「ねえねえ、どうしてなまえちゃんも誘うの?」
「だよね、わたし、なまえちゃんと一緒なの、やだなあ」

小学生だっただろうか、あるいはもっと、小さい頃?
数人の子供たちが額を寄せてひそひそとおしゃべりに興じている。
幼い子たちが小さなまるい頬を寄せ合う様は愛らしい。
……会話の内容を聞かなければ、だが。
槍玉にあげられているのはわたしだというのに、わたし自身はその輪に入ることなんて出来ず、手をぎゅっと握り締めたまま立ちすくんでいる。
握ったてのひらはいまよりもずっと遙かに小さい。

「だってなまえちゃんもいたら……バーボンくんもぜったい一緒にくるでしょ?」

邪気なく爛漫に、けれど既に女の片鱗をちらつかせる笑み。
もう名前も覚えていない同級生が声を潜めて無垢に言う。
ずきずきと痛む胸を握り締めたこぶしで押さえながら俯いていると、――いつの間にかぐっと目線が上がっていた。
紺色のセーラー服のスカートがひるがえる。
目眩がした。

「ねえ、降谷さん。これから一緒にお弁当食べたり、教室移動したりしない? 降谷さん……ううん、なまえさんと、わたし、仲良くなりたいの」
「えっ……、えっと、わ、わたしで良ければ……」

学校で可愛いと評判のクラスメイトに直接そう言われて、大人しくひとりでいたわたしは簡単に舞い上がってしまった。
仲良くなりたい、だなんて。
……そんなこと、あるはずもないのに。
浮かれていたわたし自身に馬鹿じゃないのかと詰め寄ってなじってやりたい。
また知らぬ間に場面は変わっていたけれど、可愛い顔をした彼女はやっぱり目の前に立っていた。

「なまえ、お兄さんいるよね? 透さん、だったっけ……わたしね、前に偶然助けてもらってから、ずっと憧れてたの。それがまさか、親友のお兄さんだなんて。透さんに初めて会ったときは、……全然似てないから気付かなかった。ねえ、これって運命だと思わない?」

にっこり笑んだ彼女は、拒否を許さない眼光でわたしを射抜いた。

「親友なんだから、協力してくれるよね?」

気付けば周りはまたも変化していた。
ああ、これは高校の廊下だったっけ。

「三者面談で降谷さんのお兄さん、見た?」
「あっ、見た見た! 零さんっていうらしいよ」
「名前まで格好良いとか、ほんとずるいよねえ」
「そうそう、もうひとりお兄さんいるらしいけど、そっちも零さんにすごく似てるって聞いたよ」
「あんなに揃ってイケメンの兄弟っているんだあ」
「……でもさあ、降谷さん、双子らしいけど……」
「え、双子って本当だったの」
「……あれで?」
「あれでとか言ったらダメでしょ」
「でもさあ……」
「ねえ?」
「……なまえさんだけ、全然、似てないよね?」

気付けば再び周囲が変わっていた。
ここはどこだろう、辺りは暗くてよく見えない。
学校の年老いた先生、男女問わずたくさんの同級生、挨拶を交わす程度のご近所さん、……老若男女、様々な口が揃って並ぶ。
わたしの周りをぐるりと囲んだひとたちが、――たくさんの口が、中央で立ちすくむわたしをじっと見つめていた。

やめて、言わないで。
目を逸らしたいのに、耳を塞ぎたいのに。
結局、過去の繰り返しは順調に進み、いつものように止める手立てなどない。

並んだ口々が言った。

――「本当に、家族なの?」




「なまえ?」
「ひっ……! ぁ、れ、れいにいさん……?」

水底に沈んでいた体が突然浮上したようにばっと意識が戻って、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくて混乱した。
ぱちぱちとまばたきを繰り返す。
心配そうにわたしを覗き込むのは、朝と同じスーツを着た零兄さんだった。
窓の外は既に真っ暗で、雨の音が控えめに響いていた。
どうやらいつの間にか寝入ってしまっていたらしい。

「怖い夢でも見たのか?」

穏やかに微笑した零兄さんが、小さな子をあやすようにわたしの頭を撫でる。
慣れ親しんだ兄の優しい指先に髪をすかれ、ほっと息を吐いた。

……あの夢を見るのは初めてではなかった。
はじめの記憶、小学生くらいの頃からたまに見る夢。
あの頃からずっと、どうやらわたしはずっと家族に後ろ暗い思いを抱き続けているらしかった。
夢の内容について、誰にも言ったことはなかったけれど。

久しぶりにあんな夢を見てしまったのは、……夕方の出来事がきっかけかもしれない。
本格的に降り出した雨のなかびしょ濡れで帰宅し、シャワーを浴びたあと、リビングのソファでうたた寝してしまった。
まだ少しだけ髪の端が湿っている。

