつつ、寝乱れた髪を整えるように頭を撫でる兄の手をうっとりと甘受した。
兄さんに抱き締められながらの目覚めなんて、こんなに幸せなことがあるだろうか。

「体は大丈夫か?」
「うん……」

いつもは生真面目できりっとした表情ばかりの零兄さんが、心配そうに眉を垂らしている。
安心させたくて、そっと笑った。
その指先はいつも通りやっぱりとても優しくて、昨夜の目も眩むような鮮烈な快楽ばかりではない、とろけるような幸福な心地がした。

仕事柄、不規則な生活を送っている零兄さんは、休眠を取れるときにしっかり眠るため、寝室のカーテンを遮光性の高いものにしている。
分厚いカーテン越しでは、太陽がどれだけ昇っているのかもよく分からなかった。
いま何時だろう、と体を動かそうとすると、兄さんがそれを留めるようにゆるく抱き締めてきた。

「なまえ、まだ眠ってても構わないから」

声色はいつものように穏やかで、惜しげもなく与えられる体温に、否応がなしに眠気を誘われる。
ああ、安心する。
小さな頃からよく知っている、兄さんの香りと体温だ。

「うん……」
「おやすみ、なまえ」

目を閉じたまま、ん、と吐息だけで返事をする。
ゆるやかに沈んでいく意識のなか、頭を撫でる手は止めぬまま、「無理させたかな」と零兄さんが低く苦笑する声が聞こえた。


・・・



「……ん、あれ……?」

また目が覚めると、自分の部屋、自分のベッドで寝ていた。
服もちゃんと自分のパジャマを着ている。
どうやら零兄さんが運んでくれたらしい。
確かにあのまま零兄さんの寝室で眠っていたら、透兄さんやバーボンが驚いてしまうかもしれないな、と納得した。
窓からは暖かな陽光が射し込んできて、昨夜の雷雨が嘘のようだった。

時計を見上げればとっくにお昼近くの時間。
どうしよう、学校や友人たちに連絡もせず休んでしまった。
午後の授業は出られるだろうか……と考えながらベッドから降りようとしたところで、――ずきりと下腹部が痛んだ。

「っあ……」

……そうだ、わたし、昨日零兄さんと……したんだ。
顔がかあっと熱くなる。
恥ずかしくて、……でも、零兄さんのいつもとは違う表情や声を聞くことが出来てどうしようもなく嬉しくて、やっぱり後悔の念はちっとも湧いてこなかった。
こんな罪深いわたしを、恥知らずだと零兄さんは思うだろうか、けれど「こんな気持ちになるのは、なまえ、お前だけだよ」と乱れた呼吸の合間、何度も呼ばれたわたし自身の名前すら愛しく感じられる。

はあ、と息を吐く。
火照る頬を押さえ、小さく「にいさん、」と囁いた。
ぶわりと胸に沸き起こる感情は、はやりどこまでも幸福で、恍惚に目が潤んだ。




下腹部にまだ何か挟まったような違和感を抱きながらなんとかパジャマのままキッチンへ向かうと、そこでは透兄さんがコーヒーを淹れているところだった。

「あれ……透兄さん、おはよう」
「おはよう、寝ぼすけ。もうお昼だけどね」

お腹空いてる? といつものようににこにこと笑う透兄さんに、うん、と頷いた。
そういえば、昨日の夜も結局食べずじまいだった。
思い出したように、ぐう、とお腹が鳴る。

「ふふ、座ってて。すぐに準備するから」
「はあい。兄さん、ありがとう」

透兄さんの料理の腕は兄弟随一で、手伝うのをあっさり辞退したわたしは、大人しくテーブルに着いた。
すぐに目の前に並べられた料理と、――透兄さん。
兄は真正面のイスに腰掛け、わたしが食べる様子をにこにこと眺めていた。

「……兄さん。そんなに見られると、食べにくいよ……」
「そう? なまえが食べているのを見るのが楽しいだけだよ」
「楽しいのは透兄さんだけです!」

苦笑しながら、コーヒーに手を伸ばす。
ちゃんと、さりげなく振る舞えているだろうか。
マグカップで口元を隠しながら、目を伏せる。
いつも通りってどうやるんだったっけ。
――なんとなく、気恥ずかしかった。
零兄さんと同じ顔をした透兄さんを前にして、頬が熱を持とうとするのを堪える。

