(※死ネタ)




「みょうじッ!」

聞いたことがないような鋭い怒声。
爆発の衝撃で聴覚や平衡感覚が麻痺した頭でも、その声は暗闇を引き裂く朝日のように鮮明に聞こえた。

わたしの両肩をつかむ上司の顔からは、その下で様々な感情が溢れんばかり渦巻いているのが見てとれた。
彼のこれほどまでに取り乱した表情は初めて見る。
こんな状況なのに、そちらの方が印象強く、ふふ、と自嘲めいた笑みがこぼれた。

諸外国の要人たちが集まる東京サミットを来週に控え、メイン会場となる国際会議場を公安部の人間で点検している真っ最中のことだった。
タブレット端末を手に、見取り図や配管のチェックをしていた上司が眉をひそめた。

「どうしました? 降谷さん」
「会議場のネット整備が終わるのはいつだ」
「今日です」
「……そうか。鑑識に連絡を入れてくれ」
「分かりました」

液晶画面に映っていたのは、一階に入っているレストランの地下調理場の配管だった。
ガス栓を外部から、ネット経由で操作できる点に注目した上司に指示され、公安の鑑識に連絡していた最中。
突如、爆発が――いや、これが爆発だと認識できたのは二、三秒後だった――起こり、爆風でふわりと体が浮いた。
次いですさまじい勢いで叩きつけられた硬いコンクリートの感触は、しかし不思議と衝撃も痛みも感じなかった。

げほげと咳き込む。
酸素が薄い。
瞬間的に焼けついた粘膜のせいで喉の奥は引き攣れ、ひゅ、ひゅ、とおよそ人間の呼吸音とは思えないものばかり吐いていた。
左足の上には、爆発の衝撃で落下したおよそ三メートル四方の重たいコンクリートの塊。
元は外壁だったことがうかがえる瓦礫の下で、わたしの足がどうなっているかなんて考えたくもない。
なによりも最悪だったのは、それらの痛みを全く感じられなかったこと。
どこかの神経が切断されているに違いなかった。

熱い血潮が毛細血管の隅々にまでかけめぐり、どくりどくりとうるさく鳴り響く。
爆発の衝撃で未だ耳の奥でうわんうわんと反響する不快感に舌打ちしたい気持ちが沸き起こるも、それすら出来ない。
どうやら爆発が起こった瞬間に会場側へ向けていた右側の耳の鼓膜も破れたらしい。
ぱらぱらと降り注ぐコンクリート片やガラス片が、視界を一層悪くしていた。

いますぐ病院に運んでもらえば助かるかもしれないが、――この状況ではそれがなにより難しいと理解していた。
このままここにいる訳にはいかない。
建物全体の損傷が激しく、いま上司とふたりでいるここも崩落によって潰されるのは時間の問題だった。
しかし左足を縫い止める重たい外壁を退かすことは困難で、挙句どこからしらの神経がダメになっているいま、体を無理に動かすことは避けるべきなのは明白だった。
爆風にあおられ地面へ叩きつけられた際、内臓にもダメージを負っているらしく、口の中は血の味しかしない。

万事休す。
誰の目から見ても、即時わたしを助けるすべはないのは明らかだった。

幸い、わたしを助け起こそうとしている上司は、火傷や擦り傷を負っているものの、大きな怪我はないようだった。
さすが、公安きっての捜査官。

――こんな状況なのに、心は凪いでいた。
彼ならばきっとこの事件を解決してくれると、確信していたからだろうか。
あるいは。

「おい、みょうじッ、」
「ッ、はっ……ふ、降谷さん、そんな顔しないで……。必ず、犯人を……捕まえて、くださいね」
「なに当然のことを言ってるんだ」

声は不明瞭にかすれ震え、この熱風と黒煙の立ち上るなかではほとんど聞き取れないだろうに、さすがすこぶる優秀な上司は唇の動きだけで、わたしが何を言っているかきちんと把握してくれていた。
険しい顔で叱責する上司を見上げ、無理やり口角を上げる。
引き攣れる肉の嫌な感触に、眉をひそめている場合じゃない。

どうか、覚えていて。
わたしの笑った顔を。
わたしを置いて行くあなたを置いてゆくことを、どうか、許してください。

「そうですね、すみません……わたし、いっつも怒られてばっかりで、」
「みょうじ、」
「ひとつお願いがあります……。すみません、降谷さん、……はやく行ってください」

ごぷり、と血の塊を吐く。
白いシャツは勿論、グレースーツは見るも無残な有り様だった。
彼は知っていただろうか、――わたしがグレーのスーツを好んで着ていたことを。
少しでも彼に近付きたいと願っていた、愚かな女の恋心を。

「はやく、」

音にならないセリフも、さすが上司は正しく意味を汲み取ってくれたらしい。
一度、ぐ、と強く下唇を噛み締め、無言で上司は立ち上がった。
余計な感傷も、慰めや手向けの言葉もなかった。
それが本当に彼らしいと思う。

降り注ぐ火の粉は赤色というよりも、オレンジがかった梔子(くちなし)――謂わぬ色。

最後くらい、素直に言っても良いよね、と誰にともなく言い訳した。
足早に走り去るその広い背に向け、音にならない声で呟く。

「降谷さん、……お慕い、して、いました……」

――墓場まで持っていくつもりだった恋心は、ここでわたしと一緒に殉死するらしい。
いつどこで死ぬかも分からないこんな仕事に就くわたしが、最後に見るのが彼の姿だったなんて、いっそ恵まれているような心地すらして、また薄く笑った。

轟音が響く。
頭上からコンクリートの大きな塊が落下してくる。
目を閉じた。

降谷零、あなたの下で働くことが出来て、本当に良かったと思っています。
あなたの下で正義のために日夜生きることが、どれだけわたしの人生全てにおいて誇らしく、また、輝いていたことか。

どうか。
彼の進む道に例え暗闇が落ちることがあったとしても、いつか必ず、夜明けの美しい朝日が、あなたのその身を照らしますように。

くちなしの園

藤原道信「梔子(くちなし)の園にや我が身入りけむ 思ふこともいはでやみぬる」(千載集)より。


(2018.04.20)
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