ぷかりと吐いた紫煙は風に煽られ、蛇のようにのたうちながら空へ立ち上っていった。
肺と空気を汚すだけの煙は、時間が経過するごとにぼんやりと行先を曖昧にしていく。

「はあ……聞いてくださいよ、降谷さん」

このオフィスビルのバルコニーは本来禁煙だったはずだが、どうやらここの人間はこのスペースを喫煙所代わりにしているらしい。
ご丁寧に、風で吸い殻が舞わぬようしっかりした灰皿までこっそり置いてあった。
確かにこのフロアから喫煙所は遠いからなあ、と恩恵にありがたく預かりながら、欄干に凭れかかってまた煙を吐く。

横でタブレット端末を操作していた降谷さんは、顔を上げることなく「はあ?」と口をひん曲げた。
まあまあそう言わず、と苦笑をこぼす。
いつもの報告がてら、他愛ない世間話くらい許されると思いたい。

「それで?」
「え? それでって」
「チッ」
「ひえ、こわ……。折角きれいな顔をしているんです、そんな怖い顔しないでくださいよお、迫力がすごいんだから」
「無駄口を叩きたいのか、喧嘩を売ってるのか、どっちかにしてくれないか、みょうじ」

喧嘩なら買うぞ、と今度はご自身のスマートフォンをチェックしながら、降谷さんは片眉を上げてみせた。
どうやら気乗りはしないご様子ではあるものの、わたしの世間話にお付き合いしてくれるらしい。
まあ十中八九、他の捜査員からの連絡を待つ間の暇潰しであることははっきりしているとはいえ。
暇なんてものがこの上司さまにあるのかどうかは、はなはだ疑問ではあるが。

「喧嘩は売ってないですし、わたしのお話はただの恋バナですよ」
「ただの恋バナって……」
「あ、心底面倒臭いなこいつってお顔だ」
「よく分かったな、優秀優秀」
「褒められている気がしない……」
「それにしても、恋バナって……君、よくそんな暇があるな」
「確かに忙しくはありますが。さすがに降谷さんほどではないです」

むしろ降谷さんより忙しい人間なんて、そうそういないのではないだろうか。
犯罪組織に単身潜入し、トリプルフェイスを使い分ける公安きってのエース、降谷さんよりは大抵の警察官なんて比較にならないほど多忙を極める。
まあそりゃあこちらも忙しいんですけどね!
こうしてぼけっとわたしが煙草が吸えているのも実に数日ぶりで、臓腑や脳髄にまで染み渡るような煙に、ぐらりと気が遠くなるほどだった。
いま現在、身分を偽ってこのオフィスビルに入る企業に潜入しているわたしとしては、会社と庁舎の往復中にすら煙草が吸えず、少々ストレスが溜まっていた。
昔は庁内どこでも煙のにおいがしたもんだったがなあ、というのは年配の捜査官の言だ。

「僕も知っている奴か?」
「奴?」
「相手だよ、意中の。この会社の人間か?」
「それは……」

興味本位という口ぶりはそのままに、冷静な視線で問われる。
万が一わたしが潜入先で情を移してしまい、任務に支障があってはならないからだろう、ちらりと投げられた流し目は検分する色を含んでいた。
心配しなくても、と煙草を口に咥えたまま、両手を挙げてひらりと振ってみせた。
ホールドアップ。
降参するつもりはさらさらないが。

「うーん、降谷さんも知ってるひとですけど、教えてあげません」

淡い片思いくらいだったら報告義務はありませんよね、と肩をすくめる。
なんとまあ、可愛らしいフレーズだろうか。
立ち上る煙の行き先を目で追った。
淡い片思いというものも、同じようにゆらゆらと寄る辺なくいつか消えるだろうか。

