「はじめから、出会わなければ良かったとでも?」

沖矢昴は考える。
一体、自分はどこで間違えたのだろうかと。

ここは病室、目の前には眠る女、窓の外は静かな夜。

簡素な白い室内では心電図の立てる断続的な電子音ばかり響く。
その音はなまえが生きていることを明確に伝えてくれてはいたが、しかしながらそこに示されているパネルの数値は、成人した一般的な女性の状態を表すにはいささか頼りなかった。

みょうじなまえは昏々と眠り続けている。

色の失せた唇からは薄い呼吸音しか聞こえない。
かつて彼が触れ、愛した肌は――”沖矢”はなまえに触れたことなどなかったが――、ひどく白く、薄暗い病室と相まって、ゾッとするほど無機質に見えた。
ふるえもしない目蓋はやはり抜けるように白く、初めて彼がこの病室を訪れたあの日から全く変化がなく、それを日々見てきた沖矢にますますどうしようもない虚無感と、なにも手の施しようがないのだという無力感とを、深く深く植え付けた。

目を覚まさないなまえを前に、男はただ茫洋と立ち尽くしていた。
命に別状はない。
しかしひどく衰弱していて基礎的な体力が落ちているためにいつ目を覚ますかは分からないというのが、彼女を診断した医師の見解で、その言葉通りなまえはただひっそりと横たわっていた。

男の記憶にあるなまえは、ほがらかで、清らかで、愛らしく、健やかな女性だった。
目を閉じて、まるい頬が紅潮するさまを思い浮かべる。
まさしく春の日の穏やかな日差しのようななまえの姿は、人間の醜いところも、汚れたところも、暗いところも知っている彼が、手放しでそう感じるほどに輝いて見えた。
救いなど自分には必要ないと思っていた彼が、心から欲した福音だった。
名前を呼べば面映ゆそうに口元をゆるめて微笑むさまだって、夜を思わせるやわらかな黒い瞳だって、意識せずともすぐにでも脳裡に思い描くことが出来るのに。

目を開けて、眼前で横たわるなまえを暗澹と見やる。
――これは、誰だ。
うすらと開けた沖矢のエバーグリーンの瞳は、薄暗く濁っていた。
彼が佇んでいる病室の空気は、じっとりと停滞しているようだった。
ゆるやかに酸素の濃度が低下していくような、重たい息苦しさを彼が覚えるほど。

きっとなにかを間違えた。
静かに目を伏せ、歯噛みする。
自分がなにかを間違えた、それだけは確かなことだった。
そうでなければ、いま彼女がこうして病床に就いている理由など見当らない。
なぜならいま居るこの世界でなまえが繋がりを持っているのは、赤井秀一という男ただひとりだけだったからに他ならない。
彼女が何がしかの影響を受けることが出来る対象は、自分だけだった。
そのことに胸の奥で抱いていた仄暗い喜びこそが、そもそも罪深いものだったのか。

一番大切なものを取りこぼし、失ってから、それがどれだけの比重を自分のなかで占めていたのかを思い知る。
もうそんな愚かなことは繰り返さない、大切にしたいと思うものは、手を離したり遠ざけたりせず、自分の管理できるてのひらの内にしまい込む。
遠い過去に彼が強く胸に決めたことだった。

そうして大切に大切に慈しんできたはずのなまえを、どうやら自分はいつの間にか傷付け追い詰めていたらしい。
新しい環境や急激な変化が苦手だと言っていたなまえのことだ、口にしないままずっと負担に感じていたに違いなかった。
目を覚まさぬなまえを前に、これほど追いこんだことについて、出来るなら許しを請いたいと強く願う。
いいや、許しなど要らない、しかし、せめて謝罪くらいはさせてもらえないだろうか。
何に対しての謝罪なのか、自分は果たして理解しているのだろうかと自問しつつ、――この期に及んで、駄々をこねる幼子ほどの甘さでなまえに縋ろうとしている自分に気付く。
思わず吐きかけた溜め息を飲み込んだ。
ただ、愛しいという気持ちひとつでふたりとも生きていけたら良かったのに。

「……なまえ、」

いままで何度も呼んできた名前をいつものように口にすれば、思ったよりもずっと情けなく声が震えており、無意識に唇を舌で拭い湿らせる。
沖矢の声で紡がれた彼女の名は、まるで知らない人間のもののようにそっけなく響いた。
なんですか、赤井さん、とやわらかに返ってくるはずのいつもの声はなく、控え目な電子音ばかりが部屋に満ちる。
色の失せた唇は、やはり薄い呼吸音ばかり吐いていた。

どこで間違えたのだろうか、もし彼女と出会った頃に戻れるならば、今度はもっと上手く愛せるだろうか。
もし彼女と出会わなければ、これほど苦しめることもなかったかもしれないのに。
もし、もし、と脳内で繰り返す無駄な”if”に、愚かしいと自嘲する余裕すらない。

彼女をきちんと大切にしていたはずだった。
しかしそれは間違いだった。
みょうじなまえという女性を愛している、即座にそう断言できる。
短くはない時間を共に過ごしてきて、愛情と形容される感情を彼女に抱いていたはずだった。
愛情ばかりではない、守りたいという庇護欲だって、醜い執着心だって、その肌に触れたいという情欲だって、等しく。
もしもそれらの感情が誤っていたのなら、正しく愛するという行為は一体何なのか。

正しい愛とやらを教えてほしかった。
もしそんなものがこの世に存在するというのならば。

――なまえは未だ深く眠り続けている。


(2017.08.06)
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