夢うつつに、ドアの閉まる冷たい音を聞いたような気がする。

「……っ、あかいさん……?」

目が覚めると、白いシーツは既に温度をなくして冷え冷えとしていた。
ホテルの広いベッドにはなまえひとりしかいない。
はめ殺しの窓の枠いっぱいに溢れそうな夜空は深く暗い。
正確な時間は分からないが夜明けはまだ遠いらしい。
無意識に彼がいた形跡を探した。
得られたのは、薄く漂う煙草の香りだけ。
なまえは白いシーツをくしゃりと握り乱した。

日が暮れてすぐ、夜というにはまだ少し浅い時間帯、一度戻ってきた赤井はなまえを抱いて深夜また慌ただしく出て行ったらしい。
なまえは小さく溜め息を吐いた。
起きてせめて一言「行ってらっしゃい」と見送りたかった。
いま悔やんでもどうしようもないが。
ちゃんと意識を保っていられなかった自分が悪い。

追っている組織関連でかなり差し迫った状況だということは、事情を知らされていないなまえにも察することは出来た。
赤井とゆっくり会話を交わすどころか、まともに彼が休息を取っている様子すらこのところ見ていない。
体調は大丈夫なのか、しっかり休めているのだろうか。
ここ以外にも気を緩めることの出来る場所があるのなら話は別だが。
もしそうなら喜ぶべきなのだろう、……赤井のことを思うのなら。
無意識になまえは小さく唇を噛み締めた。
寂しいだとか、一緒にいたいだとか、そういった愚かしいなまえの個人的な感傷で彼を拘束して良いはずもなかった。

時間の限られている赤井のことだろう、なまえのために先程まで時間を割いていたのももしかしたらギリギリだったのかもしれない。
そう思うと、彼を責める気持ちを感じることにすら罪悪感を覚えてしまう。
元々赤井のいたこちらの世界へふたりでやって来たとき、あれほど喜んでいたくせに、と過去の自分自身をなじるしかない。
そもそもセックスのあと目が覚めたら自分を抱いた男が横にいてほしいなんて、夢見がちな処女でもあるまいし。
なんだ、起き抜けに甘ったるい言葉やキスでも欲しいのか。
馬鹿らしくて、かすれた苦笑が浮かんだ。

意識してぱちぱちとまばたきする。
目の前にあるはずの物を形作る線、全てがぐんにゃりとたわんでいた。
例えばベッドと壁との間だとか、自分の指とシーツの境目だとか。
窓や扉など、直線であるはずのものの輪郭を曖昧にしていた。

なまえは胡乱げに視線を転がした。
白いシーツはまるで果てがないように茫洋と広がっていて、このままでは窒息してしまいそうだった。
そこに乱雑に散らばる自分の黒い髪は、まるで首を絞めるために用意されたロープのように見えて、ああ、だからこれほど息苦しいのかと薄く微笑がこぼれた。

「ふふ、」

――彼といるときだけ、わたしは息をしている。
大袈裟な言い草でも比喩でもなく、ただ純粋な事実だった。
ゆっくりと目を閉じた。
眠るためではなかった。
眠るのが怖かった。
どうしていままでひとりで眠ることは出来ていたのか、理解できそうもなかった。
気を失うようにして寝ていたせいか、ちっとも睡魔はやって来そうになかった。

熱を持っていたはずの肌と、温度が移ってぬるくなった白いシーツの境目が曖昧なように、自分というものがよく分からなくなっていた。
――わたしは誰だろう、わたしをわたしたらしめているものは何なんだろう。
わたしがわたしであるといま証明できるか問われたら、きっといまのわたしには不可能だった。
なまえは静かに微笑んだ。
赤井さんがわたしを「なまえ」と呼ぶときだけ、なまえは存在していた。
彼だけがわたしを生かし、彼だけがみょうじなまえを知っていた。
誰にも認識されない人間は、果たして存在しているとはっきり断言できるんだろうか?

