さあ、自殺しよう!

なんてあらかじめ考えて死ぬ人間はそういないらしい。
ついついふらっと「ここで死ねば嫌なことから逃げられるな」と軽い気持ち、追い詰められ緩んだ判断で断ってしまうものらしい……命を。
わたしは死んだことがないから知らないけれど。

目も眩むほどの高層階、関係者以外立ち入り禁止の屋上に侵入できてしまったわたしは、柵を乗り越え、ぼんやりと遮るものなく贅沢に広がる夜景を堪能していた。
夜も更けきり起きている人間もそう多くはないだろうに、広がる夜景はまだまだ宵の口だと言わんばかりにきらきらと輝いている。

どのくらいぼんやりとLEDの可視照明群を眺めていただろうか。
ぶわりと風が吹き抜け、屋上の淵で空中へ投げ出していた脚がぶらぶらと揺れたところで、わたしは履いていた華奢なミュールを屋上の床へ丁寧に並べて置いた。
このままだと風に煽られて、足の甲を頼りないストラップで覆うだけのミュールなんて簡単に飛んで行ってしまうだろう。
ついでに手にしていたスマートフォンも横に置いて、さて、と改めてコンクリートの切れ端、淵へ立った。

東都でも有数の高級ホテルに、自殺者という不名誉極まりない泥を塗ってしまうことに対しては非常に申し訳なく思う。
お客さんが減ったらごめんなさい。
なんて内心、謝っておく。

表通りに面した方角ではなく、従業員用通路の真上であるここは、人通りはおろか、ネズミの一匹たりとも見当らなかった。
まあこの高さだから見えないだけなんだけれども。
とにもかくにも、この時間、ここならだれか他人を巻き込んでしまうことはないだろう。
わたしの死体を発見するひとには申し訳ない限りだけれど、……いや、死んだ後のことまで配慮する必要なんてないかもしれない。

そもそもわたしがこうして、ようし、死のう、と思ったのも、こうして要らぬところまで気を回し過ぎてしまう性根が少なからず関係していたかもしれない……なんて自己分析する程度には冷静だった。
直接の原因は、社会に疲れました働きたくありません、生きていたくありません、というなんとも自堕落なものだけれど。
死ぬ前に、会社のあのセクハラパワハラクソジジイの上司を一発も殴れなかったのは心残りではあるけれど……上司による悪行をひとつひとつ思い起こそうとしたところで、意識的に待ったをかけた。
いやだいやだ、死ぬときにまであいつのことを考えたくない。
それに、それは別の物語だ、いつかまた、別のときに話すことにしよう。

痛いのは嫌だなあ、落ちている途中で失神できたらベストなのだけれど。
端も端、あと一歩足を踏み出せば空中へ、という淵で、いち、にの、さん、と口に出そうとしたところ、――まさかの「い」で待ったがかかった。
間抜けに「い」の形に伸びた口の端が、ぴくりと引き攣る。

「――ここでいま騒ぎを起こされると困るんですよねえ。……特に自殺だなんて」

悪魔はそのひとにとって魅力的な姿で現れる。
ふいに、どこかで読んだことのあるフレーズを思い出した。
あれはなんの本だったっけ。

――まるで神さま、あるいは悪魔のような男だと思った。

褐色の肌はテンパリングされたミルクチョコレートのように美しく、そのくせまるで甘さなんて感じられない冷えた瞳が冴え冴えとまたたいている。
しなやかな肉体、均整のとれた長い四肢、鼻梁は品良く高く通り、やわらかそうな金糸は月の光を浴びて、細かい粒子をまとわせているようにほんのり淡く光っていた。
虹彩よりも僅かに色を濃くする青いポーラー・タイを首に締め、黒いベストを着た彼は、一見すると現実味がないほど洒落て気取っているように見える。
けれどその浮世離れした衣裳が不思議としっくり似合っているのは、エキゾチックな顔貌ばかりでない、漂う雰囲気のせいだろうか。
白い手袋に覆われた手を腰に当て、屋上のドア付近に立っているその容貌は、一度目にしたら忘れることなんて出来ないほどに美しい。

一瞬呼吸を忘れたわたしを訝しむように、神さま、あるいは悪魔が口を開いた。

「どうして分かったか、なんて顔をしていますよ」
「……まあ、そりゃあ」
「簡単なことですよ、このホテルでは今夜、ある組織に関連した企業がパーティーを開いていましてね。服装も所持品も、どう見ても招待客ではない、ここの宿泊客でもなさそうなあなたが、ふらふらエレベーターや階段を探していれば、変に目立つのも道理でしょう」

