小さな頃から、自分の真っ黒な髪が大嫌いだった。
どうしてわたしの髪は、血の繋がった兄たちや弟のような、美しい蜂蜜色をしていないのか。

いまなら幼い子供らしい煩悶だと、そう思う。
けれどあの頃のわたしは、兄が買い与えてくれた大きなぬいぐるみを抱き締めてよく泣いていたものだった。
どうしてわたしだけ違うの、と。

加えて、年月を経るにつれて髪や肌の色だけではなく、際立った顔の美しさだったり、勉学やスポーツの能力だったり、そういったものが兄や弟に比べて――いいや、比べるという行為そのものが、とんでもなくおこがましい――あまりにも劣っているという事実が、まるでわたしを「お前は家族の一員じゃない」と暗に責め立てているように感じられて、ますます自分の醜さや能力の低さを疎ましく思うようになった。

いっそのこと、ふたりの兄、そして双子の弟のことを大嫌いになれたなら。
もしかしたらその方が良かったのかもしれない。
そうしたら、少なくとも「自分だけ家族と違う」なんて疎外感を覚えて、これほど酷く寂しい思いはしないで済んだだろうから。
――けれど、そんなことができるはずもない。

わたしは血の繋がった兄さんたちや弟のことを、わたし自身よりもずっとずっと愛していた。
幼い頃から、変わらず。


・・・



「――おはよう、なまえ」
「おはよう、零兄さん! 今日は遅いね、お仕事は休み?」
「いや、残念だけどいまから出るところだ」
「そう……」

がっかりして分かりやすく肩を落とせば、そんなわたしを見て零兄さんはくすくす笑った。
警察に勤めている兄さんはとっても多忙で、こうして朝食の時間に顔を合わせるのは珍しい。
一緒に朝ごはんを食べられるかと期待したものの、どうやら今日もそれは難しいらしい。
帰宅はきっと今日も遅いんだろう。

よっぽどわたしが情けない顔をしていたのか、零兄さんは困ったように微笑んだ。
他の兄弟に比べ、あまりにこにこ笑うタイプではない零兄さんだけれど、わたしへはいつだって穏やかな微笑を向けてくれる。
そのたび、わたしの胸はむず痒い喜びに満たされた。

そういえば、――そんなふうに笑顔を惜しみなく見せてくれるのはわたしに対してだけなのだと知ったのは、十年かそれよりもっと前。
兄さんが大学生の頃、わたしが確かまだ小学生くらいのこと。
学校帰りだったっけ、偶然、兄さんと、兄さんの幼馴染に会ったのがきっかけだった。
そのとき兄さんはなぜだか少し不機嫌そうだったけれど、幼馴染の彼は人の好さそうな笑顔を浮かべてわたしへ挨拶してくれた。
結局、彼と顔を合わせたのは、それ一度きりだった。
けれど、「あの」兄がしかめっ面をしていたのがわたしには印象的で、強く覚えている。
わたしの知る兄さんは、いつだって冷静で穏やかだったから。

そして幼馴染の男性、彼は彼で驚いていたらしい。
わたしに優しく微笑む零兄さんを見て。
目を大きく見開いて、いわく、「本当にお前、ゼロか」と。
兄さんは「失礼なことを言うな」って怒っていたけれど、そのひとにとってはよっぽど驚くべきことだったらしい。
どうやら兄さんがそういうふうに笑みを見せてくれる対象は、外には他にいなかったらしい。

「お前、本当に妹ちゃんのこと大切なんだな……知ってたけど」と呆れたように笑う彼に、照れてしまったのは零兄さんじゃなくてわたしの方だった。
零兄さんはいつものとろけるような微笑で、「当たり前だろう、俺の妹なんだから」とわたしの頬を撫でていた。

零兄さんに笑みを向けてもらえるたびそのときのことを思い出してしまって、胸の奥がむずむずするような面映ゆさを感じるのは、兄には秘密だ。

「そんな顔しないでくれ、今日ははやく帰ってくるから」
「ほんとう?」
「お兄ちゃんがなまえに嘘をついたことがあったか?」
「……たまに」
「……すまない」

零兄さんが悪いわけじゃない。
お仕事のせいでどうしても約束を守れなかったことは、小さな頃から何度かある。
けれど、そのたびにわたしよりもずっと兄さんの方が悲しそうだしショックを受けていた。
大変なお仕事だと理解しているし、別に怒ってはいない。
むしろちゃんと休養を取れているか心配なくらいだ。

ただなんとなく兄さんを困らせたくて、拗ねたようにつんと横を向いた。
そう意地悪しないでくれよ、と眉を下げて苦笑する零兄さんに、すぐにわたしも怒った顔を保つことは難しくなってしまった。

零兄さんは目を細めながらわたしを軽々と抱き寄せた。
わたしが知っている誰よりも整った顔が眼前に迫る。
どうしてわたしの兄は、こんなにきれいなんだろう。
呼吸を忘れてしまいそうになるほど端麗な若々しい顔、意思の強そうなきりりと整った眉、澄んだ空色の瞳。
灰色のスーツが今日もとても似合っている。
重度のブラコンという自覚はあるけれど、こんなに格好いいひとが自分の兄だったら、誰だってそうなってしまうに違いない。

