――「闘争か逃走か(fight or flight)」。
1929年、米キャノンによって提唱された、「恐怖」に対する動物の反応だ。
「戦うか逃げるか反応」、「戦うか逃げるかすくむか反応(fight or flight or freez response」、あるいは単に「過覚醒、過剰反応(hyperarousal)」と呼ぶこともある。

動物は「恐怖」に反応して、交感神経系の神経インパルスを発し、自身に戦うか逃げるかを差し迫るという。
動物が敵から身を守るため、あるいは獲物を捕食する際、相当するストレス応答を、全身の器官に引き起こす。
ありていに言うと、アドレナリンによって交感神経が興奮した状態だ。
脳内で過剰に分泌されたアドレナリンは、肉体に様々な変化をもたらす。
例えば、心拍数上昇や血圧上昇、呼吸数上昇、気管拡張など、心臓や肺機能の強化。
また、出血時、血液凝固作用が向上し、筋肉がより早く、より強く可動できるよう全身が緊張状態に陥る。
顕著なのが痛覚の麻痺、そして、瞳孔の散大。

「――ねえ、どうして?」

彼の広い背中は傷だらけで、警察病院で手当てされてから一週間経ったいまも、ガーゼや包帯を日ごと交換しなければならない。
はくちょうが帰ってきた日、病院での治療後だったというのに血と硝煙のにおいをうっすらまとい、ボロボロの身体で帰ってきた彼を迎えたとき、言葉もなく泣いたのをいまもまざまざと覚えている。
胸の塞がるような息苦しさも、気が狂いそうなほどの安堵も一緒に。
にもかかわらず、怪我をしているはずの当人は毎日仕事に行くし、帰りは遅い。
わたしはこの家で彼の帰宅を待ち、食事を用意し、風呂上がりに手当てをする。
運が良ければそのままふたりで就寝するし、悪ければすぐに外出する彼を大人しく見送る。

「降谷零」にしか出来ないことがこの世界にはたくさんあると知っている。
なぜなら彼はあまりにも優れた頭脳と強靭な肉体、飛び抜けた能力を有しているから。
神さまなんて信じていなかったけれど、もしそんなものがいるというのなら、彼ほどソレに愛され様々なものを与えられた存在をわたしは知らなかったし、そして、苦しみと悲しみを負わされ奪われてきた存在もないと知っていた。

「……言っただろう。僕が動くことが最善で、なによりあのとき現場にいたのは僕だ」

――しかし同時に、彼がここまでする必要がないということも、わたしは理解していた。

褐色の背を向けたまま、静かな声で零が呟いた。
ここ数日の日課になってしまった手当てを終え、ぱたん、と救急箱の蓋を閉じる。
繰り返し聞いたそのセリフは、しかし、額面通り受け取るにはあまりにも透き通っていた。

「……零、わたしが気付いていないと思っていた?」

そこまで馬鹿だと思ってる? と、冗談めかして笑いまじりに言おうとしたにもかかわらず、口角は無様に痙攣するばかり。

「国のため、この国に生きているわたしたちのため……いつもそう言っているのは嘘じゃないって知っているよ。でも、零は嘘つきではないけど……正直でもないよね」

巻いたばかりの清潔な包帯な上から、そっと背中へ触れる。
左肩の怪我は特に重篤だったにもかかわらず、並はずれた治癒力によってもう塞がりはじめているらしかった。
肉が裂かれ血がこぼれたそこは、いまは消毒も済み真っ白な布に覆われている。
資格も免許も所持していないわたしが、これほど包帯を巻くのが上手くなったのは、ひとえに彼のせいだった。

幼い頃から無茶ばかりして怪我をこしらえてきた零を、どこかで止めていれば良かったのだろうか?
小学生のときに?
中学生のときに?
高校生のときに?
それとも、――警察学校に入校すると聞いたときに?

「ねえ、どうして」

また同じ言葉を繰り返す。
怜悧すぎる彼は正しくわたしの問い掛けを理解したらしい、薄く笑う気配がした。

「零、」
「――警備企画課の本来の仕事は、計画の立案、指揮……。でもな、なまえ、……デスク仕事ばかりで定時帰りの平穏な日常も、心配してくれる気立ての良い恋人も、……」

教科書をそらんじるような語調は、抑揚のない歌を口ずさむかのよう。
やわらかな脳髄を爪先で引っ掻くような、ぞっとする声だった。

――過剰に分泌されたアドレナリンは、動物の根源的な欲求である、食欲、睡眠欲、性欲、俗に言う三大欲求すら凌駕する。
つまりその感覚を覚えてしまえば、動物の欲求すらをも超える興奮や刺激が脳内で得られる。

「……れい、」

――怖かった。
それはまぎれもなく「恐怖」だった。

振り向かないで。
そのままでいて。
言葉は音にならず、祈りは呆気なく破られる。
いつもそうだ。
彼には不要なのだと、そのとき初めて気が付いた。
安定も安寧も、平穏も、ぬるま湯のような日常も、――そしてわたしも。

ゆっくりとこちらを振り向いた男の、目。
瞳孔の開いた瞳は恐ろしく爛々と光り、まるで夜明けを告げる、鮮烈な朝日のように輝いていた。
青いそれはまるで、見る者すべてを切り裂くような鋭利さで、動物として本能的な恐怖がぞわりとわたしの背筋をつたう。
口の端には薄い笑み。

「――お前が、」

ひ、と喉の奥で引き攣った声が漏れた。
けれどいまここにそのことに頓着する人間なんていなかった。
ここになにがいるのだろう、動物の恐怖以外に、なにが。

ガタンと大きな音を立てて、包帯や消毒液の入った救急箱が床へ落ちた。
次いで座っていたダイニングチェアも倒れる。
冷たいフローリングに背と肩をしたたか打ち付けて、一瞬呼吸がつまった。

「ッ、――はっ、零っ」
「お前がなにを分かっていて、なにを理解していないかなんて、どうでも良いだろう、……なあ、なまえ、お前は僕にとって、大切な存在だよ」

あおむけに床に転がったわたしの上へ、投げ倒した本人である零が覆いかぶさる。
大きな褐色の手によって、ぶつりと耳障りな音と共に、着ていたシャツのボタンが弾け飛んだ。
性急に重ねられた唇はよく知る彼のもので、目の端から涙がこぼれた。

やはり彼は嘘つきではないけれど、正直でもない。
きっと「降谷零」にとって、わたしという人間は言葉通り「大切な存在」なのだろう。
けれど、わたしは彼を繋ぎとめるすべを持たないと、そのとき痛感した。
いつかこのひとはわたしを置いていく。
わたしはこのひとを理解できない。

このひとの狂気を、わたしは。


(2018.04.19)
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