形の良い口を開けば、思ったよりも長ったらしいセリフが飛び出した。
どうやら神さま……いいや、悪魔の方が近しいか。
彼はわたしを見逃してくれるつもりはさらさらないらしい。
多くの日本人のように、クリスマスに騒いで大晦日にお寺、新年に神社に行くタイプの大して信心深くもないわたしは、む、と口を尖らせて悪魔から目をそらした。

「……別に。ただ単に、特等席で夜景を見たかっただけですよ」
「ホォー? ならその並べた靴はなんですか。ああ、今夜は暑いですもんねえ、靴も脱いでしまいたくなる。まあ、あなたの靴はミュールで、脱ぎ捨てたところで体感温度はそう変わらないと思いますが」
「……とんでもなく意地の悪い言い方をしますね。わざわざこんなところまで、おしゃべりに来たんですか」

そう言うと、褐色の肌の悪魔は不快げに顔をしかめた。
ええ、いまのどこにそんな顔をする要素があっただろうか、と怪訝に思っていたわたしは知るよしもない。
彼が憎んでいる、深い因縁のある男性と、全く同じ物言いをしてしまったということは。
本人、降谷零からずっと後になって聞かされた。
東都水族館のあの大きな観覧車の上で、例の男性と殴り合っただなんて、本当に規格外というか――まあ、それは別の物語だ、いつかまた、別のときに話すことにしよう。

機嫌の悪そうな顔をさっさと収めた悪魔は――金の髪を風に揺らして微笑んだ。

「大方、人生に悲観してといったところですか。あなたは恋人にフラれて自死するような性質(たち)でもなさそうだ」
「……言いたいところは多々ありますけど、まあ、そんなところです。仕事もプライベートも全部、捨てたくなっちゃって。疲れたので」

つまんない人間でしょう? と肩をすくめて笑う。
神さま、あるいは悪魔は、なにも答えなかった。

本当に、つまらない人間だ。
けれど、つらい、苦しい、逃げたい、と思って逃避して、なにが悪いのだろう?
わたしよりつらいひとなんてたくさんいる、そんなことは言われずとも分かっている。
わたしよりもずっと不遇な目に遭っているひとも、わたしよりもずっと苦しんでいるひともいるだなんて、そんなこと、だからどうしたっていうのだろう。
だからといって、他人がわたしの人生を代わりに歩んでくれるかというとそんなことはなくて。
わたしが他人の代わりに生きることもない。

偽善者ぶって「自殺なんていけない」なんて諭しておいて、わたしの人生に口だけ出してあとは責任は取れません、なんて、ああ――、

「もういいんです。あの世も来世も信じてないですけど、とりあえず今世からは脱落しておきたいので」

だから、ねえ。
パーティーとやらに戻ってください。
あなたのいないところで、場所を変えて再チャレンジしてみます。

苦笑したまま言いながら、並べて置いていたミュールへ爪先を突っ込む。
仕方ないから飛び降りはやめておこう、無難に自室で首でも吊ろうか、いや、苦しそうだしなあ、なんて考えていると、すれ違いざま、彼に腕を取られた。

「……自殺しちゃいけない、君は生きなきゃいけない、なんて諭すようなタイプっぽくないですけど。それに、そういうのは求めてません」
「そう見えます?」

うっすら微笑んだ悪魔は、感情の伺えない、血の通っているのかも危ぶむ程度に硬質な微笑でわたしを見た。
微妙に伸びすぎ尖った爪先が、シーツやレースに引っ掛かるような、数秒後には忘れてしまう程度の違和感、面倒臭さのような感覚を覚えた。

本物なのか疑いたくなるほどきれいな青い瞳が、静かにふつふつと怒りのようなものを湛えている。
――赤い炎よりも、青い炎の方が、温度が高い。
子供の頃、学校の理科で習ったそんなことをふいに思い出した。
どうしてそんな顔をするのか、このときのわたしには理解できなかった。
志半ばで死んでいった、彼の幼馴染や友人たちのことなんて、そのときのわたしには知るよしもなかったから――いや、それは別の物語だ、いつかまた、別のときに話すことにしよう。

「……僕のために生きてくれませんか」

は、と意図しない声が漏れ出た。
月の光を浴びた彼は間近で見てもやはり気後れするほど美しく、思わず息を詰めた。

「……なにを言って、」
「いまから失われるあなたの命について、提案がひとつあります。あなたの人生を僕が貰い受けるというのはどうでしょう。あなたがあなたの人生を放棄するというなら、僕がそれを代わりに生きるというのは。どうせ捨てるんでしょう? 僕にくれませんか」

なにを言っているんだ、と思った。
ついさっきまで責任も取れないくせに、他人の人生に口を出すなと思っていたわたしに、まるで考えていることを読んだかのように、神さまは――いや、悪魔か、ああもうどちらでも良い、わたしの想像の埒外にいる彼は、滔々(とうとう)と流れるように呟いた。

「ねえ、僕のために生きてくれませんか。その代わり、僕は――なにがあっても、君を守る」

ああ、なんて、甘美な!

