いつも通り授業が終わり、帰宅しようとしたところで唐突に、そういえば好きな作家の新刊が出ていたなと思い出した。
学校からの帰り道、折角だからと少し離れた大型書店まで足を運ぶ。
書店の目立つ新刊コーナーに平積みされていたおかげで、目当ての本を早々に見付けたわたしは、あてもなくのんびり書棚を眺め歩くことにした。
博学な零兄さんや透兄さんたちほどではないけれど、わたしも読書は好きだった。
小さな頃、兄さんたちがよく絵本の読み聞かせをしてくれていたおかげかもしれない。

他にも気になった本や雑誌を物色していると――思いがけず、透兄さんの姿を見付けた。
家からも学校からも距離のあるこんなところで、まさか偶然会えるなんて。
遠目で見てもうっとりしてしまうほど素敵な透兄さんに、ぱあっと気持ちが浮き立った。
嬉しくて思わず頬がゆるんでしまう。
たくさんの人がいるなかでも一際目を引き付ける整った美しい顔、ぴんとまっすぐに伸びた背筋、でも親しみやすそうなやわらかな雰囲気。
どんな人混みのなかでもすぐに見付けられる兄さんに、喜んで駆け寄ろうとした、瞬間。

「梓さん、探していた本は見付かりました?」
「はい! 4階にあったみたいで……」
「ああ、なるほど……通りで見付からないわけだ。それじゃあ行きましょうか」
「すみません、バイト前に付き合ってもらっちゃって……」
「いえ、気にしないでください」

咄嗟に近くの書架の陰に隠れた。
にっこりと人好きのする笑顔を浮かべているのは、やっぱり透兄さんだった。
そして、……茶髪の長髪が印象的な美人な女のひと。
にこやかに会話を続けながら、ふたりはエスカレーターの方へ連れ立って行ってしまった。
その背を見つめながら――結局、わたしは声をかけることが出来なかった。

ふたりの会話が聞こえるくらいには近寄っていたんだから、一言「兄さん」と口にするだけですぐに気付いてもらえただろう。
透兄さんなら、きっと、わたしの声を聞き間違えることなんてしない。
けれどわたしがそうしなかったのは、……なぜなのか。
思わず唇を噛み締めた。

……きれいなひとだった。
明るくて裏表のなさそうな、いつも朗らかな透兄さんと一緒にいるのがしっくりくるような、可愛らしい雰囲気のひと。
親しげに会話していた兄さんは、いつもみたいにわたしに笑いかけることもなく、名前を呼んでくれることもなく、行ってしまった。
わたしの存在に気付かずにいたんだから、そんなの当たり前なのに。
それでもなぜか胸の奥がつきりと痛んだ。

通路の中途半端なところで立ち止まっているわたしを、迷惑そうに他のお客さんたちが避けて歩いていく。
このままずっとここで突っ立っているわけにもいかなくて、結局わたしは何も買わずに早足に――ほとんど逃げ去るようにして立ち去った。




外に出れば、気付けば空は分厚い雲が垂れこめ暗くなっていた。
朝は晴れていたのに。
そういえば夜から雨が降るっていってたな、と思いながら、帰路を歩く。
折りたたみ傘を持ってはいるものの、使う前に家に到着したかった。
……というのに、なんとなく今日は足が重たい。
いつもは兄さんたちと暮らす家に帰ると思うと、嬉しくて晴れやかな気持ちになれるのに。
いまは正反対。
見上げる空と同じように、暗く重たくどんよりしていた。

立ち止まるわけにもいかなくてのろのろと義務的に足を動かしていると、大通りから逸れて細い道へ入ろうとしたところで、――わたしが注意散漫だったせいで、誰かとぶつかってしまった。
目の端に映った明るい金髪が、沈んだ意識に妙にちかちかと残る。

「っ、あ、す、すみません……!」
「――ちゃんと前を見て歩きなさい」

無様に転びかけたわたしを思わずしゃんとさせるような、落ち着いた美声が降ってきた。
歩いているなかいつの間にか俯いていたらしい顔を上げると、そこには、大きなサングラスをかけたひとりの美女が堂々と立っていた。
背景は見慣れた通学路だというのに、彼女が直立しているだけで、途端に映画の撮影現場のように見える。
突然現れた絶世の美女に、謝罪を重ねようと開きかけた口が言葉をなくした。

金髪と一口にいっても、兄弟たちのような蜂蜜色のそれとは色味が微妙に異なっているプラチナブロンドが目に眩しい。
こんな雨の降りそうな暗い日中でも、まるで光を集めたような髪色。

「す、すみません、」

ぶつかって迷惑をかけたばかりだというのに、あまりにもぶしつけに見つめてしまったことに気付いて、ぱっと顔を伏せる。
俯いた視線の先には、使おうかどうしようか悩んでいた折り畳み傘がバッグからはみ出ていた。
なにか考えていたわけじゃない、ただ咄嗟にそれを手につかんでしまった。

「あっ、あの、わたし、近くに住んでて……要らなければ、捨ててもらっても構わないのでっ」

雨、降りそうですし、どうぞ使ってください、と押し付けるようにして折りたたみ傘を手渡す。
けれどサングラスをかけていてちゃんと顔全体を見ることは出来ないとはいえ、まるで映画スターと言われてもすぐに信じてしまうような飛び抜けた美人と、一本何千円かのわたしの陳腐な折りたたみ傘。
あまりにもちぐはぐな組み合わせに、手渡したわたしの方が途方に暮れてしまった。

