やはり静かな夜だった。

「帰らなくて良いんですか?」
「うん、博士のとこに泊まるって言ってきたから」

にっこりと子供らしい明るい笑顔を浮かべつつ、ずば抜けて優秀な頭脳を誇る幼い名探偵は、沖矢の向かいのソファへ腰かけた。

夜も更けた時頃。
彼らは本来、屋敷の所有者でも権利者でもないはずだったが――工藤邸の一室、膨大な蔵書を誇る書斎で相対するふたりは、その場に妙にしっくりと馴染んでいた。

「昴さん、住み心地はどう?」
「ああ、大学院生がひとりで住むには贅沢すぎるくらいですよ。”新一兄ちゃん”とやらによろしく」
「そっか、伝えとくよ!」

聡明そうな目を隠し、にっこりと音が聞こえてきそうなほど大袈裟な笑みでコナンは頷いた。
そのさまに、ふ、と薄く息を吐いて笑みをこぼすと、沖矢は手にしていた酒を口にした。
バーボン特有の口のなかにぶわりと広がる甘さに目をすがめる。

「ボク、今日、なまえさんのとこに行ってきたんだ」
「……僕は知人と約束があってね、今日は病室には……。彼女はどうでしたか」
「いつもとおんなじ。……看護師さんが言ってたよ。昴さん、ほとんど毎日なまえさんのところに顔を出してるって」
「恋人ならば当然でしょう?」
「――赤井さん、なまえさんのこと、」

少年がなにを問いたいのか、なにを言いよどんだのかを察し、沖矢は――赤井はまた一口、静かに赤みがかった液体を嚥下した。
湿らせるように唇を一舐めする。
鼻に抜ける薫香は、しかしまだ酩酊の心地よさを与えてくれない。
繊細なカッティングの施された薄いグラスは、外側にうっすらと水滴をまとっていた。

「恋人、か……」
「えっ、違うの!? てっきり恋人同士だと思ってたよ」

眼鏡の奥の丸い瞳が、ぱちくりとまたたく。
そう思ってたからそういう設定にしたのに、と少年は呟いた。

降って湧いたように現れた沖矢昴という人物のありもしない「過去」を補強するには、恋人という他者の存在は好都合だった。
例えそれが、意識のないまま入院している女性だとしても。
むしろ大学院に籍を置きつつ、病床に伏した恋人の元へかいがいしく通っているという人物像のせいで、意図せず悲劇性が増すという効果すら表れた。
まともな精神を持ち合わせた一般人ならば、深く事情に踏み込んで来ようとはしない程度に。

「俺は恋人だと思っていたが、もしかしたら……なまえはそうは思っていなかったかもしれん」
「……ええ、なにそれ、爛れてない?」
「おや、手厳しい」
「小学生に手厳しいこと言われるくらい、ってことだよ」
「ホォー……小学生、ね……」

意味深に笑みを浮かべた沖矢に、コナンは「なあに?」と、あどけなく首を傾げてみせた。
子供らしい目を大仰に丸くしながら。

中身はともかく、見てくれは年端もゆかぬ少年に対して、それ以上言い募ることはせず、沖矢はまた小さく笑う。
その反応を半眼で睨みつけることで流して、コナンは居住まいを正した。

「……ねえ、そんなことより。前に聞いたときははぐらかされたけど、いい加減教えてくれない?」

小さな名探偵は赤井秀一という男のことを信頼していたが、残念ながら一筋縄ではいかない人物だということも重々承知していた。
――そして、「みょうじなまえ」という女性の名を出せば、自分にとって不利な盤面を引っ繰り返すことが出来るということも、同時に。

なまえさんのこと、教えて、と真剣みを増して告げられた言葉。
呟きは、しんと静寂の満ちた室内に落ちた。
少年の目は真摯な光を帯びていた。
同じことを、なまえの病室で尋ねたときよりもずっと。

射るように真っ直ぐに見つめられた伊達眼鏡の奥で、ゆるやかにエバーグリーンの双眸が開かれた。
普段は隠されている緑の眼光は、茫洋と空を眺めた。
視線は、書斎の壁を覆う、整然と並ぶ書籍の背をすべるように流れる。

「話すのは構わんが……信じるかどうかは、ボウヤに任せよう」
「前にもそんなふうに言ってたけど、なまえさんと会ったとき、そんなにおかしな状況だったの?」

赤井の持って回ったような言い草に、江戸川コナンは逡巡しつつ首を傾げた。
大抵のことでは驚かない自信はある。
少年はそう自負していた。
自分の身に起こったことが最たる例だ。
もしこんな体になってしまう前の自分ならば――工藤新一のままだったなら、例の薬のことを話されても、「子供になる薬を飲んでその体になった? バーロー、そんなもんあるわけないだろ」と一笑に付していたに違いない。

からん、とグラスのなかで氷が揺れ、涼やかな音が漏れた。
次いで沈黙を破ったのは、薄い自嘲の笑み。
沖矢は疲れたように、ふ、と微笑して、――錆びついた蝶番を外すように、赤井はゆっくりと口を開いた。

「……ああ。荒唐無稽な与太話さ」

彼女を自分ひとりのものにしておくのは、やはり許されないことらしい。
この期に及んでそんなことを考えている自分がなぜだか無性におかしかった。

雲越しの月のように淡く光るエバーグリーンの瞳は、ようやく諦めを覚えたようにゆっくりと閉じられた。


・・・



「……後悔してるの?」

自分の澄んだ黒い目がぞっとするほど真っ直ぐに見つめてくる。
後ろ暗いもののない瞳はどこまでも無邪気で、まるで洞(うろ)のようにぽっかりと空いていた。
ずっと見つめていると、距離感や遠近感がおかしくなってしまいそうな心地がする。
なまえは逃げるように俯いた。

「してないよ」

自分の声だというのに、どこか遠いところから聞こえてくるようだった。
いまここでこんなことをしている場合ではないと脳裡によぎったのも一瞬のことで、それよりも全身をさいなむ気怠さの方がずっと勝っていた。
そもそもいまはいつで、ここがどこなのか、と尋ねることなどついぞ一度もしなかった。
もし問うたらなにか変わっただろうか。

静かに、密やかに呼吸していると、ふつふつと待ち望んでいるように思われた。
終わりを――生き物は遅かれ早かれ必ず死ぬものだというのに。
言葉にした瞬間、霧散してしまうような憂鬱ななにかが、肌に触れるか触れないかのところでゆらゆらと滞留しているような心持ちがした。

まばたきをすると、ぱっと自分の黒い目が消えた。
代わりに、霧がかった視界の片隅で、彼の後ろ姿を見たような気がした。
寡黙な背はなにも言わない。
まるでただそこにあるのが役目だと突き付けてくるように、――そこで理解した、その姿は願望だったのだと。
自分が思い描いた通りのもので、そこに自分以外の他者はいない。
ならば手を差し伸べてくれないのも道理に適っていた。
自分で自分を引っ張り上げることなど出来やしないのだから。

なまえはゆらゆらと定まらない彼の背に願った。
なにをすべきか断じてほしかった。
全て彼が決めてくれたら良い。
それに着いていくから。
なんだって受け入れる、なんだって許す、否定も抵抗もしない、ただ彼が居てくれればどこまでも果てなく従順に、――みょうじなまえだって殺してみせるから。

「……後悔なんて」

なまえの囁きは輪郭を溶かすように夜に漂い、やがてはじめから存在していなかったかのようにぼんやりと混じっていく。
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