「おはよう、透兄さん」
「なまえ、おはよう」

零兄さんを見送ってダイニングルームへ戻ると、透兄さんが朝食の準備をしてくれていた。
いつの間に起きてきていたんだろう。
折角目を覚ましていたのなら、一緒に零兄さんのお見送りをしたら良かったのに。

わたしも透兄さんを手伝おうとキッチンに立つと、ふいに後ろから透兄さんから抱き締められた。

「わ、びっくりした……どうしたの、透兄さん」
「んー……今日もなまえは可愛いなって」
「兄さん、まだ寝ぼけてる?」

くすくす笑いながら首を傾げれば、そう思う? と質問に質問で返された。
ぐっと強く抱き寄せられて、背中に透兄さんの体温をはっきりと感じる。
心臓の音がドキドキと大袈裟なほどうるさく鳴る。
こんなに密着していては兄さんにも聞こえてしまうかもしれない。

「っ、と、透兄さん……」
「零のにおいがする。移るほどくっついてたんだ?」

わたしの肩に顎を乗っけて、わたしの胸元を覗き込むようにして拘束される。

「あっ、透にいさんっ……ん、ぁ、だめ、だよ」
「零は良くて僕は駄目ってことかなぁ」
「ち、ちがっ……そういうことじゃなくて、あっ!」

たわむれに軽く首に口付けられ、びくっと肩が跳ねた。
抗議するため振り向こうとした瞬間、服の上から、胸をゆるく包まれた。
ざわりと肌が粟立つ。
けれどそれは決して嫌な感覚ではなくて、だからこそ余計に困惑してしまう。
ジンジャーやシナモン、たっぷりのスパイスを加えたミルクティーを思わせる褐色の手は、壊れ物を扱うように優しくて痛くはない、けれどわたしが逃げることは出来ない程度には力強かった。

はじめは輪郭をなぞるようにやわらかく。
口答えするわたしの意思を溶かすように、ゆっくりと撫で揉まれる。
肉の感触を確かめるような手の動きに、触れられている胸を中心に、頬や首元までも熱く火照ってきてしまった。

「あれ、また大きくなった? 下着一緒に買いに行こうか」
「や、やだっ! じぶんで買えるもん……ん、ぁっ」
「僕が買ってあげたいだけだよ」
「うう……と、透兄さんが選ぶの、フリルとかひらひらとか……わたしには可愛すぎるし……」
「だってなまえに似合うんだもん」

だもん、なんて、他の男性が口にすれば眉をひそめてしまうかもしれないけれど、透兄さんだと全く違和感がないんだから怖い。
零兄さんはどちらかというと格好いい、けれど透兄さんは可愛い……というか、あざとい言動が多い気がする。
いまだって上機嫌に明るい声でわたしの名前を何度も呼ぶ。
兄弟のなかで、一番朗らかに笑うのは昔から透兄さんだ。
けれど、そんな透兄さんもちゃんと男のひとなんだと改めて強く感じさせる大きなてのひらが、わたしの胸をやわやわと揉む。

「っ、透にいさんっ、は、はなしてっ……」
「どうして? なまえは僕に触られるのは嫌いかな」

兄さんのからかい混じりの吐息が耳に触れる。
くすぐったくなるような、疼くような感覚に、びく、とふるえてしまった。
ねえ? と返事を急かすように透兄さんが耳元で甘ったるく囁く。
ずるい。
嫌い、だなんて。
言えるわけがないのに。

「はぁっ、ぅ、とーる、にいさんっ……い、いじわる、しないで……」
「……はあ、本当になまえは愛らしいね」

感に堪えないとばかりに溜め息をつかれて、耳元にその呼気を感じたわたしは、またふるえてしまった。
たまらなく気持ちが良くて、頭がぼんやりとしてきてしまう。
零兄さんはやめてと言ったら、ちゃんと止めてくれることが多い。
だけど、透兄さんは楽しそうに笑うばかりでやめてくれることはあまりない。

そういうときはたいてい、

「いい加減、離れたらどうです愚兄」
「ぁん……っ、バーボン、おはよう……」

こういうとき、透兄さんを止めてくれるのはもっぱらバーボンだ。
……本当は、零兄さんの方が止めるのは上手なんだけれども。
怒ると一番怖いのが零兄さんだからだろうか。
いまだって透兄さんとバーボンは、わたしを挟んで睨みあっている。

「おはよう、なまえ。今日も可愛いですね」
「誰が愚兄だ、この愚弟」
「お前だよフリーター。あとなまえはもっとセクシーな下着に挑戦してみて良いのでは?」
「うるさい非合法組織構成員。可愛いなまえには可愛いモノが似合うでしょう?」
「本当に分かってないですね……なまえの可愛らしさで際どい下着っていうギャップが良いんでしょうが」

