こんなに酷いのは久しぶりだと、ゆっくり目を開いた。
窓によって四角く区切られた青空を見上げ、弱音まじりに小さく呻く。
ぐったりと寝転がった視界に、かがみこんで心配げに眉を下げたドッピオくんが映った。
それを見て申し訳ない気持ちになるものの、もし仮にごめんなさいなんて言おうものなら、どうして気を遣うんですかと怒られることをわたしは知っている。
そのため大人しく手渡されたお水をゆっくり飲みながら、ただありがとうとだけ呟いた。
ドッピオくんは心配そうに微笑んで、わたしの飲み終えたコップを手に立ち上がる。
台所にいるので何かあったら声を掛けてくださいと頬を撫でられ、その温かさにわたしは目を細めた。

月経前に体調を崩したり情緒不安定になったりすることは女性ならば珍しいことではないけれど、面倒なことに今回は頭痛が襲ってきたらしい。
それも困ったことに、わりと凶悪なレベルの。
そうは言っても原因も分かっているし、別段珍しくもない典型的な不調に、まあいつものことだからと普段通りに過ごしていたらあっけなく早々とみんなに見破られた。
そんなに酷い顔をしていたつもりはなかったんだけどなあ。
小さくそう呟いたら、「皆君のことをよく見ているんだよ」と出勤前の吉良さんから、いたわるように頭を撫でられた。

なんだか言いようのない胸を占めるくすぐったさを堪えきれなくて、わたしの意思とは関係なく口がゆるむ。
次いでドッピオくんに「今日はゆっくりしていてください」と懇願の形の宣告を受けた。
別に病人というほど深刻なものではないし、家事もあるんだから「いや、でも、」と反論しようと口をついて出かかった言葉。
それはニッコリと笑ったドッピオくんに有無を言わさず封殺されました。
……正直、怖かった……。
なんかどす黒いオーラみたいなものが見えたのは気のせいではないと思う。
うわドッピオくんつよい。

そんなこんなで家事禁止のお言葉に甘え、窓辺でぐったりと横たわり続けている。
雲が形を変えながら流れていくのをぼんやりと見て、こんな穏やかな日も良いな、とまばたきをひとつ。
ふあ、と、小さくあくびがこぼれた。
きっと元の世界にいたら、この程度の頭痛なら薬を飲んで痛みと不快感に眉を顰めつつ酷い顔をして学校へ行っていたに違いない。
でももしいま外出するなんて言ったら、怒られちゃうんだろうなあ。
ふふ、と小さく笑みがこぼれた。
自分のことを心配してくれるひとがいる、それがどれだけ得難く大切なものか知っている。
その体を包む多幸感とくすぐったさに戸惑っていた頃もあったけれど、今はそれに甘えることも覚えた。
とはいえ、ちょっとみんな過保護すぎるんじゃないかな、と、わたしを甘やかす面々を思い浮かべて贅沢な溜め息をついた。
うーん、どんどんみんながいなければ生きていけなくなっていっている気がする。
怖いなあ。
何が怖いって、それが不快じゃなくて、むしろ嬉しいって感じてしまうあたり、随分とみんなに毒されちゃっているんだろう。
掛けてもらったタオルケットのぬくもりを噛み締め、ゆるんだ思考はやがて水没するように手から離れた。


・・・



「……んん、う……ああ、寝てた……」
「起きたか」
「……ん、あれ、ディエゴくん……?」

仕事に行っていたはずじゃ、もう帰ってきたのだろうかと、上手く働かない頭で疑問が次々に浮かぶ。
けれど、髪をさらさらと梳く感触にそれらの問いかけをあっけなく放棄した。
だって気持ちいい。
覚束ない思考のままその気持ち良さに微睡む。

うっすらと目を開けると、白んだ視界にまぶしい程のベビーブロンドが映った。
真っ黒なわたしの髪なんて触ってもなにも楽しくないだろうに、ディエゴくんは鋭い歯の見え隠れする口角を上げてその行為を繰り返す。
一房取って指を通して、はらはらと落とす。
触れるかどうかの曖昧な力加減で地肌をなぞって、また一房手に取る。
耳の後ろをしなやかな指がそっと通り、少しだけ背筋がふるえた。
わたしは他人に触れられることがあまり好きではなかったはずなのだけれど、どうも違っていたらしい。
それとももしかしたら、ここのみんなだけが例外なのかもしれないけれど。
取り留めもない思考がふわふわと行ったり来たりする。

ぼんやりと寝転がったわたしを見る、黄緑色に近い宝石のようなシーグリーンの瞳は泣きたくなるほどにやさしい。
何も言わないわたしを不審に思ったのか、手を離して名前を呼ばれた。
その手の熱が遠のいてしまったのが少しだけ寂しいと思う。

「どうかしたか?」
「ううん、ディエゴくんの手が気持ち良いなと思って」

わたしが眠っていたのはほんの少しの間だったのだろう、仰向けのまま見上げた窓から見える空は、眠りに落ちる前とそれほど変化したようには見えない。
それにも関わらず、頭の痛みはすっかり治まっていた。
撫でていてくれたディエゴくんのおかげかもしれない、なんて微笑む。

ね、やめないで、と、手を伸ばして囁けば、動揺したように一瞬だけ目を見開いて、ヤレヤレとでも聞こえてきそうな溜め息が降ってきた。
息を吐いて伏せられた長い睫毛が、頬に影を落とす。
溜め息の理由を問うのも忘れ、髪より僅かに色の濃いその金糸がきれいでほんのりと見惚れた。