いままで幾度となく繰り返してきた、戯れのような触れ合いの「先」を、昨夜わたしは知ってしまった。
――今日のわたしは、昨日までのわたしとは、違うのだ。

「……なまえ?」
「あ、……なあに、透兄さん」
「どうかした? 随分とぼんやりしているみたいだから」

普段通りにしているつもりだけれど、やっぱりどうしてもそわそわしてしまっていたらしい。
透兄さんが首を傾げた。
日の光を受けきらきら輝く髪がさらりと揺れる。
兄弟たちと全く同じそれは、わたしがいくら焦がれても手に入らない、きれいな蜂蜜色。

「零が今日は学校休ませるって電話してたけど……具合でも悪い?」
「ううん、大丈夫だよ」

そっか、零兄さん、連絡してくれたんだ。
帰ってきたら、ありがとうと言わなくては。
……ちゃんと顔を合わせることが出来るか、分からないけれど。
今朝は寝ぼけていて緊張せず会話できたものの、明るいところでまた兄と面と向かったら、気恥ずかしさのあまり上手く話すことなんて出来ないかもしれなかった。

またコーヒーを飲むふりをして口元を隠しながら、兄の端麗な顔をうっとりと見やる。

「ごちそうさまでした」
「美味しかった?」
「うん!」

食事を終え手を合わせると、待ってましたとばかりに透兄さんに引き寄せられた。
兄弟みな同じ、ジンジャーやシナモン、たっぷりのスパイスを加えたミルクティーを思わせる褐色の手が、壊れ物を扱うようにわたしの腰を抱く。

「兄さん?」
「そういえば、朝の挨拶をしてなかったなって」

ね、と小さく笑った兄さんに抱き締められ、額へ唇が降ってくる。
いつものようにゆるゆると背に腕を回すと、唇はわたしのそれと重なった。

「ん、ん……ふ、ぁ、と、とおるにいさん……」
「なまえは今日も可愛いね」

愛してるよ、と甘ったるく囁かれ、痺れのようなものがぞくぞくっと背中を這い上がった。
思わず、恥ずかしい声が小さく漏れ出てしまう。
それは昨夜、初めて零兄さんに教えてもらった、快楽の名残。

透兄さんの腕のなかで、零兄さんのことを思い出してしまい、一瞬、躊躇いが生じた。
けれど次いで耳元や首筋にもキスを落とされ、すぐに心地良さで目が潤む。

ずっともどかしい思いで苦しめられていた渇望を、たった一晩で満たされてしまった昨夜。
あの経験で与えられた悦楽や陶酔にはどうしようもなく抗いがたく、浅ましいことに、わたしは無意識に透兄さんに身体全体を擦り寄せてしまった。

「は、ぁん……とおるにいさん……」
「なまえ……?」

―――その瞬間、優しくわたしの首筋を唇でなぞっていた透兄さんが、ぎくりと体を強張らせた。
ゼロ距離で触れ合っていたわたしには、その緊張がはっきりと伝わってしまう。

「ぁ、と、透兄さん……?」
「なまえ」

ぴくっと体がふるえた。
それは快感のせいではなかった。
硬い声音で名前を呼ばれて、思わず息を飲む。

体を離しわたしを見下ろす透兄さんの天色の瞳が、冴え冴えと冷えていた。
世界で一番きれいな宝石のような青い輝き。
いつもとろけるようにやわらかく向けられるそれが、まるでわたしを責め突き放すような冷たい眼差しとなって刺さっていた。

透兄さんにそうやって見つめられたことなんていままで一度たりともなかったわたしは、びくっと肩をふるわせて――、違う、初めてじゃない。
指先がふるえた。
めまぐるしく想起する。
前にもこんなことがあった、確か、あれは――、

「に、兄さん、」
「なまえ。昨日なにがあったの?」
「なにが、って」

あれはいつだったっけ……ああ、そうだ、零兄さんと初めてキスをした、あの日。
額や頬へ親愛の軽いキスは、幼い頃から兄弟たちと数えきれないほどしていたけれど、あの日、初めて零兄さんがわたしの唇へキスをした、あのときの。
それを知ったときの透兄さんと、同じ顔を、目をしていた。