わたしがもし仮にここで死んだとしても、それを知るのは赤井さんだけだった。
みょうじなまえがいまここで生きていると知っているのが、赤井さんだけであるように。

赤井さんが口にしなければ、この世界でわたしを知っているひとは他に誰もいない。
そんなの、生きていると言えるんだろうか。
このまま、わたしはいつまで、ここにいるんだろう。
死ぬまで?
もし死んだとしても、きっと赤井さんのことだから上手く隠してくれるだろう、このホテル側にも悟られずに完璧に。
……まるではじめから、わたしなんて存在していなかったように。
ぞわりと肌が粟立った。

窓の外のビルや車のライトがちかちかと乱反射して乾いた眼球が眩みそうだった。
――そういえば、今日は何月何日、何曜日だったっけ?
ここへやって来てからというもの考えても無駄なことだからと、いつもの生活に必要なことだったり、この部屋の外のことだったり、そういったものから意識を遠ざけていたような気がする。
なぜなら彼がこの部屋へ帰ってきてくれることが、なによりも大切だからだ。

それに、人間の集中力には波やムラがある。
なにかひとつのことについて熟考するには、精神的にも肉体的にもエネルギーを使うのだとこの頃そう強く感じていた。
どうやら今日は駄目な日らしいと、それだけは分かった。
上手く考えがまとまらない。
とりとめなく思考はぽんぽんと浮かんでは流れ消えて、数瞬前に自分がなにを考えていたかもあやふやになっていく。
けれど「なにを考えていたのか思い出せない」「深く考えることが出来ない」という漠然とした認識だけは、部屋の隅にいつの間にか溜まっているホコリのように堆積し続けていて、自分に対する失望感や無能感ばかり頭にちらついて鬱陶しかった。

なぜだか無性に涙が溢れそうだった。
結局雫は一粒たりとも落ちなかったけれど。
体の奥や指先がかたかたと痙攣するほど冷たくて、でも頬や耳元が風邪を引いたときのように火照って気持ちが悪かった。

わたしには赤井さんしかいないのに。
わたしの一番は赤井さんなのに。
そう思うと恐ろしく幸せで、泣きそうなほど怖かった。
赤井さんと出会うまで、わたしが誰かの一番になれるなんて考えたことなんていままでなかったというのに、それを悲しいだとか不満だとか感じたことすらなかったのに。
赤井さんがわたしを上手に甘やかしてしまうから、わたしは彼の一番なんじゃないかと思ってしまった、信じそうになってしまった。
こんな愚かな幸せを失う日がいつか来るかもしれないなんて、知りたくはなかった。
いっそこんなに自惚れるほど巧妙にわたしを満たしてしまった赤井さんが憎いほどだった。

けれどきっとわたしがこんなことを考えているなんて、彼が知ったらきっと不快に思うに違いなかった。
ただでさえ違う世界から連れてきてしまったわたしはお荷物な存在なのに。
わたしには赤井さんしかいなけれど、赤井さんにはこちらの世界でいろんなひとから必要とされているとてもすごい存在だということはわたしでも知っていた。
これ以上負担に思われてしまっては、もしかしたら、赤井さんはわたしのことを億劫に感じて、いま以上にわたしのところへ来てくれなくなってしまうかもしれない。
だからこんなことを考えているなんて悟られてはいけない。
これはわたしだけの秘密だ。

わたしが、みょうじなまえが、いま生きているのか、死んでいるのか、よく分からなかった。
赤井さんに名前を呼んでもらわないと。
あのひとに必要だと思ってもらわなきゃ、あのひとに愛されなければ、わたしは、みょうじなまえは、

「っ、う……」

――わたしに、その価値があるだろうか。

ふいに気分の悪さを覚え、咄嗟にてのひらで口元を押さえた。
重怠い目蓋を無理やり引き上げれば、ザザッと砂嵐が走ったように視界が霞む。
胸に大きな石でも詰め込まれたかのように胸が塞がる感覚、視界がますます歪み、血の気が引いて体がぐらりと揺れた。
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