「オレが衝動的に病人に手を出すような下衆じゃあなかったことに感謝するんだな」

かすかに苦く告げられたその言葉の真意を考える間もなく、柔らかそうなベビーブロンドが頬に落ちてきた。
手を出しているじゃない、なんて野暮な正論は、唇のなかに閉じ込められた。

「ん、……む、」

そっと重ね合わせるだけの口付けはすぐに離れた。
寄せられた唇に反射的に目を閉じたけれど、二度三度とついばむような触れるだけの感触がくすぐったくて、うっすらと目を開ける。
少し顎を上げればまた唇が触れるほどの至近距離で、きらきらと光るシーグリーンの目はわたしを真っ直ぐに射抜く。
焦点が合わないほど近い距離に、高鳴る心臓の音すら耳に届いているんじゃないかと思った。

口の端から覗くその鋭い歯に恐怖を覚えるほど荒々しく口腔を暴かれる感触だって、服の下に隠されたしなやかな肢体がどう動くかだって深く知っているというのに、あどけない児戯のように唇を重ね、離し、見つめ合う、ただそれだけが、これほど甘く情動の揺らぐものだとは知らなかった。

ほんの数十分前までわたしを襲っていた痛みは、まるで最初からなかったかのように消え失せ、ただこの揺蕩うような甘さに溺れそうになる。
少しだけ角度を変えてもう一度降ってきた唇は、わたしを見つめる瞳のように、やっぱり泣き出してしまいそうなほどにやさしい。

「っ、ディエゴ、くん、」
「なまえ」

名残惜しいと言わんばかりにちろりと下唇を舌先でなぞられ、自分がいつの間にかねだるように微かに口を開けていたことに、そこで初めて気付いた。
透明な水に一滴二滴とインクを垂らし、ゆらゆらと混ざり溶けて色が変わっていくような眩暈を覚えた。
後ろ髪を引かれるようにゆっくりと唇が離れ、少し遠くなったその目のなかに、衝動のままに動くのを耐えるかのような苦々しい光を見付ける。
その瞳を見て、まるで恋を知ったばかりの無垢な乙女のように胸が高鳴った。
ああ、このままこの甘さに微睡んでいたい、と、心から欲してしまった、その時。

「――なにしてるんですか」

ふと呆れたような声がして、夢から覚めたようにぱちぱちとまばたきを繰り返した。
わたしに覆いかぶさっていたディエゴくんは上体を起こし、なんでもないとでも言いたげに肩をすくめる。
唇を重ねていたとき、わたしの頭の横に着いていたらしい腕が偶然軽く首元に触れ、自分でも戸惑う程に、びく、と肩が跳ねた。

「別になにも? 熱がないか確かめていただけだ」

潔白を主張するように両手を挙げ、ひらりとやる気なく振る。
確かに、戸口に立つドッピオくんからは、ディエゴくん自身の体が遮って、ただ額と額をくっ付けていただけのように見えるかもしれない。

「な?」

同意を求めるように振り向いて首を傾げたディエゴくんは、さっきまでの耐え忍ぶような色はどこへやら、愉快げに瞳を細める。
その表情はまるで悪戯っ子のようだ。
くるくる変わる表情と空気に、なんと答えようか逡巡していると、振り向く体勢のままだったディエゴくんは、ふいににやりと笑う。
面白いことを思い付いたと言わんばかりの愉しげな笑みに、ろくなことを考えていないなと身構えたわたしを流し目で見やる。
そして、わたしだけに見えるように、その薄い舌で自分の下唇をそっと舐めた。
僅かに濡れた唇が光る。
ゾクッとするほど、ひどくその行為はなまめかしく見えた。
さっきまでその唇がわたしに触れていたんだと痛い程に感じさせられる。
その薄い舌の熱さや、どうやって動いてわたしの口のなかを味わうのかまで無意識に思い起こされてしまった。
その仕草に、顔だけではなく耳や首までカッと熱を持ったのが分かった。
きっといま、わたしの顔は情けないほど真っ赤になっているに違いない。
女のわたしが及びもしないくらいの色気を出せるなんて、神様は不公平だとしか思えない。
ずるい。わたしばっかり振り回されているみたいだ。

熱の引かない頬を隠すように押さえながら、ずっと翻弄されっぱなしでなんだか悔しかったので、せめてもの抵抗に「具合が悪い人に同意なく手を出そうとするなんて、良くないと思うよ」とだけ言う。
ディエゴくんはそれ以上をするつもりではなかったとはいえ、少なくともキスはされた訳だし、まるっきり嘘は言っていない。
ドッピオくんはニッコリと笑顔を浮かべ(有無を言わさずわたしに家事禁止を言い渡したときよりももっと怖かった)、それを見たディエゴくんは少し焦った顔をした。
多分、伝言ゲーム形式であることないこと色々と誇張されて、夜には他の住人全員に伝わってしまうことだろう。
午前中、気分が悪く顔を青くしていたわたしを知っている過保護気味なみんながどんな反応をするのか、想像するとなかなかに恐ろしい。

おい訂正しろと声を荒げるディエゴくんにごろんと寝返りを打って背を向ける。
未だやわらかな唇の感触の残る自分の口をそっと噛み締め、タオルケットを引き上げて、熱い火照りの治まらない顔を隠した。

砂糖菓子の如き乙女の唇を貴べ
(2014.10.14)
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