「ごめんね、兄さん、夜ご飯まだつくってない……」
「気にするな、それに日付けが変わるくらいにまた出ないといけないから」
「そう……」

零兄さんは家族のなかで一番不規則な生活を送っている。
忙しいお仕事の合間、例えばクリーニングしたシャツを交換しに、あるいはシャワーを浴びて仮眠を取るためだけに、……それを帰宅と呼ぶには少し寂しい。
今日もそうなんだ。
なんとなく心許なくて、唇を噛み締めた。
零兄さんを困らせることは言いたくない。
けれど、あんな夢を見た直後だからだろうか、いまは傍にいてほしかった。

わたしが情けない顔をしていたからか、零兄さんが小さく苦笑した。
そっと手を伸ばされる。
指の先で優しく頬を撫でられた。
優しい指先はまるでわたしが一等大切なものだと錯覚させるくらいに丁寧で、やわらかくて、愛しくて堪らないと訴えかけてくるみたいだ。

「なまえ、」

ぎ、と小さな音を立ててソファが沈む。
ソファに乗り上げた零兄さんが、わたしを隠すように覆いかぶさってきた。
お仕事が忙しいのかな、近付いた目元にちょっとだけ疲れが見えた。

兄のきれいな顔が下りてくる。
いつもと変わらない仕草、動作、触れる感触に、いつも通り顔を上げて受け入れようとしたところで、

「っ、や、」

その顔が透兄さんやバーボンのものと重なって見えて、――咄嗟に、腕で突っぱねてしまった。
ざあっと窓の外で雨の降る音が大きく響いた。

「なまえ?」

驚いて零兄さんが動きを止める。
目を丸くした兄さんが、怪訝そうにわたしの名前を呟いた。

わたしだって驚いていた。
零兄さんから触れられることをわたしが拒否したのは、記憶が正しければ未だかつて一度たりともない。

「……れ、零にいさん、あの、」
「なまえ、なにかあったのか」

少しキスを拒んだくらいのことで大袈裟な、なんて話ではない。
わたしが幼心に自我を確立するよりもずっと前、生まれたときからずっとわたしのことを見てくれてきた兄さんは、わたし自身よりもずっとわたしのことを熟知していた。
兄さん相手に隠し事なんて出来やしないと知ってはいたけれど、驚くほど簡単に、何か思い悩んでいることがあるのだと気取られてしまった。

真剣な目で兄さんが問いかけてくる。
ごまかしや逃げを許さないと言わんばかりの澄んだ天色の瞳が、ひた、とわたしを捕まえた。

「なまえ、」
「な、なんでもないの」

そう、なんでもない。
零兄さんの顔が透兄さんやバーボンに重なって見えたなんて、だから触れられるのを躊躇ってしまったなんて、――言えるわけがなかった。
それに、透兄さんやバーボンがきれいな女のひとと一緒にいたから、そんなものが零兄さんを拒む理由になんてならない。

「零兄さんには関係ないの、……わ、わたしがいけなくて」
「なまえ、」
「ごめんなさい、零兄さん、」

みっともなく声がふるえていることには気付いていた。
ソファに座るわたしに覆いかぶさっていた零兄さんから逃げるように、体をよじらせる。
けれどわたしの些細な逃亡なんて、兄にとってはあってないようなもの。
簡単に腕を取られた。

「なまえ、なんでも良い、なまえが思ってることを教えて」

兄さんには関係ないなんて、悲しいこと言わないでくれ。
困ったように眉を下げた零兄さんは、静かにそう呟いた。
いつも意思の強そうなきりりと整った眉が垂れている。
兄のそんな表情を見ると、どうしても胸がぎゅっと苦しくなる。
そんな顔をさせているのがわたしだと思うと、余計に。

な、と優しい声に促される。
いつの間にか俯いていたわたしの顔を無理に上げさせることはなく、根気よく付き合ってくれる零兄さんは相変わらず優しくわたしの黒髪をすいていた。

口を開いて、閉じる。
もう一度開いて、絞り出した声は自分のものじゃないみたいに揺れていた。

「……れ、れいにいさんも、いつか、……わたしを置いてっちゃうの」

ぐるぐると考えて、出てきた言葉は結局そんな子供染みたものだった。
迷子になった幼児でもあるまいし、もっと上手に自分の気持ちを伝えられるはずなのに。
みっともなく泣き出さないようにするだけで精一杯だった。

ざあざあと雨の音が遠くで聞こえる。
沈黙に耐えかねてやっぱり逃げたくなっていると、ふいに、ぐ、と抱き寄せられた。
拒否する暇もなく、唇を塞がれる。
冷えた体は兄の体温をすぐに受け入れ、幸せそうにふるえた。