どうせならもっと上品で高価なものを持っていたら良かったのに、……いいやむしろ彼女のようなひとは自分では傘なんて差さないんじゃないか、なんてぐるぐると後悔してみてもどうしようもない。
恥ずかしい。
わたしはどうしてこんなことを。
焦って余計なことまで口にしたような気がして、顔や首あたりが熱く火照ってそれがまたいますぐ逃げ出したいほど恥ずかしかった。

「すみません、無理強いするつもりはないんですけど、」

さっきから謝ってばっかりだ、と気付いて、けれど他になにを言えば良いのか分からず途方に暮れる。
いたたまれなさに再度だんだんと俯いてしまうと、ふいに鈴のような軽やかな笑い声が響いた。
おずおずと上目に見上げれば、丁寧に口紅を塗られた品の良い唇が、ふ、とほころんでいる。

「そこまで言うんだったら、あなたの申し出を受けるわ」

上品な微笑を浮かべた女性は、流暢な日本語でそう言いながら傘を開いた。
ほっとして、ありがとうございます、と呟く。
渡したこちらが感謝を伝えるのは変かもしれないと一拍遅れて気付いたけれど、正直、それが率直な気持ちだった。

いつまでもここに居たくなくて、それでは、と足早に通り過ぎる。
彼女の視線をひしひしと受ける背中に、緊張のあまり変な歩き方をしていないかと冷や汗をかきながら。
数十メートル先の角を曲がり、その視線から逃れられたところで、どっと息を吐いた。
いつの間にかぴんと伸びていた背筋が、緊張して疲れたと訴えかけてくる。

ふう、と深呼吸したところで、とうとう雨が降り出した。
ぽつぽつといまはまだ大粒の雨がまばらに降る程度だけれど、そのうち激しくなるんだろうな、と予感させる具合だった。
あのきれいな女性は濡れずに済んだだろうか。
あのひとが雨に打たれるところはなんとなく想像できなかったし(その光景も映画みたいに絵になるんだろうけれど)、それに誰かを待っている様子だった。
そうじゃなければあんなところに絶世の美女がひとりで立っているなんて、それこそ映画の撮影でもあるまいし。
あの折りたたみ傘を使ってくれるかは分からなかったけれど、もし濡れるなら彼女よりわたしの方がずっとマシだと思った。

衣服やバッグのなかの教科書類が濡れてしまうと困るので、さっきよりは幾分か軽くなった足で自宅へ急ぐ。
そこで見覚えのある車を見付けて、凝視してしまった。

「あれ? あの車……」

それは間違いなくバーボンや零兄さんがよく乗っている車種(表情や性格は正反対といってもいいほど違うのに、乗る車は同じだなんて趣味が合うのかワザとなのか)だった。
もしかして雨のせいでいつもよりはやく暗くなってきたし、迎えに来てくれたのかな、なんて。
浮かれた思考をしていたわたしへの罰なんだろうか。
そんな愚かなわたしに冷や水を浴びせるように――降り注いでいたのは実際には雨粒だったけれど――助手席には既に誰かが座っていた。

近寄ってきた車を影から窺えば、フロントガラス越しに乗っている人物が見えた。
そう、車を運転していたのは思った通り、バーボンだった。
そして助手席に座っていたのは、……さっきのあのプラチナブロンドの美女。
見間違いでもなんでもない。
そもそもこんな人通りの多くない裏路地に、あれほど目立つ組み合わせのふたりなんて、そうそう何度も見かけることなんてないだろう。

――ああ、あの女のひとが待っていたのは、バーボンだったんだ。
浮き世離れしたバーボンとあの美女はそれはもうとってもお似合いで、まるでそのままドラマや映画に登場しそうな雰囲気を漂わせていた。
映画のワンシーンのように颯爽と走り去っていったスポーツカーを、馬鹿みたいに立ちすくんだまま見送りながら、わたしはが考えていたことといえば。
わたしなんかじゃあ映画の端役にすらなれやしないな、なんて。
そんな的外れかつくだらないことをぼんやりと考えていた。
道端で呆然と立ち尽くすわたしは随分と滑稽だっただろう。

雨に濡れた服が、じっとりと肌に張り付いていた。
指先から体中がじんわりと冷えていく。
このままだと風邪を引いてしまうかもしれない。
……はやく帰らなきゃ。

どうしてこんな気持ちになっているのか、自分でもよく分からなかった。
透兄さんだってバーボンだって、見目もとても秀でていて、頭もずば抜けて良くて、物腰もやわらかくて、女性の扱いが上手で……わたしの知る最も魅力的な男性で。
当然、お付き合いしている女性が一人や二人、いないはずがない。
いままでそのことを考えてこなかったわけじゃない、けれど。
兄や弟はいつだって妹であるわたしを一番にしてくれきたから、気付かなかった、――いいや、きっと、わたしが見ないふりをしてきただけなんだろう。
鋭利に尖ったものが胸の奥で跳ねまわっているような、そんな痛みがじくじくと渦巻いていた。

それに、今日直接見かけてしまった透兄さんやバーボンだけじゃない。
もしかしたら零兄さんだって、今頃、誰かきれいな女性と一緒にいるのかもしれなかった。

……だからといって、わたしがそれをとがめることなんて出来るはずもないのだ。
だって、わたしにそんな権利はない。
わたしはただの妹だから。
そう、わたしに兄や弟を責めることなんて出来ない。
寂しいなんて、悲しいなんて、――兄や弟の横に並ぶ女性たちに対して、ズルい、羨ましい、なんて、感じること自体が間違っている。

顎の先からぽたりと水滴が伝い落ちた。
視界が妙に歪むのは、きっと本格的に降り始めた雨のせいだと思う。


(2017.11.01)
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