少しばかり時間は巻き戻る。

なまえはいつもと同じように、ホテルの清潔なベッドシーツに横たわってぼんやりとしていた。
その日はなにも特筆すべきことなどない、茫洋とした怠惰の延長にある日常だった。
彼女ひとりしかいないダブルの客室は、やはり相変わらずしんとしている。

真四角の窓の外では、夕日が暮れつつあった。
目を刺すように強く茜がかった陽光が、その存在を示している。
なぜだかふいに、今日は何日だっただろうかと疑問がよぎったが、深く考えることなくなまえは目を閉じた。
なにかひとつのことについて熟考することが、このところ不思議とひどく億劫だった。
閉じた目蓋の裏では、先程の夕日の光が乱反射して目も眩むようだった。

――そのとき突然、なんの前触れもなく、ピンポン、と気の抜けた音が部屋に響いた。
大きな窓越しにぼんやりと外を眺めていたなまえは、だしぬけに発生したチャイム音にびくりと肩を跳ねさせた。
どうやらいつの間にか浅く微睡んでいたらしい。
ゆらゆらとはっきりしない思考を振り払うように、頭をゆるく振る。
電話の着信音やら、車のクラクションやら、気の抜けた状態のとき予期せず鳴り響く音というものは、なんであれ心臓に悪い。
それが他人の来訪を告げるものなら尚更。

欠伸をひとつこぼす。
こんな時間に部屋の清掃だろうか。
それくらいしか、突然の来訪の心当たりがなかった。
時計の針は八時を少し過ぎたところだった。
窓の外はいつの間にか暗くなっていて、それが夜の二十時を指していることを知る。
従業員が客室に立ち入るには、いささか違和感を抱く時間だ。
それにそもそもホテルの清掃員は、この部屋に三日に一度しか立ち入らない。
前もってそう頼んである。
曖昧な日付感覚が確かならば、前回は昨日だったように思う。
ならばいまこの部屋の呼び鈴を鳴らしたのは誰なのだろうか。

「……赤井さん……?」

最近まともに発声していなかったせいだろうか、人の声というよりもがさがさとかすれた不明瞭な音が漏れた。
んん、と軽く咳払いをする。
喉の辺りになにか引っ掛かっているような違和感があった。
とっさにこの客室の本来の主の名を口にしたが、すぐにその考えを打ち消した。
赤井はこの部屋のキーを所持している。
わざわざチャイムを鳴らす必要はない。
……では、誰だろうか。

彼から外に出るなとは言われてはいなかったものの、訪問者に対し不用意に開けないようにとは何度も念を押されていた。
どんな危険があるか分からないから、と。
言い付け通り放置していた方が、いいや、せめて相手が誰なのかくらい確かめても良いのではないだろうか、となまえの思考が揺らぐ。

逡巡していると、またもピンポン、と気の抜ける音が催促してきた。
チャイム音に急かされるようにそろそろと入り口へ近付き、ドアスコープを覗いた。

――そこには誰もいなかった。
なんだただの悪戯か、それとも反応が遅いせいで諦めてくれたのだろうか、と、ほっと息をつこうとした瞬間。
子供らしい、少年とも少女とも判別できない高い声が聞こえた。
ドア越しのため少々くぐもってはいたが、それは紛れもなく年端もいかない子供の声だった。

「おねーさん、ドアを開けて。急ぎの用なんだ」

どうやらドアスコープ越しに見える範囲に子供は身長が達しておらず、外を覗いたときに気付けなかったらしい。
さすがにこんな小さな子供相手に警戒することもないだろう、とチェーンを外してなまえは鍵を開けた。
久方ぶりに重たいドアを開ければ、小学生低学年ほどの年齢だろうか、ひとりの少年が立っていた。
顔の大きさに合わない、大きなレンズの眼鏡をかけている。
聡明そうな目を無邪気そうにまたたかせながら、一心になまえを見上げていた。
この子は誰だろうか。
いくら考えても、こんな小さな子供が自分を訪ねてくる理由は見付からなかった。

「ど、どうしたの? こんな時間に……、部屋を間違えちゃった? それとも、お母さんとはぐれたのかな……」

視線を合わせようと屈み込みながら、はた、と気付く。
いや、先程この少年はドア越しになまえのことを「お姉さん」と呼んだ。
知っていたのだ、なまえが、少なくとも女性が、この室内にいることを。
そしてそれを知ることが出来るのは、ある人物から直接伝え聞くという方法しかない。
なまえがここにいると知っているのは、この世界にはただひとりの男しかいない。