「仕事や任務に支障のある相手では決してありません、ご心配なさらずとも!」
「そこは気にしてないさ、君ならな」
「どうだか……」

この恋心が原因でなんらかの失敗なんて起こしそうもないから、人知れず思い慕うくらいは許してほしい。
苦笑してまた浅くフィルターを吸う。
細いシガレットはもう短く、残りわずか。
名残惜しく、無意味にチップペーパーに口を付けては離す。
貧乏臭い吸い方なんてしたくないけれど、吸い終わったらきっとこの時間もおしまいだろうと察していた。
その証拠に、降谷さんがチェックしていたタブレットの液晶画面はとうに真っ暗で、ただ彼のご厚意でこうして会話できているのだと苦笑する。

「それでどうしたいんだ、みょうじは」
「どうしたいって……彼には恋人がいるので、まあ、いかんともしがたく。現状維持でしょうね」
「欲がないな」
「欲、というか……」
「相手なり恋敵なり上手く誘導して、自分の方へ落ちてくるよう仕向けたら良いだろう」
「わあ、さっすが策士」

さも当然と言わんばかりに首を傾げた降谷さんに、口の端が引き攣る。
まあ、確かにこのひとならば、他人の思考なり行動なりをそれとなく強化して、自分の思惑通りに事を運ばせるなど朝飯前だろう。
なんとも恐ろしいひとだ。

「ううん、しかし、略奪愛はちょっと……」
「なんだ、煮え切らないな」

面倒そうに眉をしかめる降谷さんに苦笑して、またぷかりと紫煙を吐く。

「わたしもその恋敵のこと、大切に思ってしまっているんですよねえ……。だから彼がわたしに目を向けてくれないのも、仕方ないかなと」

指の先がじりじりと熱くなってきた。
どうやらこの時間ももう終わりらしい。

わたしの言葉に目を見開いた上司は、次いで、仕方ないと言わんばかりにうっすら笑った。
日に照らされたその姿ははっとするほど美しく、うっかり見惚れて手指を火傷するところだった。

「……お前はいい女だよ」
「わあ、超絶モテ男のイケメンエリート降谷さんにそうおっしゃっていただけるなんて、光栄ですう」

冗談めかして笑いながら、自分の携帯灰皿に吸い殻を放り込む。
指紋や唾液の付着した吸い殻をどこそこに残しておくなんて、恐ろしくて出来やしない。
脱いでいたグレースーツの上着を羽織り、ぐ、と伸びをした。

「さて、午後もお仕事がんばります」
「ああ、それじゃあ僕は戻る」
「さーいえっさあー」
「……みょうじ」
「気が抜けていましたお許しください降谷さん、どうぞお戻りください」

ね! と全力のぶりっこを披露して首を傾げれば、降谷さんは溜め息ひとつ吐いて、わたしへのお小言を引っ込めてくれたらしい。
ひらひらと手を振りながらバルコニーを後にした。

ひとりそこに残ったわたしは、小さくなっていく彼の後ろ姿に溜め息をひとつこぼした。
面映ゆい心地がして、少しだけ唇を噛み締める。
誰も見ていないというのに両手で顔を覆い隠し、てのひらのなかに、もう一度、溜め息を吹き込んだ。
頬だけでなく、手や吐息すら熱かった。

「……何やっているんだか」

きっと自分の、「淡い片思い」とやらのせいだ。
風上に立っていたとはいえ、彼のグレースーツにも多少なりとも移ってしまったに違いない、紫煙にすら嫉妬する。
わたしが追い縋れないその背に、簡単にまとわりついてしまった煙にすら。

「……はあ……不毛だな……」

欄干に背を預け、嫌味ったらしいほど晴れ渡った青空を見上げる。

恋敵は国だなんて、本当に、不毛としか言いようがない。
――ああ、彼を、降谷零を、この国から奪ってしまいたい。

盗人萩

例の「僕の恋人は……」のセリフから。盗人萩の花言葉は「略奪愛」。可愛らしいピンク色の小さな花が咲きます。

余談。
盗人萩は「くちなし」と同じ夏の花。


(2018.07.04)
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