わたしの人生で、これほど魅惑的で、これほど抗いがたい言葉を聞いたのは、生まれて初めてのことだった。
なにがあっても、わたしを守る、だなんて。
いままで人並みに付き合ってきたどの恋人にすら、言われたこともないのに。

魂を抜かれたように、ふらふらとその手にすがる。
いつのまにか白い手袋を外していた彼は、しっかりとわたしの手を握り締めた。
重なった褐色の素手はちゃんと温度があり、そのことにわたしは場違いな驚きを覚えていた。

「……神さまかと思ったら、悪魔みたいなひとですね」

呆然と呟くと、神さまはぱちくりとまばたきをひとつした。
さらりと月の光をまとう髪を揺らすと、低く笑った。

「……俺は人間だよ」

嘘だ、と思った。
それほど、このひとは美しかった。
一時の気の迷いで構わない、人生を捨てようとしているわたしには、まあ、予想外だけれど悪くはない選択のように感じられた。

――夜が明ける。
幾重にも折り重なったベールを払うように、薄桃色を滲ませた空の端はまばたきすら惜しむほど刻々と色を変える。
黎明は目に刺さるように鮮烈で、やはり彼のように美しかった。

ああ、悪魔とでも契約した気分だ。
彼と共に屋上を去りながら呟く。

「絶望のなかにも焼けつくような強烈な快感が、って気持ちをいま味わっています」

おや、とでも言いたげに、男は片眉を品良く上げた。
その表情を見て、また口を尖らせる。

「自殺未遂者がロシア文学に興味があるのは、そんなに意外ですか」
「いいや、思ったより使えそうだと感心したんだよ。教養はないよりあった方が断然良い。それに自殺者とロシア文学は相性が良いと思わないか?」
「……まあ、フランス文学よりは」

どうしてわたし、高級ホテルのエレベーターでこんな会話を、と脱力する余裕もない。
彼は気取った仕草で頬に手を当てた。

「ことに自分の進退きわまったみじめな境遇を痛切に意識するときなどはなおさらである、だったかな」
「そこまでちゃんと覚えてませんよ」
「だから君はダメなんだ」
「あっ、そのセリフ、職場のパワハラ上司に似ているからやめてください」
「そうか、君のとこの上司は見る目があるな」
「ねえ、わたしが言ってること理解してます?」
「さて、君がこの状況に快楽を覚えているということは分かるが」
「……言い方がおっさんくさい……」
「おっさんだからな。僕ももう三十路だ」
「は?」
「言ってなかったな、僕は降谷零。このホテルには、ある犯罪組織の幹部としてパーティーに出席していた」
「は?」
「その間抜けな口を閉じてくれ、気が滅入る。僕はこのあと組織の仕事があるから二時間後、このメモの場所に来てくれ」
「は? ええっと、……霞が関ってここ、確か警察、」
「それじゃあ、また――みょうじなまえ」
「え、どうしてわたしの名前、……って、あっ! わたしのスマホ、返してください!」
「私物の管理はしっかりな。後で返す」
「……うう、騙された気分だ……クーリングオフが欲しい……」
「人生にそんなものはない」

そうして悪魔の手を取ってしまったわたしだったけれど、まさかその悪魔が実は普段地味なグレースーツをまとう警察官で、それも、世界的犯罪組織に潜入する捜査官だったなんて、……誰が想像できただろう?
挙げ句、戸籍や本名を奪われてしまった上に、「協力者」として(はっきり「作業玉」と呼んでくれた方がまだマシだ)、ギリギリ法に触れるか触れないか程度にグレーな……いいや、たまに完璧に真っ黒な違法作業をさせられるようになってしまうのは、――それは別の物語だ、いつかまた、別のときに話すことにしよう。

落下地点の変更による諸般の問題

ドストエフスキー「絶望のなかにも焼け付くような強烈な快感がある。ことに自分の進退きわまったみじめな境遇を痛切に意識するときなどはなおさらである。」、エンデ『はてしない物語』(1979)より。


(2018.06.14)
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