女であるわたしよりもなめらかな褐色の肌が寄せられ、ほとんど無意識に手を伸ばした。
頬をなぞって、きらきら輝く蜂蜜色の髪へ指を通す。
空を連想する明るい天色の瞳にわたしの真っ黒な目が映り、それを見たくなくてわたしは目蓋を下ろした。

「……ぁん、ふ……れ、れぇにいさん……」
「なまえ……」

触れるだけの口付けを何度も繰り返す。
すぐにもどかしくなっていつもの癖で軽く口を開けば、すぐに口腔へぬるりと舌が入ってくる。
薄い舌で口のなかをいっぱいに満たされて、飲み下せなかった唾液が口の端から溢れた。
それが兄さんのものかわたしのものか分からなかったけれど、もし兄さんのものだったらと思うとひどく勿体ないように感じられて、ぺろりと舌の先で拭う。
そんなわたしに満足そうに、零兄さんが喉の奥で低く笑う。
その小さな振動すらも生々しく伝わってきて、口のなかの舌がぴくりとわなないた。

頭の芯がぼうっと霞んでくる。
ぴりぴりと指の先がふるえるような、心地良い痺れが広がっていく。
ぢゅ、とあられもない音が口のなかで響いて、たまらなく恥ずかしくて、そして恐ろしいほど気持ちがいい。
そのまま溺れてしまいそうになったけれど、なんとかふるえる手に力を込めた。

「んぅ……ぁ、も、もう、だめだよ、……っ、にいさん、出なきゃって、さっき言って……んんっ」

学生の頃スポーツ全般が得意で、色んな部活から引く手あまただったという兄さんの逞しい胸板は、強く押してもびくともしない。
それでも零兄さんはわたしの言うことを聞いてくれて、やっと唇を解放してくれた。
名残惜しいと言わんばかりに最後にぺろりと下唇を舐められて、ぞくぞくっと腰辺りに痺れのような感覚がはしった。
膝から力が抜けて、あやうくぺたんと座り込んでしまうところだった。
零兄さんが腰を支えてくれていたおかげで、そんなことにはならなかったけれど。

「は、ぁ……もう、零兄さん!」

火照った顔を自覚しつつ、キッと兄さんを睨み付ける。
前にもたくさんキスをされて、酸欠と気持ち良さのせいでしばらく立てなくなったことがあった。
息を荒げ、真っ赤になっているだろうわたしに比べ、零兄さんはいつものようにけろっとしている。
涼しい顔をして、わたしがしがみ付いてしまったせいで少し乱れたスーツを直していた。
この差がちょっとだけ悔しくて、いつか兄さんもわたしみたいに乱れてしまえばいいのに、と思っていることは零兄さんには言えない。

「それじゃあ名残惜しいけど……行ってくる、なまえ」
「うん、行ってらっしゃい、零兄さん」

真っ赤な頬のまま、ゆるゆると手を振ると、零兄さんはまた穏やかに微笑んだ。
天色の瞳がとろけるほどやわらかくわたしだけを映している。
そんなふうに見つめられると、胸の奥が、ぎゅ、と締め付けられるように苦しくなる。
けれどそれは嫌な感覚ではなくて、むしろ涙が出そうなほど幸せなものだ。

こんなに近くで兄さんを感じることが出来るのは、きっと世界中で「妹」のわたししかいない。
そのことを心から幸福に思っている。
この気持ちは嘘ではない。

けれど、――いつか、兄はこの家を出ていくだろう。
美しく気立ての良い女性と結ばれ、幸せな家庭を築く。
それが当然だ。

わたしだって世事に少々疎い自覚はあるとはいえ、いつまでもこうして幸せに兄弟たちと生きていけるなんて、そんな愚かな夢を抱いたりなんかしていない。
けれど、兄がわたしに向けるような微笑みだったり、とろけるような視線だったり、優しく触れるだろう指先や唇が、いつか他の女性に全て奪われるのだと思うと、胸がはり裂けそうな気持ちになる。

――兄さんと、ずっと一緒にいられたら良いのに。
決して口に出来ない願望を、こっそりと胸のなかだけで呟く。

罪深い思いを抱いたまま、わたしはなにも知らないふりをして笑う。
取り立てて美しいわけでもない、聡明なわけでもない、なにかに秀でているわけでもない、取るに足らないわたしなんかを、兄さんは可愛いと、いとおしいと言ってくれる。
いつまで零兄さんがそう言ってくれるか分からないけれど、それまでは可愛い妹でいたい。

玄関まで見送ると、零兄さんはもう一度わたしを抱き寄せた。
触れるだけのキスをして、うっとりと零兄さんを見上げる。

「愛してるよ、なまえ」

零兄さんがそう言って微笑んでくれると、こんな自分のことでも、少しは好きになれるのだ。


(2017.09.16)
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