――更にそれより時間は巻き戻る。

「はじめから、出会わなければ良かったとでも?」

みょうじなまえは考えていた。
一体、自分はどこで間違えたのだろうかと。

静かな夜だった。
薄く吐いた息が、立ち上ることなくゆらゆらと自分の周りに沈殿し堆積していくような錯覚を覚えた。

体を動かすのが億劫で、ぼんやりとベッドに横たわる。
はめ殺しの窓に備え付けられたカーテンは、大きく開いたままだ。
時間が時間だけに、閉めた方が良いだろうかと逡巡した。
しかし目も眩むような高層階のおかげで、外からの目を気にする必要はなかった。

ホテルからの夜景を眺めるのが好きだった、閉めるのが面倒だった、以上ふたつの理由から開けたままにすることにして――いいや、本来なまえは夜景を眺めるのを好むというわけではなかった。
動物は動くものに対し、優先して目の焦点を結ぶ習性がある。
ビルとビルの間を縫うようにして蛇行している幹線道路と、そこを這う車のライトをなにも考えず目で追うのが、ここ最近なまえの唯一の娯楽だっただけだ。
部屋にはごく一般的なテレビも備え付けられていたが、付けているだけで途方もなく情報を浴びせかけてくるその箱に疲れ、なまえが電源を落として久しい。
なまえを除けば、動くものがこの部屋にはない。
大きなホテルの一室はさすがの気密性と遮音性で、しっかりと外界から遮断されていた。
窓の枠と相まって、きらびやかな都会の夜景はさながらひとつの絵画、あるいは無声映画の一コマだった。

意識して、無音で流れるテールランプを目で追う。
気を抜けば、呼吸が荒くなってしまいそうだった。
泣く直前のように目や喉の奥が熱く、比例するように指先が冷える。
ふ、と声とも息ともつかない音が漏れた。
もし仮になまえがここで声をあげて泣いたとしても、誰かに迷惑をかけるわけでもない。
自分以外誰もいないのだから、他人がなにか思うわけでもない。
耐える必要などなかった。
それなのに、どうして自分が我慢しているのかは分からなかった。
そもそもどうして涙が出そうになっているのか、その理由すら分からないのに。

意識して自分をコントロールするのは、人間が生きていくうえで大なり小なり必要なことだ。
悲しいから泣く、怒るから怒鳴る、嬉しいから笑う、――そういった自然な感情の機微は、しかし年齢を重ねた大人が無為に晒すものではない。
自分の思い通りにならないからといって、泣いたり怒ったりすることが出来るのは、自己をコントロールできない赤ん坊くらいのものだ。
自分がなにを考えているのかなまえ本人分からないとはいえ、そのくらいの賢明さはあった。

それにわざわざ涙を流して体力を消耗させるのも馬鹿らしかった。
最近はとにかく疲れやすい。
基礎的な体力が落ちているためだろう。
行動範囲がこのベッドルームとシャワールームくらいのものだから、当然と言えば当然だったが。
あまり動かないのに食べるのもと思い、そういえば今日は水くらいしか口にしていない。
日がな一日ろくに動いていなかったせいだろう、不思議と空腹は感じていなかったので、食事のことは意識の外に追いやっていた。
随分と怠惰になったものだ、と乾いた眼球をまたたかせながら他人事のように考える。

生き物は遅かれ早かれ必ず死ぬものとはいえ、こうして静かに横になっていると、まるでゆるやかな死を待っている錯覚に襲われた。
明確に言葉に出来ない憂鬱ななにかが、肌に触れるか触れないかのところでふわふわと纏わりついているような。
見えないそれが酷く重たく、わずらわしい。
優しくベッドに縫い付けられたようで、動けない。
まるで抜け殻のようだ。

目蓋を開けていることすら疲れて、目を閉じる。
浮かぶのはやはり彼のことばかりだった。
彼はいまどうしているだろうか。
きっとなまえと比べるなんて許されないほど忙しく、身を挺して任務に当たっているはずだった。
自分がこうして日々漫然と過ごしている時間を、出来るならどうか彼に捧げたかった。
なまえよりもずっと、彼はたくさんの人から求められ、必要とされている。
元々なまえが独占して良いひとではない、
そんな男をいままで自分はずっと離さずにいたのだと思うと、心苦しさすら覚えた。
胸の奥底にきりきりと鋭い爪を立てられているような不安と焦燥感に細く喘ぐ。
息をしていることすら億劫だった。

そういった心苦しさのせいだろうか、目を閉じても一向に睡魔はやって来なかった。
空腹と同じで、日中動かなければあまり疲れることもない。
日がなこうしてベッドに横たわっていても、彼女がベッドを睡眠の用途で使用することはごく稀だった。
仮に意識を手放したとしても眠りは酷く浅く、たいてい客室に備え付けられたソファの上が常だった。

なにより、――なまえは眠ることが恐ろしかった。
原因もきっかけも未だ不明なものの、なまえがこの世界へ赤井と共にやって来たのは、ふたりで一緒に眠っているときだった。
それより前、赤井がなまえのいた世界へ来てしまったときも、彼がひとりで眠っている最中だと言っていた。
つまり、彼女ひとりが元の世界へ戻る可能性だってある。
なまえがひとりで眠ってしまえば。
原因も原理もあやふやなのだ、あまりにも不確定なことが多すぎる。
違う世界へと移動するなんてありえないと笑い飛ばすには、この世界が自分の元いたところと違うのだとなまえが確かめるに必要な時間はたっぷりと経過していた。
うつらうつらと微睡み、はっと目を覚ます。
浅く何度も繰り返す眠りにより倦怠感は日ごと増していた。
しかし、自分ひとりが突然元の世界へ戻ってしまうのに比べたら、大したことではないように思われた。