朝からなんの話をしているんだろうか。
わたしの頭の上でそんな会話を繰り広げるのはやめてほしい。

「……バーボン、助けてにきてくれたの、喧嘩しにきたの」
「そりゃあ勿論、可愛いなまえ姉さんにキスしてもらうために」

そんな言葉も似合ってしまうのだから、透兄さんといい、弟といい、わたしの兄弟たちはずるい。
さらっと並べられる気障ったらしいセリフと一緒に、バーボンに頬にキスをされる。
本当にわたしと一緒に生まれてきたのかと不思議なくらいにきれいな顔は、零兄さんと透兄さんと一緒のもの。
兄さんたちと声も同じだけれど、声色や口調はみんなわずかに違う。
浮かべる表情が少しずつ違うように。
ああ、それに、バーボンの瞳は兄たちとかすかに異なった色を内包しているような気がする。
虹彩だろうか、色味の濃さだろうか、輝き方だろうか。

答えを探して、いくら眺めても飽きなんてこない不思議な天色の瞳を覗き込んでいれば、にっこりと完璧な笑顔を浮かべたバーボンに口付けられていた。
軽く触れ合うだけのそれはすぐに離れる。

まるで名残惜しいと言わんばかりに唇に追いすがりそうになって、自らの失態に気付いて俯くしかない。
気付かれていませんように、と火照る頬を押さえた。

「ね、とりあえず、総レースからはじめてみません?」
「まだ下着の話、続いてたの……」
「だってなまえってば、この前僕が買ってきたの、全然着てくれないじゃないですか」
「あんな紐みたいなの、どうやったら着れるの」
「え? 着せてほしいんですか? ああ、僕としたことが気付かずすみません、なんならいますぐ着替えさせてあげますね」
「だめ。それに、わたしの下着はわたしが買います」

とはいえ、なんだかんだわたしが自分の下着を買ったことはかつて一度もない。
ブラのサイズはいつでも完璧で、窮屈な思いも、隙間が空いて悲しい思いをしたこともない。
透兄さんもバーボンもどうしてわたしのサイズを把握しているのか……なんて、愚問だろう。
こうしていつも触れていれば。

そういえば以前、兄に下着を買ってもらっていると友人に言うと絶句していたので、これはひとには言っちゃいけないんだなと学んだ。
ちなみに今日は零兄さんが買ってくれたものを着ている。
零兄さんが選ぶものは、白が基調で装飾もそう多くないものが多い。
清楚っぽくてわたしも着けやすいから、よく零兄さんチョイスのものに偏ってしまうのは仕方ないと思う。

「なまえ、どうしました?」
「んっ、バーボン、」

兄たちと同じ弟の顔から視線を逸らさず、呆けてそんなことを考えていると、またバーボンに唇を塞がれた。
今度はすぐに離れることはなく、だんだんと深いものになっていく。
目も眩むほどきれいな蜂蜜色の髪が、今日も朝の光のなかきらきらと輝いた。

「ぁ、んぅ……っ、だめ、も、バーボンってば、」
「なまえ……んん、もっと、ね」

バーボンに伝えたらたぶん嫌な顔をされるだろうけれど、バーボンと透兄さんのキスの仕方は少しだけ似ている。
縮こまるわたしの舌を上手に引っ張り出してしまう絡み方とか、溢れそうになった唾液を、ぢゅ、と吸う仕草だとか。
そして零兄さんとも透兄さんとも違うのは、招きこんだわたしの舌に甘ったるく噛み付くところ。
かすかに歯を立てたかと思えば、痛みで逃げようとしたわたしの舌を労わるように優しく舐める行為。
そうされてしまうと心地良さのあまり、途端にわたしの意識は靄がったように白く濁ってしまう。

くちゅ、といやらしい水音が口腔で響く。
どうしようもない恥ずかしさや痺れるような感覚で、後ろから透兄さんに抱きすくめられたままわたしは動けずにいた。
いつもの柔和な物腰はどこへやら、透兄さんはわたしとバーボンを見て忌々しげに舌打ちしていたけれど、すぐに考えを変えたらしい。
わたしがあまり身動きできないことを良いことに、また胸元へ手を這わせた。

「あっ……! だ、だめ、とーるにいさん……やめて、が、学校、遅れちゃ……」

後ろには透兄さん、前にはバーボン。
どうやったら逃げられるか、なんて考えるのも無駄だと知っている。
とはいえ、本当にこのままではいけない。
見上げれば、時計の針はもうあまりのんびりしていられない時刻を差していた。

眼前にある、弟の蜂蜜色の髪が眩しい。
いつの間にかうっすら涙が滲んでいたらしく、ゆらゆらと視界がぼやけていた。
ふたりの瞳はとても優しく、わたしを見つめている。

「それじゃあなまえ、いつものお願いしますね」
「ああ、僕にも」

にこにこと邪気のない――ように見える、揃いの笑顔がわたしを急かす。
やっと手を放してくれた透兄さんが、わたしの体をくるりと反転させた。

「う……と、透兄さん……今日も、だいすきだよ」

大きな背に腕をまわしてぴったりと体を重ねたまま、屈んでくれた兄さんの唇に自分の唇を重ねる。
すぐに離そうとしたら、ぺろりと下唇を舌先でくすぐられて、恥ずかしい声が漏れ出てしまった。
小さな頃から毎朝の習慣だけれど、やっぱり恥ずかしいという気持ちはなくならない。
どうしても痛いほどに心臓が高鳴ってしまう。
バーボンにも同じようにすると、やっとふたりは解放してくれた。

