静かな夜だった。

満ちるのは窒息しそうなほどの静寂ばかりだった。
聴覚をなくしたかのように耳の奥が痛い。
うだるような重苦しさで、病床に就くなまえがいまにも圧し潰されやしないかと、沖矢が危惧する程度に。

――赤井秀一は死んだ。
公式に確定するまでそう長く時間はかからないだろう。
そして伝説的女優の――闇の男爵夫人の協力を得て、鏡を見てもこれが自分とは思えないほど完璧に変装しているとはいえ、いま赤井の関係者の前に安易に現れるのは危険性が高かった。
そう簡単に以前のように捜査へ自由に関与も出来ない。
沖矢昴としてやるべきことは少なくはないものの、それでもやはり時間的に余裕があるのは、赤井でいた頃よりも沖矢の姿である現在の方だった。
つまるところ、――恐ろしく皮肉なことに、赤井となまえが共にいる時間は、いまの方が多かった。
赤井が死に、なまえが眠っている、現状の方が。
――なまえは沖矢の姿を目にしたことすら未だないというのに。

ほの暗い病室の窓に、憔悴した男の顔が映る。
逃げるように、つい、と沖矢は目線を遠くへやった。
疲弊した彼の目元には、化粧でも隠せていないクマがうっすらと浮いていた。
茫洋とさまよわせた視線は、しかしなにかを見ようとしているわけではなかった。
視界には常になまえが静かに横たわっている。

「――なまえさんってどんなひとか、聞いてもいい?」

黙したままの沖矢の脳裏に、ほんの数時間前、夕方の出来事がふいに思い起こされた。
小学校からの帰りになまえの様子を見に寄ったというコナンと、偶然この病室で顔を合わせた。
その際は病院スタッフも居合わせていたため、白々しくもふたりは挨拶を交わした。
慇懃に「初めまして」と。
しかしながら薬剤や体温の定期チェックを終えた看護師が退出すると、待ち構えていたかのようにすぐさまコナンは沖矢へと向き直った。

「……しかし、」
「ボクは無関係だから、なんて言わないよね?」

なまえお姉さんを病院に運んだのはボクだってこと忘れないでね。
にこにこと無邪気な笑顔で吐くにはいささか脅迫めいた言い草に、沖矢は疲労の隠せていない顔で苦笑した。
好奇心の旺盛”すぎる”彼が、なまえの素性を勘ぐるのは至極当然のことといえた。

それでもなまえの元へコナンを差し向けたのは、ひとえに自分が容易に動けない状況だったこと、そして最も頼りになるのは彼だと赤井が判断したからだ。
果たして、その選択は正しかった。
病院スタッフの対応はスムーズだったと聞く。
身元不明とはいえなまえを搬送する救急車に同乗し、適確に容体を説明してくれたおかげだ。
そもそも救護が必要な状態だとコナンが即決したおかげで、速やかになまえを病院へ運ぶことが出来たのだ。

発見がもう数日遅れていれば危険でした、と、なまえを診察した医師は平坦な声音で言った。
なまえが倒れたと聞いて以来、まともに聴覚が機能していないのではと自ら危惧するほど五感は鈍くなっていたくせに、気難しげな初老の男性医師のそのセリフは沖矢の脳裏に強く残っていた。

なまえが危険な容態と知ってからというものずっと、目の前で起こっている事物全てが、現実味の感じられない退屈な映画を強制的に見せられているような感覚でしか捉えられないようになっていた。
こんなつまらない酷い映画と知っていたなら、序盤でさっさと見切りをつけただろうに。
きっと舌打ちしながらポップコーンを座席下へ放っていたに違いない。

細めた目を薄く開け、眠るなまえの白い顔を見下ろす。
この少年の好奇心や探求心は好ましいし、尊敬すべきところのひとつだとは思っているものの、それでもやはりなまえに関することについては出来るならば口をつぐんでいたかった。

「……なまえさんを僕の恋人ということにしようと言ったのは君でしょう」

なまえのことをあまり口にしたくない、それは彼女の存在が赤井秀一という男の最も弱い点だったからに違いない。
――しかしながらそれだけではない、赤井がなまえのことを話したくない理由が、もうひとつだけあった。
彼本人すらもはっきりとは自覚していない理由が。
エゴだ。
自分本位で、身勝手な、当のなまえすらをも無視した、赤井のエゴ。