この少年との繋がりは相変わらず不明ではあるものの、彼の知り合いならば迎え入れるべきだろう、と判断する。
こんなところで話すのも、となまえは少年を室内に招き入れ、ソファに向かい合って座った。
そういえばこうしてひとと向かい合って話すのも久しぶりだな、と曖昧に笑みを浮かべる。
なんと口火を切れば良いのか分からず、少年特有の細い脚が床に着かずゆらゆらと揺れているのをぼんやりと見やり、ゆっくりと唇を開いた。

「……わたしがここにいるの、知っていたの?」

うん、と少年が頷くのを、やっぱり、と思いつつ興味深げに見やる。
少年は客室の様子に如才なく目を配りながら、思慮深そうに口元へ手をやった。
その様子が良くも悪くもあまりに子供らしくなく、ぼんやりとなまえは首を傾げた。

「ボクにいくつか質問させてね。お姉さんは、あの、……この部屋で生活していた男の人が言ってた”なまえさん”で間違いないんだよね」
「確かになまえはわたしだけど……。ええと、男の人って、……赤井さんのこと?」

回りくどい言い方に疑念を抱きつつそうなまえが答えると、うん、と確信を得たように少年が頷く。
男の人もなにも、この世界においてなまえは赤井秀一以外の人間を知らない。
自分の元いた世界ならともかく、こちら側の知り合いは皆無だ。
これほど長く話した相手すら、彼を除けばこの少年が初めてだった。
元来おしゃべりというわけではなかったが、誰かと会話するのが久しぶりとあってか妙に気持ちが浮き立った。
正直こうして発声するだけで少々疲労感を覚えはじめているほど。

それにしても、会話の主だった趣旨は赤井のことだろうとすぐ察せたものの、少年の物言いは妙に回りくどい。
どうやら直接的に彼の名を口にすることは避けているようだった。
少年の持って回った言い草に、なまえの胸にどういうことだろう、赤井になにかあったのかと、不安がよぎる。

「……ねえ、赤井さんがどうかしたの?」
「ごめんね、最初に言ったように、緊急なんだ。ボクの質問に答えて。なまえさんは、赤井さんのこと、どこまで知ってるの?」
「どこまでって……」
「例えば、――仕事のこととか」

ふいに、少年の眼鏡の奥の眼光が鋭くなった。
なにも悪いことはしていないはずなのに、探られ咎められているような心持ちになる鋭利な瞳。
突けば破れるように、ぴりぴりと空気が緊迫しているのが感じられた。
およそ子供とは思えない真剣な口調と眼差しに、知らず知らずなまえも息を詰めて緊張していた。

「仕事のこと……」

なんと答えようかと、なまえはわずかに逡巡した。
こんな初対面の人間に、彼のような秘匿されるべき情報について簡単に吐いて良いのか。
自分の返答によって、彼が不利益をこうむることがあっては絶対にならない。
そんななまえの迷いを読み取ったのだろうか、少年が畳みかけてきた。

「正直に答えて」

少年がはっきりと呟いた。

「ボクは赤井さんからなまえさんのことを直接聞いて、頼まれてここに来たんだ」

この少年は赤井のことを知っていた、そしてなまえのことも。
赤井から聞いてここへやって来たのなら、もうこれ以上疑うのは無駄だろう。

「……FBIの捜査官だってことは聞いたことがあるよ。大きな犯罪組織を追っているって」

それ以上のことは教えてくれなかったけれど、とゆるやかに首を傾げる。
知ってしまうことによってなまえが何かしらの危険に巻き込まれることを危惧していたのだろうとは分かっている。
それでもやはり胸をよぎる寂しさは拭えない。
赤井にとって自分はなんの役にも立たないと思い知らされるようで。
事実だからこそ、なまえはそれ以上なにも言うことなど出来なかったが。

口をつぐんだなまえを前に、得体の知れない初対面の少年は思慮深げに目を伏せた。
部屋に沈黙が落ちる。
思案気な少年の動作は、おおよそ見かけの年齢に見合わないものだった。
しかし不思議とこの少年にはしっくりきて、なんだか妙におかしかった。