「さあ、朝食にしましょうか。本当に遅れてしまう」

僕は全く構いませんけどね、とわたしを見て微笑むバーボンは、女のわたしが心底羨ましいほど色っぽくてきれいだ。
垂れた目元は童顔ともいえる顔立ちに拍車を駆けているのに、そんなふうに流し目で視線を投げかけられると、ぐっと婀娜っぽくてどきどきしてしまう。
バーボンはわたしと同じ学校に在籍しているはずだけれど、大学の構内で見かけることはほとんどない。
出席日数や単位はどうなっているのか不思議だけれど、学力は勿論、要領も愛想も良い弟のことだから、きっと問題はないのだろう。

「優秀なバーボンならそれで良いかもしれないけど、わたしはそうじゃないんだから」

む、と口を尖らせれば、バーボンが苦笑してわたしの髪を撫でた。
優秀な兄弟たちと違って、わたしはいつだって平均あたりをうろうろしている凡人だ。
せめて人並みくらいではいられるように、努力しなきゃいけない。

「……あ、そういえば、今日は遅くなると思います」
「また朝帰りか。零に殺されないようにね」
「上手く口裏合わせてくださいよ、透もどうせ遅いんでしょう」
「お前ほどじゃあありません」

透兄さんとバーボンは軽口を叩きあいながら、朝ごはんの用意をしている。
寸分たがわぬ姿をしたふたりがそうして会話している様子は、浮世離れした見目の良さと相まって絵に描いたように美しく、見慣れた光景だというのに馬鹿みたいに見惚れるのをやめられない。

「なまえは?」
「っ、え?」
「帰宅は何時頃になりそうです?」
「遅いようだったら僕が迎えに行くよ」
「だ、大丈夫! 授業のあとはなんにも予定ないし……」

そうしてようやくふたりと距離を取ることが出来てほっとするのと同時に、……わたしはかすかに落胆を覚えてしまっていた。
そんな自分が恥ずかしくて、あまりにも浅ましくて、わたしは小さく項垂れる。
気を抜くと、ああ、と溜め息をついてしまいそうだった。

――だって、気持ちいい。
兄さんたち、双子の弟に触れられると、自分が自分ではなくなってしまいそうなほどの狂おしい喜びと高揚で、頭がどうにかなってしまいそうだった。

けれどいつも、キスや身体を触れられるだけ。
わたしはこの行為の「先」を、知っている。
……知識としては、だけれど。
大学生ともなれば、友人たちも恋人とお泊りしただの、お酒を飲んだ帰りに初対面の男性と一夜だけ遊んだだの、そういう話題をよく耳にする。
とはいえそんな会話を聞いても、なんとなく自分とは関係のない世界のことだと思っていた。
まるで映画や本を見るような、壁を隔てた感覚。

ちゃんと認識したのがいつだったかは覚えていないけれど、わたしは、たぶん――、

「っ、ん……」

兄と弟ふたりに背を向けてカトラリー類を取るふりをしながら、わたしは深い溜め息を吐き出すのをなんとか堪えていた。
ぎゅ、とこぶしを握りしめた。
そうやって力を入れていないと、指先がふるえてしまいそうだった。
細く息を吐くと驚くほど熱を孕んでいて、羞恥で頭がどうにかなりそうだった。

「は……っ、ぅ」

そう、わたしは、たぶん、こうして触れられるだけでは、……物足りないと感じはじめているんだと思う。
零兄さんに対しても覚えた、透兄さんやバーボンにもっと触れてほしいという欲求、そして、抱き締められ、口付けられて感じる熱を、与えられる幸福を、他の誰かに奪われたくはないという醜い欲望。

自分の浅ましさに絶望して、ともすれば涙が出てきそうになる。
わたしのことを可愛い可愛いと慈しんでくれる兄さんたちや弟に、わたしがこんなことを考えているなんて知られたら、――恐怖で目の前が真っ暗になる。
未だ男性経験すらないというのに、いやらしいことを、わたしからいつまでも離れてほしくないと、妹が、姉が、考えて、期待しているだなんて、そんな。

知られてしまったら、軽蔑されてしまうかもしれない。
それだけは絶対に嫌だった。

もどかしい。
物足りない。
もっと欲しい。
欲求は満たされないまま、ずっとわたしの奥深くで燻り続けている。

――ふたりに気付かれないよう小さく太腿を擦り合わせると、そこは、ぬる、と湿り濡れた感触がはっきりとしていた。


(2017.09.25)
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