「昴さんじゃなくて。……赤井さんとなまえさんの関係を教えてくれる?」

この病室に盗聴器や録音機器の類はないと既に念入りに確認済みだ。
伺うことが出来る範囲に聞き耳を立てているだろう人間の気配もない。

眼鏡越しの少年の瞳は真剣な色を帯びていた。
どうやらなまえと初めて顔を合わせた際の会話は非常に些細なもので、素性を探るには情報が少なすぎたのだろう。
コナンのセリフはあくまで疑問の形を取ってはいたものの、言外にごまかしは見逃さないと言わんばかりの眼光に、沖矢は思わず溜め息を飲み込んだ。

沖矢はその姿を変えないまま、口調だけ崩した。
暗い瞳を隠すように伏せ、「全くボウヤには敵わないな」と肩をすくめながら。

「なまえとの関係、か……」

なにを、どこから、どこまで話せば良いのか。
赤井はこの少年のことを心底信頼していた。
しかしながら自分となまえのことを馬鹿正直に吐露するには、少々事情が特殊すぎると痛いほどに理解していた。

すがめた目から覗くエバーグリーンは、眠るなまえから離れない。
そういえば自分は彼女の寝顔ばかり見ているな、と苦く自嘲の笑みが浮かぶ。
男の形の良い唇が、ふ、と音にならない息を吐いた。

「そうだな、初めてなまえと顔を合わせたのは、なまえの寝室だったな」
「し、寝室? 初対面が?」

その幼い容姿からは想像も出来ないほどずば抜けて優秀な頭脳を誇る名探偵が、ぱちくりと目をしばたたかせた。
中途半端にぽっかりと開いた口が随分と間抜けで、沖矢は薄く口角を上げた。

どういうことかと訝しげに眉を寄せていたコナンは、含みを持たせた沖矢の薄い微笑にからかわれたと思ったらしい。
赤井さん! と不服の声をあげた。

しかしながら赤井の言葉はどこまでも事実起こったことで、それは彼にもどうしようも出来なかった。
理由や原因は未だ赤井にもなまえにも分からない。

ふざけないで、と不満げに顔をしかめたコナンに、沖矢は肩をすくめた。
一夜の過ちといった発想もないらしいところを見るに、やはり見目相応の年浅さは嘘ではないのだろうか、と場違いなことを考えていた。
そもそもリスクを顧みない行きずりといった俗っぽい――ある意味「現実にありうる」出会いの方が、まだ説明できるというものだったが。

「ふざけてなどいないさ。事実だからな」
「……ふうん?」
「安心していい、少なくとも組織とはなまえはなんの関係もない。残念ながら身元の証明は出来んがね」
「……まあ、赤井さんがそう言うならいいんだけどさ……」

気色ばんだ様子でコナンが溜め息をつく。
納得していないのは明らかだったが、これ以上沖矢がなにか情報を開示する気はないと大人しく察してくれたらしい。

顎に手を当て、ふむ、と小さな名探偵は考え込みはじめた。
コナンのこの切り替えの早さは、赤井が気に入っているところのひとつだった。
必要なときに必要なことを考える集中力というものは、一口に言うほど簡単ではない。

「沖矢昴の関係者……恋人として、なまえさんを入院させる手続きは問題なく終わった?」
「ああ、少々手は焼いたが。いかんせんなまえは身分証明書のひとつも所持していないもんでね」
「ひとつも? そりゃあ大変だったでしょ……。沖矢さんの住居は?」
「問題ない、こちらで用意した」
「そっか……じゃあ、ボクと沖矢さんは、なまえさんの病室で初めて会ったってことで良い?」
「ああ、ボウヤは沖矢の恋人を助けた恩人ということになるな」

身元不明の女性を入院させるのはそれなりに骨が折れた。
他人と取り違えて処置や投薬に誤りがあっては医療機関として致命的なミスで、それだけで事件性を帯びる。
病院側の大きな問題になってしまうとあって、本人確認は慎重かつ厳密だ。
元より引き取り手である沖矢昴という人物そのものの立場が不安定だということもあり、結局、事情を知りかつ公的な立場を持つ自分の上司へ協力を仰いだ。
いつも冷静沈着なボスが、動揺して言葉を無くしている様子はなかなか稀なものだった。
一連の殉職劇における彼への露呈は筋書きにないものだったとはいえ、遅かれ早かれ事情は話していただろう。

