思いの外やわらかい、猫毛っぽい蜂蜜色の髪をすく。
形の良いまるい頭を撫で、ゆっくりと指と指の間からさらさら逃げる感触を楽しむ。

久しぶりに恋人が帰宅したと思ったらスーツの上着とネクタイを放り投げ、ソファに崩れるよう座り込んだら、誰だって驚くと思う。
普段そんな乱雑な仕草や行動を取らない彼ならば、余計に。
「大丈夫?」と聞けば「……大丈夫だよ」と答えるひとだと知っているから、わたしは「おかえりなさい」と近付いて……突然、腕を引っ張り込まれた。
ソファに腰掛けた彼の上に乗り上げるよう、膝立ちになってしまった。
そのまま有無を言わせずわたしの胸元あたりに顔をうずめた零は、そのまま一言も口をきかない。

「れい、」
「……うん」
「いや、うん、じゃなくて」

……そしていまに至る。
わたしのところからは時計は見えないし、少しでも身じろぎすれば咎めるように、ぎゅう、と抱き締める腕の強さが増すので、大人しく抱き枕に徹するしかない。
かれこれ十分くらいは少なくともこの体勢だ。
ずっと膝立ちの体勢なもので、膝はもちろん、太腿の裏がぴりぴりと痺れるような感覚に襲われてきた。

とはいえ数日ぶりの恋人の体温に、離れろと言うほど無粋ではない。
わたしだって彼の帰りをずっと待っていたのだ。
東京サミットが開催される予定だった国際会議場での爆破テロ、それをきっかけに、顔を見せないどころか連絡のひとつもなかった彼の、数日ぶりの帰宅。
大きな怪我を負って、満身創痍な彼のしたいことくらい、わたしに出来ることなら全部全部叶えてあげたかった。

部屋に満ちるのは沈黙ばかりとはいえ、その無言すらもいとおしい。
手持無沙汰に胸あたりへ俯せる頭を撫でたり、いつもより少し傷んだ蜂蜜色の髪を指で梳いたりしながら。
わたしとしては本当は、その顔をちゃんと見たいところなのだけれど。

しかし他人の髪を触るなんて、なにが楽しいのか分からなかったけれど、なるほどこれは思っていたより心地よく、気持ちが良い。
一緒に迎えた朝、まだベッドのなかで微睡んでいる最中、彼がわたしの髪を撫でていたときもこんな気持ちだったのかな、なんて。
それになにより、

「ふふ、零、かわいい」
「……俺は格好良いって思われていたいけどな」
「ごめんごめん、いつも格好良いから、たまにこういうところが見れると、きゅんとしちゃって」
「……ん」

胸元に顔をうずめたままもごもごと話されると、くすぐったい。
けれど、体のなかへ直接響いてくるような感覚は、嫌いではなかった。

こんなに疲れた様子の彼も珍しい。
本人には決して言えないけれど、たまにこうして弱っている姿を見ると、胸がぎゅうと苦しくなってしまう。
本当は、こんなに疲れてほしくない、傷付いてほしくない、弱ってほしくない。
けれどもしそんな面を見ることが出来るなら、それはこの世界でわたしだけであってほしいとも思う。
独占欲だ、立派な。

「ごめんね」
「……なにが」
「零のこと、離してあげられそうにないなあって」
「それはこっちのセリフだ」
「ふふ、ありがとう」

髪をすいて、撫でて、褐色のうなじを指先でそっとなぞり、広い背へと手をまわす。
こうして彼の髪や肌を撫でていて、なによりも嬉しいのは「許されている」という一点に尽きた。

誰が想像できるだろうか?
「あの」降谷零が、こうして誰かに縋り付いているなんて。
わたしの指が人体の急所――後頭部や皮膚の薄い耳元やうなじに触れても、零の身体は拒絶の反応をちっとも見せなかった。
こうして隙間などないほどぴったりと寄り添っていれば、ほんの僅かな筋肉の緊張や強張りだってすぐに察知できてしまう。
けれど、わたしの手がいくら彼に触れても、全く嫌悪のそぶりは感じられなかった。
そのことが言葉に出来ないほどに、ただただ嬉しい。

「降谷零」という人間が普段どれだけ精神的に張りつめ気を配って、日夜捜査官としてその身を削っているのか知っている。
「降谷零」として、「安室透」として、「バーボン」として。
……もしもわたしに、どんな謎でも解いてしまう優れた頭脳があったなら、どんな相手でも制圧できる際立った身体能力があったなら、その他なんらかの特殊な技能を持っていたなら。
彼の身を守ることが出来たかもしれない。

無い物ねだりと分かっている。
けれど、同じ場所に立ち、同じものを見ることが出来ないというのは、悔しい。
わたしにもっと、ひとより優れたなにかがあったなら。
彼のためにわたしはなにが出来るだろう、どうしたら零と――ずっと一緒にいられるだろう。
そう思って泣いた夜だってあった。

そんなわたしに幼馴染の彼らは笑って言ったのだ。
「帰ってきたら、おかえりと言ってくれ」と。
だからわたしはいつだって彼らを――いまは零ひとりを、待っている。
幼馴染をひとり欠き、それでもわたしたちは生きている。
毎日、仕事で疲れて誰もいないこの家へ帰ったって、いまごろ零はどうしているのかな、なんて考えれば家事を億劫に思う気持ちも薄れるし、わたしを、この国をひたむきに守ってくれている彼のことを思うと、少しでも良い人間でありたいと心から思う。

「……なに考えてる?」
「零のこと」

胸元に顔をうずめたまま、零が囁く。
間髪入れず即答すれば、一拍置いてくつくつと笑われる。
揺れる肩と、声を抑えるためか僅かに強張る肩甲骨まわりの筋肉。
服越しにもはっきりと感じる、彼の体温。

ああ、生きてる。
わたしも、零も。

そっと体を離す。
もう満足したのだろうか、あるいはそろそろわたしが痺れを切らしたと思ったのだろうか、今度は抵抗もなくあっさり拘束は緩んだ。
俯いた彼の両の頬を両手で挟み込む。
ガーゼを当てられ、怪我だらけの頬へそっと手をそわせる。

「……やっと、顔、見れた」
「なまえ、」

薄く水分をまとった青い瞳がまたたく。
なんてきれいな目だろう。
むず痒いような、くすぐったいような、上手く言葉にできないもどかしい感情で、じんわりと目の奥が熱を持つような感覚がした。

首を下げ、かさついた唇へわたしのそれを重ねる。
触れ合った唇はやはり熱く、ああ、生きてる、と何度目か分からないことを考えて、目蓋を下ろした。

「……零、好き。だいすき。あいしてる」

だから、絶対に帰ってきて。

唇と唇を軽く触れ合わせたまま、ほぼ吐息のような囁きは、けれどゼロ距離で重なり合う彼にはしっかりと聞こえたらしい。
もう一度強く抱き締められたかと思えば、ああ、とかすれた声が返ってきた。

どうか、あなたが苦しまないでほしい。
傷付かないでいてほしい。
けれど、それを約束できない立場にいるひとだと分かっているから。
そんなあなたを誇りに思っているから。
どうか、必ず、わたしのところへ帰ってきて。

祈り

(2018.04.22)
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