「んっ、ぁ、れぇ、にいさん……」
「なまえ、俺はお前を置いてかないよ」

――その言葉がどれだけ幸福なものなのか、きっと、わたししか知らない。

さっき一度は拒否したくせに、いつの間にか腕を兄さんの背に回してぎゅうと縋り着いていた。
わたしを置いていかない、その言葉だけで、涙が出そうなほど嬉しかった。
繰り返される口付けは熱くて優しくて、髪を撫でる指先と同じくらいに、わたしのことを思っていると痛いほどに訴えかけていた。

「ん、ぅ、……に、にいさん」
「どうした、なまえ」
「わたしね……兄さんとこうするの、好き」

キスの合間、額をくっつけたまま、至近距離で見つめあう。
驚いたように見開かれた目は、世界で一番きれいな宝石みたいにきらきらと輝いていた。
零兄さんのきれいな天色の瞳には、わたしだけしか映っていなかった。

「は、ぁ、……れぇにいさん……」
「……なまえ、あんまりそんな顔で見ないでくれ」
「そんな、かお……?」
「……堪えようとする努力が駄目になる」

兄の天色の瞳がもどかしそうにまたたいた。

「努力、って……」
「ああ、……これでも、お前にもっと触れたいのを我慢してるんだよ」

こんなことしておいて信じられないかもしれないけど、と困ったように零兄さんが苦笑する。
もどかしそうな青い輝きに、衝動のままに動くのを耐えるかのような苦々しい光を見付けた。
苦しそうなその目を見て、雷に打たれるような衝撃がはしった。
もしかして、と愚かなほど甘ったるい希望が胸に湧く。

……胸の奥でひっそり考え続けていたことを知られてしまったら、軽蔑されてしまうかもしれないと、ずっと思っていた。
いいや、それどころか、もう二度と兄と一緒にいられなくなってしまったらどうしよう?
それだけは絶対に嫌だった。
疎まれても良い、どうせこんなわたしを愛してくれるようなひとなんて、兄以上にわたしのことを思ってくれるひとなんて、世界中探したってきっといやしない。
兄さんたちや弟と離れてしまう、それだけはどうしても耐えられそうになかった。
――けれど、もし、兄が同じような気持ちでいてくれていたとしたら?

「零兄さん、」

なにも要らなかった。
兄以外は。

「わたし、わたしね、零兄さん。……零兄さんのことが好き」
「……俺も、お前のことを愛してるよ」
「じゃあ、」

零兄さんの手を取る。
ジンジャーやシナモン、たっぷりのスパイスを加えたミルクティーを思わせる褐色の肌は、されるがまま。
――わたしの白い肌との境目が、なくなってしまえばいいのに。
そんなことを考えながら、着ていた自分のシャツのボタンを片手でぷつりぷつりと外した。
お風呂から上がったばかりでブラも着けていなかった。
お腹辺りまでボタンを外す。

兄の視線を痛いほど感じる。
眼差しにも色や熱があるんだと、わたしはそのとき初めて知った。
自分から晒した肌に、兄の手を引き寄せ這わせる。

「我慢なんて、しないで」

は、と息をつく間もなく、すぐに唇が重なった。
ちゅくりと音を立ててやわらかな舌が絡みあって、吸われる。
嚥下しきれなかった唾液が口の端からこぼれても、それに気を取られる暇もなく貪られる。

ぶつりと音を立てて、ひとつふたつ中途半端に残っていたボタンが全て弾け飛んだ。
いつも冷静な零兄さんらしくない荒々しさでシャツを脱がされる。
わたしが触れさせた零兄さんのてのひらは、いつの間にか胸元やお腹まで這い動いていた。
皮膚の色だけじゃない、触れた肌の温度も違って、その差異にぴくりと目蓋がふるえた。
切ない。
苦しい。
……気持ちいい。

再び覆いかぶさってきた零兄さんは、熱に浮かされたような――いいや、熱そのものを孕んだ表情をしていた。
余裕のない顔。
見慣れた天色の瞳がぎらりと光った。
零兄さんのそんな表情は初めて見た。
生まれたときからずっと一緒なのに、まだわたしの知らない顔があったんだということに気付いて、それが寂しくて、……嬉しくて、幸せだった。

もっと零兄さんのいろんな顔が見たい。
もっと零兄さんに触れたい。
もっと零兄さんに触れられたい。
もっと、

「なまえ、」
「零兄さん。もっと、して」

遠くで雷が鳴る。
重なった肌は、泣いてしまいそうなほど熱かった。


(2017.11.04)
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