何かあればこちらの電話番号に、と新しく用意した携帯電話のナンバーを手渡す。
そういえば、とコナンが首を傾げた。

「なまえさんが入院してるって連絡しなくてもいいの? 家族とか……」
「彼女には両親をはじめ親族はいない。それどころか友人知人の類も全てな」
「全て? 肉親も知人もって、……どうやって?」

人間が他者と関わりを持たず独りだけで生きていくのは、考えているより難しい。
一人の人間が一人の人間と接するとき、関係は一と一だけでは完結しないからだ。
なまえが赤井と関わり、赤井を通してコナンと繋がりを得たように。
今後、コナンを通して他の人間とも関わっていくかもしれない。
そうして蜘蛛の巣のように他者との関わりは広がっていく。
過去を捨てることは出来ても、存在をはじめからなかったことにする、痕跡を完璧に抹消するなんてことは限りなく困難だ。
赤井秀一という男が死んだと思わせることは出来ても、その存在を人々の記憶から消すなどどう足掻いても不可能であるように。

さてな、と言葉少なに呟いた沖矢に、コナンは今度こそ更なる追及を諦めなかった。
聡明な瞳が真剣な色を帯びて光る。
窓から射し込む斜陽が射抜くように目に眩しく、病室を茜色に染めていた。

「……ねえ、なまえさんって、何者なの?」

赤井となまえの関係ではない。
みょうじなまえという人物、そのものを疑う問いかけ。
――その問いに、自分はなんと答えたか。

沖矢は悄然となまえを見下ろした。
彼女は未だ昏々と眠り続けている。

現在の時刻は二十二時を僅かに過ぎたところ。
病室には沖矢ひとりしかいない。
近親者だと申告して夜間もこの病室に留まることを許可されたが、本来沖矢昴に親密な人物など皆無だ。
そしてこの世界には元々みょうじなまえという人間は実存せず、コナンの探ろうとしていたバックグラウンドなどあるはずもなかった。
架空の男と、存在するはずのない女。
ふたり揃って随分な身分だな、と暗く沸き上がる情動を掻き消すような薄い嘲笑が滲んだ。

必要に駆られ、数人の協力者になまえのことを伝えたが、それでもやはり彼女に関することについて出来るならば口をつぐんでいたかった。
卓越した頭脳で、赤井の殉職劇の筋書きをつくってみせた、江戸川コナンという逸材にすら。

――これはエゴだ。
赤井秀一という男の、どこまでも自分本位で、身勝手な、当のなまえすらをも無視したエゴ。
男の腹の奥底に眠っていたもの、それは、みょうじなまえのことを知る人間をこれ以上増やしたしたくないという、――彼のどこまでも個人的、独善的な情動だった。

なまえを知る人間が、なまえが知る人間が、この世界においてただ「自分」ひとりだけ。
通常人間が生きていれば到底ありえないことだったが、それでも願望や妄想などではなく、純然たる事実だった。
あのホテルの一室にいる限り、みょうじなまえは完全に赤井のものであり、赤井はみょうじなまえのものだった。
独占欲や支配欲は、暴力的なまでの多幸感によって満たされた。
この途方もなく甘美な優越感を、容易に手放せるだろうか?
唯一の存在をどうして他人と共有できるだろうか?

相変わらずなまえの顔は透けるほど白く、不健康さばかり際立っていた。
沖矢は――赤井は、懺悔するように項垂れた。
両肘をつき、祈るように指を組み合わせる。
病室の簡易ベッドは彼の上体を受け止め、きし、と小さな音を立てた。

――どんな状況でも的確に、かつ迷いなく引き金を引いてきたというのに、いまはなまえの血管の浮いた白い手へ触れることがただ恐ろしい。
この手は愛した女ひとり守れやしない。

「……なまえ、」

名前を呼ぶ声は無様にかすれていた。

記憶にある彼女の淡い桃色の爪先は、いつの間にか血の気の失せた鈍い色で、彼のなかで笑うなまえと現実の彼女との差異をまたひとつ見付けてしまう。
目覚めないなまえを前に、呼吸すらままならないほどの息苦しさを覚えて、組んだ指に無意識に力が入る。
この両手は祈ることしか出来ず、無力だ。

「なまえ、はやく起きてくれ」
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