それにしても、どうして彼は姿を見せないのだろう。
あのドアを開けてなまえを呼ぶのは、いつだって赤井たったひとりだけだった。
少年は頼まれてここへ来た、と言っていた。
それはつまり、いま赤井は直接なまえに顔を合わせて話すことが出来ない状態だということなのだろうか。
あるいは、――もうなまえの顔など見たくもないということだろうか、

「なまえさん!」
「っあ、……ご、ごめんなさい、ぼんやりしてたみたいで……」

既に何度か呼びかけられていたらしい。
いつの間にかぼんやりと考え込んでいたために、反応が遅れてしまった。
ここ最近、集中力にかなり波やムラがあると自覚していた。
なにかひとつのことについて熟考するには、精神的にも肉体的にもエネルギーを使う。
今日は珍しく調子が良いと思っていたが、どうやらそう良好というわけでもないらしい。

大丈夫? と心配そうに顔を曇らせた少年に、大丈夫だよと苦笑を返す。
名前を呼ぼうとして、そういえば少年の名前も聞いていないことに気が付いた。
赤井に知られたら、素性も知らずに部屋に迎え入れたのかと怒られてしまいそうだ。
怒られるのは嫌だなあと、浮かべた苦笑を深める。
眼前に腰掛ける少年へ、何と呼べば良いだろうかとなまえが尋ねようとしたところで、彼の声が低く鋭く発せられた。

「ボク、赤井さんから、お姉さんに伝えてほしいって頼まれたんだ」

真摯な瞳が静かになまえを射抜く。
真っ直ぐな眼差しに、無意識に息を詰めた。
少年がここへやって来た理由、赤井に関すること、――本題だ、と直感的に察した。

「……赤井さんに、なにかあったの」

みっともなく声が震えた。
落ち着いて聞いてね、と前置きを挟まれる。
まるでこんなに小さな子に気遣われあやされているようだ。

「教えて。赤井さんに、なにを頼まれたの、なにがあったの」
「ボクが頼まれたのは、伝言だけだよ。赤井さんは、――俺が迎えに来ることはもう出来ない、って」

聞こえた言葉を脳へ届けるまでに数秒、そしてそれを理解するまでに倍の時間を要した。
ここ最近、太陽に当たらず白さの増していた細い指が、神経質に痙攣していた。

「……ごめんなさい、言ってることがよく、」
「赤井さんがどういう仕事をしてるか、知ってるんだよね」
「……うん」

眼鏡のレンズ越しに、怜悧な瞳が静かになまえを見つめている。
歳不相応な眼差しになまえが違和感を抱く間もなく、少年は小さな口を開き、はっきりと告げた。

「組織の人間に、赤井さんが殺されたんだ」

その瞬間、なまえの意識が途切れた。

ソファに崩れ落ちた彼女に慌てて駆け寄った少年――江戸川コナンは、なまえの容体が思いの外差し迫って危険な状態だと判断した。
ずっと本人はなんでもないようにふるまっていたものの、顔色は悪く、会話を通して注意力が散漫な様子が見て取れた。
気を失った原因は「赤井が死んだ」という言葉にショックを受けた心因的なものだろう、しかし他にも身体的な差し障りがあるかもしれない。
とにかく気道を確保するために助け起こそうとすると、成人女性の体にしては妙に軽く、骨張んだ四肢、加えて低い体温が気にかかった。
熟考するまでもなく、このまま彼女を放っておくことなど出来るはずもなかった。
大きな騒ぎにはしたくなかったが、と歯噛みすると、救急車を呼ぶためスマートフォンを手に取った。
来葉峠での赤井の殉職、更に彼と深い繋がりがあるらしいなまえという女性をどのように扱うか。
この後の筋書きを、その優秀な頭脳で組み立てながら。

――きっと、遅かれ早かれ近いうちに限界は訪れていた。
後々振り返って考えてみれば、なまえにとって「赤井が死んだ」という一言は、ギリギリ溢れそうになっているグラスに満たされた水をこぼす、――いいや、グラスごと引っ繰り返して砕き割るに等しい威力を、十二分に備えていたのは間違いなかった。

夜はますます深まり、呼吸すらままならない。


(2017.08.06)
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