「……ど、どうしたの、にいさん」
「どうしたのって、なまえがそれを僕に聞くんだ?」

わたしの声がみっともないほどふるえている。
対して、兄の声は地を這うように低く揺れることもなく鋭く響く。
空のように明るいはずの天色の瞳が、煮え立つように暗くぐらぐらと揺れていた。

透兄さんが笑った。
兄弟のなかで、一番朗らかに笑うのは昔から透兄さんだった。
けれど、いまの兄は、

「なまえ」
「ひぅっ……!」

総毛だつような笑みのまま、がぶりと首筋に噛み付かれる。
立てられた歯の力は強く、鋭い痛みがはしった。
もしかしたら血が滲んでいるかもしれない。

「い、いたっ……やっ、やめて、透にいさんっ……!」
「零が良くて僕がだめってことはないでしょう?」

ね? と笑って小首を傾げる仕草はいつものもの。
けれど、やはりその瞳は触れれば指が裂けてしまいそうなほど冷たくて、ぞわりと背筋がふるえた。

いつもは蝶の羽、りんぷんを壊さないように、薄いグラスを扱うように、優しい透兄さんの手が、……まるでわたしを無視するみたいに身体を這う。

恐怖。
そのときわたしが感じているのはまぎれもなく、兄が怖い、という恐怖だった。
透兄さんに対して、生まれて初めて抱く感情。
けれど兄の大きな手に触れられ、わたしは浅ましくも息が上がっていく。

「透兄さんっ、やっ、だめ……あっ」
「零につけられてるの、気付かなかった? ねえ……なまえ」

キスマーク、と耳元で囁かれ、ぐらりと熱に溺れそうになる。

「ほら、ここ。それに……ここも、はは、すごい量だね」

透兄さんが、首元や鎖骨あたりを指差しながら、徐々にわたしの服のボタンを外していく。
ゆっくりと、まるでこちらが焦らされているかのような気持ちになってくるほど、丁寧に。

静かな部屋に、ボタンを外す衣擦れの音だけが響く。
その冷えた青い目は、逃げることも、抵抗することも許さないとばかりに真っ直ぐひたりとわたしを見つめ続けていた。
もどかしいほどの時間をかけてゆっくりと暴かれていく肌には、透兄さんの言う通り、零兄さんに残された痕がたくさん色付いていた。

とうとうパジャマのボタン全てが外された。
起きたばかりで下着も着けていなかった胸元に、兄の視線が突き刺さる。
昨日も感じた、その眼差し――まるで視線で触れられ、舐められ、犯されているような、感覚。
ぞくぞくっと肌が粟立つ。
あのときは、わたしが零兄さんの手を取って触れさせたのだけれど、いまは。

「なあ、零はどうやってなまえを抱いたの?」
「ひぅっ……あ、ああっ! そ、そんな、透にいさんっ、」
「教えてくれないのか、じゃあ僕の好きなように触れても良いね?」

晒された胸元に、兄の舌が這う。
ちゅ、ちゅ、と音を立てて口付けられていると、ぢゅ、と一際強く乳輪の際あたりを強く吸われた。

「ひゃあんっ!」
「可愛い、なまえ……」

恍惚と呟きながら、透兄さんがわたしの身体へたくさんのキスを降らせていく。
つきり、つきり、と小さな痛みがそれに付随していく。
どうやら零兄さんが付けた痕を消すように、その上から噛み付き、舐めたり吸ったりしているようだった。

膝から力が抜けていくような感覚に襲われる。
あ、あ、とふしだらな声が止められない。
堪らない。

どうしよう。
どうしても気持ちが良くて、わたしは、

「に、にいさんっ」
「なあに、なまえ」

許して、と呟いた。
わたしが知っている誰よりも端麗な顔をした兄は、それはそれはやわらかく微笑んだ。
こんな状況なのに、わたしは馬鹿みたいにその微笑に見惚れる。
――どうしてわたしの兄は、こんなにきれいなんだろう。

「なにを許せと言うのか分からないな」

ふいに抱き上げられ、咄嗟に首へ腕を回して縋り付く。
しっかりとわたしを抱きかかえたたまま、兄が歩を進める。
心臓が、どくりどくりと大きく高鳴った。

向かった先は、透兄さんの部屋。


(2018.05.19)
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