――もし、いま自分が元の世界へ帰ることが出来たなら。
彼はどう思うだろうか。
悲しむだろうか、なまえのことを恨むだろうか、それともあるいは、……連れてきてしまった人間が無事に元の場所へ帰ったのかと、荷が下りたと、ほっとするだろうか。
ああ見えて、しっかりと倫理観を持ち合わせたひとだから――そしてそれを容易にねじ曲げることだって厭わない強靭さをも持ち合わせていると知っている――、きっとこうして離れている間だってなまえに対し責任を感じているに違いない。
そう確信を抱くことが出来る程度には、彼のことを知っているつもりだった。
窓の外では相変わらずちかちかと光が明滅して、まともな思考ごと跳ねながら奪っていくようだ。

――思えば昔から、新しい環境や急激な変化というものがどうにも苦手だった。
例えば学生の頃の学校のクラス替え、あるいは仕事都合の遠方への引っ越し。
自分を取り巻く周囲が変われば、それだけ負担に感じる性質(たち)なのだろう――いまのいままで、はっきりとは自覚していなかったけれど。
いままで続いてきた自分というものが突如途切れてしまうような空恐ろしさが、胸にひたひたと浸透していく。
もしかしたらなまえ本人が思っているよりも、前触れなくこちらの世界へやって来たことによる緊張は細々と鬱積し続けていたのかもしれない。

この世界になまえの戸籍はおろか、存在していること、存在してきたことを証明できるものは何ひとつない。
きっと、赤井ならそれらの現実課題に対処できるだろうと思う。
しかしその手間すら申し訳なく、それに彼もそれを――なまえがひとりで生きていくことを、あまり望んでいないのではないかと。
なんとなく、薄々察していた。
自分を頼ってほしいと願っているのか、もしくはなまえの行動を全て把握していたいのか。
もし赤井がそう望むのなら、なまえは喜んで従うのに。
なまえはどうするのが正解なのだろうかと、泥濘にはまって沈んでいくように目を伏せた。
暗闇のなかにいると、手垢が付くほど陳腐な言い草だが、まるで世界に自分ひとりしかいないような錯覚に襲われる。

彼のためを思うなら、いますぐにでも元の世界へ戻った方が良いのかもしれない。
そもそもなまえがここにいること自体おかしなことだというのに。

――それでも、彼と離れたくなかった、眠ることが怖かった。
これはなまえのエゴだ。
赤井から離れたくないという、なまえの純粋な欲望。

「……は、嫌な女……」

そして胸の内から押し出されるように吐き出した言葉も、やはりなまえの本心だった。

赤井を大切に思うのならば、彼の立場や将来を考えるべきだと知っていた。
このまま自分に縛り付けて良いはずもない。
あれほど外見も内面も魅力的なひとのことだ、なまえを切り捨てれば必ずすぐに素晴らしい女性と一緒になれるだろう。
しかし彼はそれが出来ないとも知っていた。
赤井は、自分がいなければ生きることの出来ないなまえを、捨てることが出来ないだろう。
彼の優しさや責任感に甘えて、弱々しさを見せて健気な顔をして縋るなまえという女は、なんて醜いのだろう。
考えても仕方ない馬鹿らしい悲壮感が、ぐつぐつと燻る。
――そうして悲劇のヒロインを気取っている自分に、ますます気が滅入った。

きっとなにかを間違えた。
伏せた目蓋の裏側に、あのひとの顔を思い描く。
自分がなにかを間違えた、それだけは確かなことだった。
ただ、愛しいという気持ちひとつでふたりとも生きていけたら良かったのに。

「……赤井さん、」

いままで何度も呼んできた名前をいつものように口にすれば、思ったよりもずっと弱々しく声が震えており、無意識に唇を舌で拭い湿らせた。
どうしたなまえ、と穏やかに返ってくるはずのいつもの低い声はなく、静寂ばかり部屋に満ちる。

どこで間違えたのだろうか、もし彼と出会った頃に戻れるならば、今度はもっと上手く愛せるだろうか。
もし出会わなければ、自分のことで赤井の手をわずらわせてしまうこともなかったかもしれないのに。
もし、もし、と脳内で繰り返す無駄な”if”に、馬鹿みたいだと苦く笑った。

彼を心から恋い慕ってきたはずだった。
しかしそれは間違いだった。
赤井秀一という男を愛している、恥ずかしくて即座に口にすることは難しいけれど、胸の内にはその思いがしっかりと根付いている。
短くはない時間を共に過ごしてきて、愛情と形容される感情を彼に抱いていたはずだった。
愛情ばかりではない、近くで寄り添いずっと支えていたいという献身だって、醜い執着心だって、あの肌に触れたい、触れられたいという情欲だって、等しく。
もしもそれらの感情が誤っていたのなら、正しく愛するという行為は一体何なのか。

正しい愛とやらを教えてほしかった。
もしそんなものがこの世に存在するというのならば。

――大きな眼鏡をかけた少年が、客室のチャイムを鳴らしたのは、この次の日のことだった。


(2017.09.10)
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